八月十四日 午前十時 (3)
有紀と顔を合わせるのは、あの晩以来だった。いくつか離れたテーブルで、楽しげに
話す女子高生の声が聞こえてくる。どうやら学校に気に入らない教員がいるらしい。
大きな声で辛らつな言葉を吐いていた。圭がカップから顔を上げると、それを待って
いたかのように、有紀は鞄から一通の封筒を取り出した。その封筒には見覚えが
あった。数日前に自分のところに届いたのと同じものだ。差し出された封筒を手に
取り、じっくりと眺める。やはり切手や消印がない。封筒は丁寧に封が切られていた。
「中を見てください。三日前に届きました」
確かめるまでもなく、中身は手紙とチケットだった。手紙の内容まで判で押したよう
に同じ。ただしパソコンで作成したものを印刷しただけというのではなく、どちらも綺麗
な字で手書きされていた。
圭にとってこれは予想の範囲内であった。
彼女の方が、ずっと工藤信也の近くにいたのだ。圭に招待状が届くなら、有紀にも
届いていると考える方が自然である。それらに一通り目を通すと、圭も鞄の中から
封筒を取り出した。
「中身はあなたのところに来たものと同じです」
手紙をざっと読んだ有紀は、丁寧に畳んで封筒に戻した。その封筒を圭のほうに
押し返す。
「あまり驚いてはいないようですね」
「手紙の内容を読んで、もしかしたらと。確信があったわけではありませんけど」
自分の封筒を鞄にしまいながら有紀が続けた。
「それで、水野さんはどうするおつもりですか?」
圭はゆっくりと首を横に振った。
「僕は行きません。チケットも送り返すつもりです」
さも当然といった口ぶりだったが、これは半分本音、半分は嘘であった。圭にも
迷っている部分があったのだ。
「そうですか…。ご一緒していただければ心強かったのですが」
そう言うと有紀はグラスをストローでかき混ぜた。氷が溶けて、グラデーションを
描いていたアイスティーが均一になった。薄くなったアイスティーに目を落とし、
しばらくの間ぐるぐると液体を回していた。
グラスをテーブルに置くと、有紀は意を決したように視線を上げた。
「あの、それでは私にあなたを雇わせてください。一年前、斉藤先生が依頼した
ように」
ストローを弄ぶ有紀の手元を見つめていた圭は、左肘をテーブルに突くと、頬杖を
突きながら目の前に座る女性を見据えた。
「どうしてそこまでこだわるんです?この招待を受けることで、あなたにメリットがある
とは思えない。私を雇うとなれば費用が掛かります。それは決して少ない額では
ありません。そこまでして行く理由はなんですか?」
その視線をまっすぐに受けとめて、有紀が答えた。
「事件の直後、私のところに来たのは本人ではなく、彼らの弁護士でした。それが
一年も経った今頃になって謝罪したいなんて。なにかおかしくありませんか?」
それは圭も感じていた疑問だった。しかしあえて同意はしない。
「この手紙が、ある種の脅迫を含んでいることに気づいていますか?僕の名刺には
住所の記載はありません。携帯電話の番号と、メールアドレス。名前の他はそれだけ
です。もちろん電話帳にも載せていない。その僕のところに封筒を届けたということ
は、『お前の居場所を知っている』という意思表示ともとれます。それも郵送ではなく、
わざわざ自分の手で届けている。それを理解したうえで、それでも確かめに行きたい
のですか?」
有紀は頷いた。
「そこまでして私たちを呼び寄せたいのには、相応の理由があるはずです」
隙間無くピッタリと合わさった膝の上に、両手が重ねて乗せられていた。バランス
よく配置された大きな眼に見つめられながら、圭は見た目とは裏腹なこの女性の強さ
を感じていた。自分の恋人、それも同棲していた相手にショットガンで撃たれる、
なんて経験は普通に生きていればまずしない。心的外傷後ストレス障害になっても
おかしくない。そんな経験をしていながら、この女性は抱いた疑問を解決するため、
自ら困難な状況に飛び込もうとしている。
確かに、この招待状はなにか変だ。百歩譲って有紀の元に招待状が届くとしても、
自分のところにまで送られてくるだろうか。かすり傷を負ったとはいえ、所詮は仕事を
請け負っただけの人間に。その違和感がチケットを処分することを躊躇わせ、
受け取りから数日経っても封筒を手元に残させていた。圭は詰めていた息を大きく
吐き出し、両手をテーブルの上で組むと、まっすぐに有紀を見つめて言った。
「依頼はお断りします」
有紀の表情が明らかに沈んだ。
「でも島へはご一緒しましょう。実を言うと僕も同じ疑問を抱いていたのです。
それに」
言葉を途中で切ると、先を促すように有紀が圭の目を覗き込んだ。
「知ってしまった以上、勝手に行けとは言えません。一人で行かせるのは心配です
から」
ほっとしたように微笑む有紀の口元に、歯並びの良い真っ白な歯が覗いた。圭は
有紀の美しい顔立ちが、笑顔によってさらに魅力的になることを認めざるを
得なかった。