八月十四日 午前十時 (2)
翌日、圭がベッドの上で暇をもてあましていると、シュークリームを手に有紀が
見舞いに訪れた。
「足の具合はどうですか?」
「大丈夫です。もともとかすり傷ですから」
そう言って微笑むと、有紀が驚いた声を出した。
「意外に表情豊かなんですね。昨日はもっと石膏像みたいな人なのかと
思いました」
それを聞いて圭が噴き出す。
「そんなに面白いこと言いました?」
不思議そうに見つめる有紀に圭が謝った。
「すみません。石膏像に例えられたのは初めてだったので。仕事中は感情をあまり
表に出さないように心がけていますから、そういう風に見えるのかもしれませんね」
二人はシュークリームを食べながら世間話をした。
「明日退院なんですよね?」
口角についたクリームをふき取りながら、有紀が尋ねた。
「退院したら食事にでも行きませんか?どうしても昨日のお礼をさせていただきたい
のです」
ありがとうございます、と言ってから、一息置いて続けた。
「お気持ちだけで十分です。それに報酬はちゃんと頂いていますから」
それでも有紀は引き下がらなかった。なかなか頑固なところがあるらしい、
どうしてもと言って譲らない。
「わかりました」
ついには圭が折れた。
「その代わり、お店はボクに任せてください。それでもいいですか?」
もちろん構わないと言って、有紀は携帯番号と住所を記したメモを置いて帰って
いった。
翌朝、圭は病院から自宅に向かう電車の中で、有紀にメールを打った。
「十六時に迎えに行きます。ほんの少しオシャレをして待っていてください」
そして十六時、圭はタクシーで有紀の部屋を訪れた。ベロアのジャケットを着た圭を
見つけると、小走りで近づいた。自動ドアを抜けて現れた有紀は、ブラウスの上に
白いカーディガンを羽織っていた。開いたドアの脇に立つと、頭がぶつからないよう
に、ドアフレームを手で押さえる。有紀が後部座席に収まり、圭が乗り込むと、何も
聞かずにタクシーが発車した。
「どこへ向かうんですか?」
有紀は期待七割不安三割といった表情で尋ねた。
「着いてからのお楽しみです」
とだけ言う圭はいたずらっぽく笑っていた。
タクシーは一軒のレストランの前で停まった。
「ここですか?」
圭はほんの少し左に頭を傾けると、有紀に歩き出すよう促した。二人が扉の前まで
来ると、内側から扉が開かれた。背の高い外国人ウェイターが爽やかに出迎え、何も
言わずに隅の席へと案内した。
「ウェイターとも顔見知りなんですか?」
有紀が声を落として尋ねた。
「実は外国人向けの日本語講師もしていて、シェフがボクの生徒だったんですよ。
サービスしてくれるのでちょこちょこに来るんです」
有紀に顔を近づけると、小さな声で続けた。
「実を言うと、ちょっと不真面目な生徒なんですよ」
「聞こえてマスよ」
気がつくとテーブルの傍らに、コック帽を脇に抱えたシェフが立っていた。がっしりと
した体格で、やや腹が出ていた。活力にあふれる雰囲気は若々しくも見えたが、
茶色い髪の毛には白いものが混じっていた。
「こちらがシェフのアレッシオです。僕が教えている中でも一番優秀な生徒ですよ」
圭が姿勢を正し、有紀にシェフを紹介する。アレッシオは満足気に笑顔を浮かべた。
圭に見えないように体を傾けると、そっと有紀にウインクした。
「今日もおまかせでいいデスカ?」
アレッシオが顔を圭に向き直り、尋ねた。圭が頷くと、軽く頭を下げてテーブルを
離れた。そこへ入れ替わりにソムリエがワインを手に現れた。
「一九九九年のタウラージです」
ワイングラスに赤ワインが注がれた。三四回グラスを回し、圭が一口含む。
「美味しいですね」
「でしょう?私もオススメのワインなんですが、先ほど帰られたお客様は気に入ら
なかったみたいです」
有紀のグラスにもワインを注ぐと、ウェイターは圭にそう耳打ちした。ボトルを置いて
ウェイターが下がった。
「こんな馴染みの店があるなんて」
独り言のように有紀が呟いた。
「実は秘密があるんですよ」
そう言って圭がいたずらっぽく笑う。
「実はさっきのワイン、既にコルクが抜かれていたのに気がつきました?」
有紀が首を横に振った。
「ここのソムリエの舌は抜群なんですが、中には出されたワインが気に入らない人も
いるんです。一度開けてしまったワインは普通、他のお客には出せません。それに
このテーブルです」
「テーブルは普通ですけど」
有紀がテーブル表面を撫でた。
「ここは厨房の出入り口に近いでしょう?ソムリエやウェイターが頻繁に行き来する
から、シェフはお客を座らせたがらないんです。だから普段は花瓶の専用席
なんですよ。だから飛込みの上に格安で食事ができるわけです」
「なんだか手品みたいですね」
有紀はワイングラスを手にしたまま、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「友達のよしみとはいえ、迷惑な客ですよね」
そう言って笑ったところに、ウェイターがピザを運んできた。
「マルゲリータインテグラーレです」
二人はピザに手を伸ばした。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。
「さて、そろそろ行きましょうか」
腕時計に目をやり、圭が立ち上がった。ウェイターが開けてくれたドアを抜けた。
「あの、お支払いは?」
右手を上げ、タクシーを停める圭に有紀が尋ねた。
「チェックならさっき済ませておきました」
「そんな。それじゃあお礼になりません」
タクシーが停まり、圭が笑顔で振り向いた。
「いいんですよ。僕はすごく楽しめましたから。それだけで十分です」
完全には納得していない様子の有紀をタクシーに乗せた。
「講師特別価格ですから。気にしないでください」
自らも反対側から座席に納まると、そのまま有紀を送り届け、圭は帰路に就いた。