巻き取り魚釣り
「翡翠さぁ!」
ぽとん、と目の前に、泡とともに女の子が落ちてきた。
「い、いも子」
こんな所になんで、どうして。茫然とする翡翠の手を、かまど神は網にてを突っ込んで無理やり取った。
「早よ行かんと! ほら!」
手を掴まれて、翡翠はかまど神の細い指を握り返そうとした――が、迷った。
(いも子の力じゃ、網にくるまれた私を助けて、逃げるなんて無理だわ――だって)
翡翠は落とされた方向を見た。すでに姉たちが、かまど神が来た事に気が付いて、こちらに向かってきている。
「ダメよ、いも子逃げて。あんたも捕まっちゃう。そんなのぜったい駄目……!」
しかしかまど神は、たのもしくにっと笑った。
「大丈夫!しっかり捕まってたもし!」
「だから、えっ、あぁ!?」
次の瞬間、翡翠の身体はかまど神と共にぐいっと上にひっぱられていた。波をかき分けて、強い力でぐんぐんと上昇していく。
(ど、どういう事なの?!)
動揺する翡翠の身体を、かまど神はぎゅっと掴んで離さない。まるで守られているような心地だ。だけど、小さな神である彼女に、こんな馬鹿力が出せるはずがない。
しかしその謎について考えている暇はなかった。すさまじい速さで姉姫たちが追い付き、かまど神から翡翠を取り戻そうとした。
「癸姫!逃げるなんて許さない!」
小さなかまど神の周りに、姉人魚たちが何人も取りすがる。彼女らは一様に焦って必死の顔だった。
「ここでアンタに逃げられたら……!」
「お父様に何ていわれるか!」
あまりに姉たちが引っ張るので、かまど神が上に上るスピードが鈍くなる。翡翠は言い返した。
「いいじゃない、あの人は処刑の現場には興味ない。私は突き落として死んだってことにすれば!」
「ダメよ!」
「そうよ!」
翡翠は言いつのった。
「もう絶対に、あの家には戻らないって約束するわ!だから見逃して!」
しかし姉たちは口々に翡翠を非難した。
「ダメよ……!自分だけいい思いをしようなんて、許さない」
「そうよ!自分だけ自由になって、勝手にどこか行って……!」
「父さまじゃない、別の男の所にいくなんて……!」
追いすがってくる彼女らのその言葉に、翡翠はぞっとした。
姉たちの、いいや、私たち皆の、まぎれもない本心。
(本当は、嫌なのよね……! 皆、あそこに縛られて、父さまのいいなりの奴隷になっているのは)
そこでいちかバチか、翡翠は言ってみた。
「じゃあ、姉さまたちも逃げればいいじゃない!一緒に逃げましょう!?」
すると、彼女らは怯えたように身をすくめた。
「できないわ――そんなこと」
「父さまを裏切るなんて」
「そんな事したら、私たちみんな野垂れ死によ。だって他に仲間なんていないもの」
翡翠を批判する声が、どんどん声高になっていく。その流れを、黙ってきいていたかまど神が止めた。
「おはんら、少しだまらんせ!」
小さい体から発される毅然としたその声に、声高だけど陰気な姉たちの声はぴたりと止まった。
「あんたたちの気持もわかっ。でも、ちっとわがままじゃっど!自由がなかとが嫌、でも出て行っことも嫌だなんち」
そこでかまど神は諭すように、声のトーンを静かにした。
「何かを変えたいなら、自分でどげんすっか選ばなきゃいかん。どっちもなんち、都合のいい事は出来んだ。翡翠さぁはそよしたから、どうか邪魔せんでたもし。なっ?」
最後は笑顔でそう問いかけた。姉たちは気まずげに顔を見合わせた。しかし……。
「人間の神様のあんたに、何がわかるのよ!」
「そうよそうよ!私たちにかかわらないでちょうだい」
「あんたの管轄は地上だけでしょ!」
口々に怒りながら、姉たちはかまど神から翡翠をもぎとろうと無理やりその腕をつかんだ。
「ちと待って!」
「癸姫! 戻るのよ」
「私たちのために死んで!」
