プロローグ (4)
二人は六階分の階段を一気に下りた。圭は呼吸一つ乱れていないが、一方の有紀
は少し息が上がっている。
「少し休みますか?」
その様子に気付いた圭が気遣う。有紀は大丈夫ですと答えた。依頼によっては対象
を探し出すより、連れ帰るほうが大変だったりする。家出した高校生の娘や、出て
行った妻の捜索なんて依頼もいくつかこなしたが、見つかったからといって「はい、
じゃあ帰ります」とはいかないケースの方が多かった。今回は多少状況が異なるが、
有紀が素直で助かる。いや、だからこそあんな男に捕まったのか。
圭は外の様子を伺うようにして、薄く扉を開けた。工藤の姿は見えない。外から
ロビーの中を覗くが、残念ながらエレベーターは死角になる。
「通りへ出てタクシーを拾いましょう」
そう言うと有紀の手を引いて歩き出した。マンションの横を通る小路を抜けた。道を
挟んだ隣は別のマンションが建設中で、白く背の高いフェンスが敷地を囲むように
ぐるりと巡らせてあった。
「あの、もう手を引いてもらわなくても大丈夫です」
それを聞いて有紀の手を離した。少し小走りになり、隣に並びながら有紀が礼を
言った。
「今日はありがとうございました」
「仕事ですから。それに斉藤さんの所へ送り届けるまで終わりじゃありません」
圭の口調はあくまでも事務的だったが、表情にはいくらか微笑みも浮かんでいた。
「いいえ、本当に助かりました。あそこで部屋のインターホンを鳴らしてくれなかった
らどうなっていたか」
「ああ、それは」
盗聴器を、と言いかけて圭の表情が変わった。路上駐車している乗用車、その
サイドミラーに人影が映った。とっさに有紀を庇うようにして反転する。マンションから
出てきたのは工藤だった。両手で棒のようなものを抱えている。
「走れっ!」
瞬間、終始冷静だった圭が吠えた。言うが早いか、再び有紀の手を取り駆け出す。
握られていた棒がなんなのか、圭にはそれが一瞬で理解できた。ホームページで
見たあの写真。熊の横に立つ工藤が手にしていた散弾銃、モスバーグEPだ。
弾は?
写真の獲物は熊だった。ということは恐らく弾はバードショットでなくバックショット。
鳥など小さい獲物を狙うバードショットに比べ、鹿や熊など大きな獲物に使用する
バックショットは、一発に含まれる散弾の数が十分の一以下と少ない。それだけ命中
する可能性も低くなる。
大丈夫。まだツキがある。
とはいえ射撃に関して全くの素人というわけじゃない。落ち着いて狙いを定められる
のだけは避けたい。
乾いた銃声と共に、二人の後ろで乗用車のリアウインドウが砕け落ちる。
モスバーグEPの装弾数は二発。予め薬室に一発装填していたとしても、最大で三発
までだ。立て続けに二発目の銃声が鳴り響き、圭の足元でアスファルトが砕け
散った。
今ので二発。圭が肩越しに後ろを振り返る。
ポンプアクション。薬室に次弾を送り込む工藤が見える。
次がラストだ。
もし陰に入れるような車があれば、圭は周囲を確認する。三発目を外して新たな
弾を装填するとなれば、その隙に二人は通りまで出られる。そこまで行けば人通りも
多い。いくら頭に血が上っているとはいえ、さすがに人込みの中で散弾銃をぶっ放す
ような馬鹿はしないだろう。あとはタクシーに乗り込んでさえしまえばこちらの勝ちだ。
しかし隠れられるような場所は無かった。やむを得ず小路をジグザグに走る。
ドンッ!
三発目の銃声が響く。圭のすぐ右側、花壇を囲んでいたレンガが炸裂する。と同時
に右太腿に鈍い痛みがはしった。圭の体がバランスを崩す。転ぶ寸前、圭は類まれな
ボディバランスでなんとか耐えた。しかし手を繋いでいた有紀は、バランスを崩した圭
に引かれて転倒する。そして圭もその有紀に引っかかる形で地面へと転がった。
ツイてない。
突っ伏しながらも工藤を見る。工藤は新たに弾を装填するのではなく、真っ直ぐ二人
の下へ駆け寄ってきていた。それはこの日、工藤が犯した最大の判断ミスだった。
工藤と二人の距離が縮まる。六メートル、五メートル、四メートル・・・。
あと二メートル。あと一メートルだ。
それを目線だけで追いながら、圭は体勢を整える。地面に突っ伏してこそいるが、
両手と両足はしっかりと地面を掴んでいた。距離が二メートル程度なら一瞬で
詰められる。勝利を確信している工藤には必ず油断があるはずだ。
そして残り二メートル。機を伺っていた圭の身体が跳躍する。仕留めたと思っていた
工藤は完全に虚を衝かれた。工藤が気付いたときには、右手にぶら下げていた
モスバーグEPが圭の手の中にあった。圭はモスバーグEPの銃身を掴むと、工藤の
側頭部目掛けて振り抜いた。