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八月十四日 午前十時 (1)

 圭は有紀の横顔を見つめていた。有紀の後ろでは博多の町並みが流れていく。


それまでじっと窓の外を見ていた有紀が、視線を感じて振り返った。


 「どうかしました?」


 有紀が少し首を傾げた。まばたきに合わせて長いまつげがしばたく。圭は黙って


首を横に振った。圭は二人が出合うきっかけとなった依頼について、そして博多に


来る原因となった出来事について思い出していた。二人はタクシーの車内にいた。


 有紀を連れ出してからおよそ一年。その日、買い物から帰った圭は、郵便受けに


入った一通の封筒に気が付いた。郵便が来るような時間帯ではない。今朝届いた分


は、とうに部屋に運んだはずだ。ダイアル式のロックを解除し、やや厚みのある封筒を


取り出す。それを見る圭の眉間にしわが寄った。


 それは奇妙な郵便だった。


 いや、正確には郵便ではなかった。封筒には切手も消印もない。ただ宛名として


「水野圭様」と書かれているだけである。


 買い物袋の中身を冷蔵庫にしまい、封筒を手にデスクに座る。光に透かして見た


が、中身は見えなかった。高価な厚手の封筒であるらしい。その口は蝋と焼印で封が


してあった。触ってみて中身が紙であることを確認し、圭はびりびりと封を切った。


驚いたことに送り主は工藤信太郎。有紀を連れ出したときに一悶着あった、工藤信也


の父親だった。中には一通の手紙とともに、羽田発博多行きの航空券と、対馬までの


高速船のチケットも同封されていた。手紙の内容はこうだ。


 昨年、息子が起こした事件を大変申し訳なく思っている。私は対馬の西に浮かぶ


小島に別荘を持っていて、毎年夏に知人を招いて休暇を過すことにしている。お詫び


を兼ねて今年はぜひ招待したい。


 工藤の父親というのは相当な資産家であるらしかった。信也が使っていたあの部屋


も、彼の父親が買い与えたものだったらしい。そのおかげでろくに仕事をしていなくて


も、住む場所にまで困るという事態にはならなかったのだ。事件から数日後には彼の


顧問弁護士を名乗る人物が現れ、慰謝料としてかなり多い金額を提示した。


 手紙を受け取って数日後、圭の元に有紀から電話があった。


 「突然電話してごめんなさい。どうしても相談したいことがあるんです」


 直接会って話がしたいという有紀と、翌日に会う約束をして電話を切った。


 翌日、待ち合わせた時間に圭が店に着くと、有紀はすでに座って待っていた。


入ってきた圭に向かい、ぺこりと頭を下げた。かなり早めに着いていたのだろう。


テーブルに置かれたグラスの氷がほとんど溶けきっていた。何か新しい飲み物を


買ってきましょうか、という圭の提案を有紀はやんわりと断った。


 「お久しぶりですね。この一年間どうされてました?」


 そう聞かれて圭は肩をすくめた。


 「英会話教室が夜逃げ同然に閉鎖したのが、最近ニュースにもなったでしょう?僕


の勤め先も似たようなことになりまして。講師の仕事は休業中です。副業の方をぽつ


ぽつとこなしながら過していました」


 「私はあのあと大学に戻ったんです。斉藤教授の助手として」


 勝手知ったる大学なら働きやすいでしょう?という質問に、有紀は首を横に振った。


 「それがまったく。当時私は当時学生でしたし、学生と職員では勝手がまるで違い


ます。日々戸惑うことばかりで、最近になってようやく慣れてきたところです。それに


学生の考えることもよくわからなくて。私が年を取ったせいじゃないと信じたいんです


けど」


 有紀は微笑んで、とうに薄くなったであろうアイスティーに手を伸ばした。会話が


途切れ、二人の間に静寂が流れる。圭もアイスコーヒーに口をつけた。


 有紀と顔を合わせるのは、ほとんど一年ぶりだった。あの日、圭が握った


モスバーグEPは、的確に工藤の側頭部に命中した。綺麗に振りぬかれた一撃を


受け、今度は工藤が地面に転がる番だった。間もなくして、けたたましいサイレンと


共にパトカーが駆けつけた。ノックアウトされた工藤は警官に付き添われ、そのまま


救急車に乗せられた。救急車は二台到着し、二人はもう一台の救急車で病院へと


運ばれた。圭は右太腿から出血しており、救急隊員によって車内で止血処置が


施された。


 病院に到着した圭は、簡単な診察のあとにレントゲンを撮られた。その結果、圭の


太腿には大小四つ、ごく浅いところにではあったが、レンガの破片が埋まっているの


が見つかった。医師はそのまま処置室に運び入れ、局所麻酔を施すと、切開して


破片を取り出した。


 「持って帰りますか?」


 処置を終えた医師は、シャーレに乗せられた破片を手にニコニコしながら尋ねた。


 「処分してください」


 圭がそう告げると、医師は机の隅にそれを置いた。


 「麻酔も打ちましたし、二日ほど入院してもらいますが、荷物を持ってきてくれる


ご家族の方はいますか?」


 思いつく限り、そんな人間はいなかった。入院着は貸してもらえるということで、下着


や歯ブラシを売店で購入すれば、二日くらいはなんとかなるだろう。看護師に車椅子


を押してもらい、処置室を出ると、有紀が斉藤と共に立っていた。


 「遠藤さんに怪我をさせてしまい申し訳ありません」


 圭が頭を下げると、斉藤も恐縮して頭を下げた。


 「いいんです。膝をすりむいたくらい。その程度で済んだのは水野さんのおかげ


です」


 そんなやりとりをしていると、看護師が一つの大部屋の前で向きを変えた。部屋の


中には六台のベッドが収められており、非常に狭い。その様子は野戦病院を連想


させた。


 有紀に車椅子を押してもらい、売店で必要なものを買い揃えた。一人で行けると


言ったのだが、有紀がどうしてもと折れなかったのだ。斉藤は一足先に帰っていった。

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