その言葉に、かまど神は思わず大きな声を出す。
「なんちこと言うね!そいでもおはんら、翡翠の家族なんか!」
翡翠は必死にかまど神にしがみついた。かまど神の上に上がる力と、姉たちのひきずり下ろす力が拮抗する。しかし、小さいかまど神と翡翠で、複数人の姉たちに勝てるわけもない。万力で引っ張られ、かまど神と翡翠はだんだんと下へと下ろされていく。何本もの手に無理やり引きはがそうと引っ張られて、翡翠の頭に諦めがよぎる。
(そうよ、無理だわ、ここで逃げおおせるなんて……)
このままでは、かまど神まで巻き添えになってしまうかもしれない。そう思った翡翠は自らかまど神を手放そうとした。
「翡翠、諦めんな!」
なおもそう言うかまど神に、翡翠は笑った。彼女の前では、悲しい顔など見せたくない。
「いいのよ、いも子。いままでありがとう――」
こんな一生だったけど、いも子、あんたに会えてそれだけはよかった。翡翠はそう思いながら、かまど神にしがみつく指の力を抜いた。
その時。かまど神が起こった顔で、手を後ろにまわしてぐいっと何かを引いた。
「仕方なかぁ、最終手段じゃっ!」
「わぁ、あ、あー――!?」
今度こそ、翡翠は本気の悲鳴を上げた。海の水がざぶんとうねって、翡翠とかまど神をその場から無理やり押し流したのだ。抵抗などできない、大きな力だった。でも、不思議と怖くはない。
いつもの嵐の波とは違う。まるで意思があるような、明確な波だった。
「こ、れ……どういう、こと、」
軽く数キロは流されただろうか。姉たちは遥か彼方で、途方に暮れているに違いない。そう思いながら翡翠はかまど神に状況の説明を要求した。
「まっ、とりあえず、上にあがりもんそ」
そう言うので、翡翠はかまど神と共に海面を目指した。ざばりと顔を出したそこには――
「ああっ、翡翠さん!」
「よかったね。無事救出に成功、だ」
翡翠は素っ頓狂な声を出した。
「徹と、ボゼ神!? な、なんでこんなとこにいんのよ!」
いつも通りにやけたボゼ神は思わず食ってかかった翡翠に、徹が答えた。
「翡翠さんがなんだか危ない事に巻き込まれてるから……心配になって、皆の助けを借りたんです。それで」
かまど神はぱっと腕を開いた。その細腰に、太いしっかりとした縄が結わえられているのが見えた。
「これを着けてもろて、徹に巻き取り機?ちゅうもんでひっぱってもろた!」
徹の乗っている小舟を見ると、たしかに船尾にいかつく光るレバーつきの歯車が光っていた。
「俺は海底に行けないから……それで、なんとか翠さんをひっぱりあげられないか、って。でも……」
言いよどんだ徹の先を、ボゼ神が受けた。
「それだけでは力不足だったね。最後は俺が波を起こして一件落着させたのさ。他種族でも、このくらいの介入なら許されるだろう?スイートハート」
なるほど。それでかまど神が上昇していたのか。図ったように大きな波が起きて、二人を運んでいったのか。
ほっとしたような、恥ずかしいような、嬉しいような。そんな気持ちで、翡翠はふうと息をついた。
「ありがとう、いも子。それに徹も」
「翡翠さんが無事で、本当によかった」
ほうとため息をつく徹に、ぎゅっと翡翠の手を握るかまど神。
「翡翠がいねくなると思っと、ぞっとする。もう、こげな事はなしにしてほし…!」
その訴えは切実だった。かまど神の涙声につられて、翡翠もなんだか涙腺が緩んでくる。
「な、なによ。私だって、私だって……最後、いも子とお祭り行きたかったな、って」
「じゃあ行こ、明日、お祭り。一緒に行っがなよ、ああよかったぁ」
ぎゅっと抱き合う二人の後ろで、ボゼ神のぼやく声がした。
「おいおい、スイートたち。俺にはお礼もなしかい」
徹がそれを受けて笑う。
「ま、まぁその……ありがとうございました、ボゼ神様」




