砂糖粒の夜空
ひと騒動はあったが、翡翠が無事でよかった。そう思いながら、徹は帰路についた。ボゼ神は海上に戻り、翡翠は人魚たちの来ない浅瀬に避難し、とりあえず当面はそこで過ごすと潜っていった。家へ戻る道すがら、かまど神がぽつんという。
「明日……お祭りかぁ」
言われて、徹は花の頭を掻いた。
「うん、そうなんだ。翡翠さんがやろうって提案してくれたんだ」
「張り紙をみたど。楽しそうだち思たよ」
「よかった。その、君に楽しんでもらえれば、俺も翡翠さんも嬉しいから」
するとかまど神は二っと笑った。
「徹、ないを作っちょっ?」
「お寿司とか、お酒とか、いろいろ……甘いものも用意する予定だよ」
「甘かもん? どんな?」
「ええっと、かき氷をね」
「かき氷?」
首をかしげた彼女に、徹は説明した。
「氷って知ってるかい? 水を凍らせた、冷たい塊なんだけど……。それを細かく削って、雪みたいにしたうえに甘い砂糖の汁をかけるんだ」
すると彼女は難しい顔をした。
「どげな味か、想像がつかんなあ!」
そう言いながらも、彼女の目はキラキラしていた。
「そっか。なら、明日食べてみよう」
すると、彼女は張り切って言った。
「そいじゃあ、いろいろ準備があっやろう。手伝ってあげもんそ!」
徹はほっとして、嬉しくなった。
「ありがたいな」
するとかまど神は、くしゃっと笑った。
「徹がいてありがてぇのは、あてのほうだよ」
その言葉を残して、さっとかまど神は身を翻した。
徹はしばらくそこから動けなかった。
かまど神の眩しい笑顔は、徹の心の閉じてしまった場所まで、照らすようだった。
いてくれて、ありがとう。そんな風に誰かに言われたのは、存在そのものに感謝されたのは、いつぶりだろう。徹は深く、力のこもったため息をついた。
(明日は……頑張って、楽しいお祭りにしよう。かまど神の、ためにも)
次の日は、夏雲が沸き立つ晴天だった。早朝の早い時間に、かまど神は徹の家へとやってきた。
「徹、何すりゃよかね?」
「わ、早いね!」
徹はすでに起きだして台所に立っていたが、この時間に彼女が着たことに驚き、そして嬉しかった。
「お祭りが楽しみで、手伝いにきたど」
にこにこ言うその姿は、ほんとうに小さな子のように楽しそうだった。それなら、と徹は手伝いを頼むことにした。
「それじゃあ、うちわであおいでもらっていいかな?酢飯を作らなきゃいけないからね」
「わかったど!」
徹が何か頼むと、それ以上にかまど神はくるくるとよく働いてくれた。じっとコンロの火を見て、こんな事を言う。
「今じゃ、ここをまわすだけで火が大きっなったり小さっなったりすっんやなあ。」
「そうだね。かまどよりは便利だろうなぁ」
昔の大変さを想像しながら、徹はしみじみといった。
「もっと昔は、火を起こす事から大仕事で―こんな風に料理に凝る余裕なんて、なかったんだろうな」
料理人とは、いつごろ生まれた職業なんだろうか。徹はそんな事をぼんやりと考えた。
「確かに凝っちょらんどん―同じくれ手間はかかっちょっち思うじゃ。火ん加減を見っだけでん一苦労じゃっでね。だけどあては、こうやって火ん面倒を見っとが、好いちょったなぁ」
「炉端の女神、だもんね」
「ふふっ…火種を継ぎ足したり弱めたり、けっこうコツがいっど。いつも上手っ行っわけじゃなか。手ぇ動かしながら、そん上ん鍋ん中ん物が美味くできっごつ、願を掛くるみてぇな気持ちでさ」
とろ火で煮立つ鍋を眺めながら、徹はふと思った。きっと人類がうまれて、火を使いだしたころから、かまど神はいたのだろう。
「そっか…君は僕よりも、本当にずっと年上なんだね。―すごい神様だっていうのも、わかる気がするよ」
するとかまど神は相好を崩した。
「そげん事言わるっと、照るっなぁ」
そう言いながらも、彼女は器用に手を動かしている。
「こん丸い寿司は可愛かねぇ。初めて見ゆっ」
「手毬寿司って言うんだよ。お雛様の日になんか、よく作ってたなぁ」
