八月十四日 午前十時三十分 (1)
「良い天気になって良かった」
博多港に向かう車内で、再び窓の外に目を向けながら有紀が言った。空は雲ひとつ
無い快晴だった。車窓から射し込む陽の光を受けて、有紀の頬には長いまつげが影を
落としていた。
「ええ。だけど波は高いみたいです。なんでも台風が近づいているとかで。乗船する
予定の高速艇は波に強いそうですが、多少は揺れるんじゃないかな」
現在、九州の南には台風が接近していた。
「ずいぶんと大きな台風らしいですね。直撃はしないみたいですけど」
二人は昨日の昼過ぎに博多に到着していた。博多は天気が悪く、薄曇の空からは
しとしとと雨が落ちていた。移動による疲労を考慮してか、高速船のチケットは博多着
の翌日に取られていた。
「せっかくだからどこか行きません?私、行ってみたいところがあるんです」
生憎の天気とはいえ、はるばる博多まで来てホテルに篭っているのはもったい
ない。有紀の誘いに乗り、観光することにした。
曇り空に向かって伸びる福岡タワーは鈍く輝いていて、使い込まれた刃物を連想
させた。
有紀の行ってみたいところ、とは友泉亭公園だった。雨の中の日本庭園は悪く
なかった。むしろ晴れ空の下よりも、趣があって良いくらいだった。もらったパンフレット
によると、池泉回遊式という様式の庭園らしい。たっぷりと和の雰囲気を楽しんだ二人
は、夜には屋台街へ出かけ、一緒に夕飯も食べた。傍目に見れば、初々しいカップル
に見えただろう。
博多港は思ったほど風は強くなかった。緩やかな風に吹かれ、タクシーを降りた
有紀の髪がなびいた。髪を抑える有紀の中指で、シンプルなデザインの指輪が
光った。二人の前に一隻の美しい高速船が停まっていた。川崎ジェットフォイル九二
九型、ヴィーナス二号という女神の名が付けられた船は、白い船体に赤いストライプ
が眩しい。最高時速約83キロという速度で、博多対馬間をわずか二時間十分で
結ぶ。二人はヴィーナス二号に乗り込むと、窓際の座席に腰を下ろした。
午前十時四十分、ヴィーナス二号は定刻から十分遅れで博多港を出発した。川崎
ジェットフォイル九二九型は、高速航行に入ると船体が浮き上がる構造になっていて、
波の影響を受けにくい。そのおかげか揺れはほとんど無かった。
二人の傍らで通路を走っていた男の子が転んだ。何か買いに行くところだった
らしい、その手から数枚の硬貨がこぼれ落ち、一枚の百円硬貨が圭の足元まで
転がった。男の子はすぐに立ち上がり、放り出してしまった硬貨を慌てて拾った。圭は
右手で硬貨を拾うと、軽く握った拳を差し出した。
「ありがとう」
男の子が手を差し出し、その上で圭が右手を開いた。しかし百円玉は落ちてこな
かった。
圭が怪訝そうな表情を浮かべる。きょとんとする男の子を前に、圭が右手を軽く
揺すった。それでも百円玉は出てこない。男の子の顔がくしゃくしゃと歪み、今にも
その目からは涙がこぼれそうだ。
「あ、ごめん。こっちの手だった」
そう言って圭は軽く握った左手で、右手の甲をぽーんと叩いた。その瞬間、まるで
右手を通り抜けるようにして百円玉が現れ、男の子の手に落ちた。
「危ないから走るなよ」
眼をぱちくりさせる男の子を笑顔で送り出し、圭が体勢を戻すと、そこにはもう一人
目をぱちくりさせている人間がいた。
「今のどうやったんですか?」
笑顔を浮かべると、圭は財布から五百円硬貨を取り出し、それを右手で軽く握った。
有紀に手を出すように言い、その上で拳を開く。
やはり硬貨は落ちてこない。
「こういうことです」
開いた右手をひっくり返すと、硬貨は掌のちょうど真ん中にぴったりと収まっていた。
ひらひらと右手を振っても、それは変わらなかった。
「パームといってコインマジックの基本テクニックです。練習すればすぐにできるよう
になりますよ」
そう言って右から左、左から右へと硬貨を飛ばして見せた。次いでそれは吸い付い
たように親指で運ばれ、親指から人差し指、人差し指から中指と、硬貨は指の付け根
でくるくると回り、差し出したままだった有紀の掌に納まった。