一人一人取る事ができるので、多人数の食事にはぴったりだ。まぐろに鯛に、きゅうりや卵。色とりどりの手毬で、大きな櫃がいっぱいになる。それを見てかまど神は満足げににっこりした。
「ええねぇ。そっちの鍋ん方は出来ちょっ?」
寸胴鍋と言っていいほど大きな鍋で、徹はクロダイをまるまる2匹もつかったあら汁を作っていた。
「ああ、もう完成だよ」
かまど神という優秀なアシスタントのおかげで、予定よりも余裕をもって料理は出来上がった。手毬寿司にあら汁、それに冷凍庫にはたっぷり氷が入っている。
二人が料理を運び出そうと台所を出たその時、ガラガラとドアがあいて恵さんが入ってきた。
「徹くん、手伝いに―ありゃ」
恵さんとかまど神の目が合った。
「こん子は?」
徹は驚いた。恵さんにも、かまど神が見えるのか。一体どう説明しよう。
「ええっと、その―お、俺の友達で」
徹があたふたしている間に、恵さんは以前のごとく自ら答えを出した。
「…なんだか、おはんを知っちょる気がするよ。なんでやろうね」
恵さんは膝を降り、かまど神を目線を合わせた。かまど神は彼女を目をじっと見つめ返した。
「あても知っちょっ―おはんの事。良う知っちょっ。煮物が得意なおっかあやなあ。じゃっどん時々火を消し忘るっ」
かまど神と恵さんは見つめ合った。二人の間で、何か言葉にならない了解のようなものが交わされたのがわかった。かまど神が差し出した手を、恵さんは握った。
「これから神社で準備をすっところなんじゃ。一緒にきてくるっ?」
「もちろんじゃ」
二人が手をつないで歩き出すと、まるで祖母と孫が散歩しているようなほほえましい光景となった。徹はそれを眺めながら、後ろからついていくことにした。
「さて…と、飾りつけなんて、どうかねぇ。徹くん―」
恵さんは、すでに大荷物を神社に運び込んでいた。徹は彼女の指示に従って、紐付きのたくさんの提灯を木々の間につるした。時々蚊取り線香も吊るす。
「虫がやかましくって、たまらんからねぇ―」
かまど神がやりたがったので、徹は彼女を持ちあげて、提灯に火を入れてもらった。だんだん暮れてきた神社の木々の間で、提灯はひとつひとつ、蛍のように光った。
「わぁぁ」
その光景に、彼女は見た目相応の無邪気な声を上げた。
「わっぜよか眺めやなあ、こうやって提灯がゆらゆらしちょっは」
「そうだね。綺麗だ」
夢中で木の上の提灯たちを眺めるかまど神。大人二人は折り畳みテーブルを出して、料理を広げていった。
揺らめく灯りの下の、ささやかな宴会場。徹と恵さんは顔を見合わせた。
「よぉし、こんなもんかねぇ」
「ですね」
日が暮れ初め、空にオレンジと薄紫が混ざり始めていた。最初に漁師のおじさんたちが、お酒を手にやってきた。
「おお、もうやっちょっけ」
「焼酎、よかひこもってきたぞお」
「こりゃ、うまそうなあら汁じゃな!」
あっという間に酒が汲み交わされ、神社は宴会ムードに包まれた。
「徹、なんでまた今日、宴会をしようち思うたんじゃ?」
そう聞く漁師のおじさんに、徹は酒を注ぎながら説明した。
「この島、星が綺麗で本当に驚きました。せっかくだから、一番きれいに見える日に、皆で見れればと思って」
「旧暦ん七夕って、今日なんじゃな。たしかによう星が見ゆっ。なぁ恵どん」
「そうさねぇ、本来星を見るための日じゃってね…」
しみじみと言って、恵さんは空を見上げた。提灯を灯した木々越しでも、その星空はまばゆいばかりだった。
東京の薄暗く、薄明るい、一晩中真っ暗にはならない夜空とは違う。この島の暗闇は本物だ。その分星や月の輝きも力強い。まるで輝く砂糖粒を一面にばらまいたように、数えきれないほどの星が輝いている。最初見上げたあの時、この壮大な景色は徹の悩みをしばし忘れさせてくれた。
かまど神のために開いたお祭りであった。が、星を見たいというのも徹の本心だった。
「本当に、綺麗な星空です」
そうつぶやく徹を、かまど神は少し離れた所でにこにこ見つめていた。




