八月十八日 午前十一時二十分 (5)
お手上げです、という風に両手を挙げ、柏木達也が立ち上がる。
「どちらへ?」
圭が尋ねると、
「ちょっとトイレへ。水を飲んだら小便がしたくなりました」
そう言うと柏木達也は食堂を出て行った。
「一人で行かせていいんですか?」
松田玲子が不安そうに言った。圭はそれには答えず、古川正行に話しか
けた。
「古川さん、頼んであったもの、持ってきてくれました?」
古川正行はエプロンのポケットから、イルカのキーホルダーがついた鍵を
取り出した。それを見て松田玲子が再び尋ねる。
「それ、ボートの鍵じゃないんですか?」
「ええ。そうです。トラックの鍵もあります。これがなければ、どこへ
逃げたって島からは出られませんからね」
圭がそう言って微笑むのとほぼ同時に、バイクのエンジン音が響いた。
窓の外をバイクに乗った柏木達也が通り過ぎた。それを見て、鍵を弄って
いた圭がゆっくりと立ち上がる。
「さて、追いかけましょうか。古川さん一緒に来てもらえます?」
二人が玄関を出たところで、後ろから有紀が追いついた。
「私も一緒に行きます」
三人がトラックに乗り込んだ。
「じゃあ古川さんは後ろに乗ってください」
圭がハンドルを握り、トラックは島の南側へ向かった。
「このトラックは犯罪現場の可能性がありますからね。なるべくなら
乗りたくなかったのですが、この際仕方ありません」
助手席に乗る有紀が不安そうに前を見つめる。
「バイクの姿が見えませんけど、大丈夫ですか?」
「心配ありません。港に係留しているボートの鍵がここにある以上、
島を出る手段は一つしか残されていないんですから」
路肩に乗り捨てられたマジェスティがあった。圭はそこでトラックを
停めた。そこは島に着いた日、圭が漂着したボートを見つけた海岸だった。
三人が木々の間を抜け、ゴミだらけの砂浜に下りると、柏木達也がボートの
船外機をスタートさせようとしているところだった。既にボートは海に
浮かんでいた。昨晩抜けた台風、その吹き返しの風が強く、波はかなり
高かった。押し寄せる波は、容赦なくボートを砂浜に押し戻す。声の届く
位置まで近づくと、圭が呼びかけた。
「無駄ですよ。エンジンは掛かりません」
柏木達也が訝るように圭を見た。
「こうなる可能性を考慮して、昨晩のうちに燃料をすべて捨てておきました」
圭は余裕の笑みを浮かべていた。それまででもっとも大きな波が押し寄せ、
ボートは再び砂浜に打ち上げられる。バランスを崩して柏木達也が転んだ。
斜めになったボートの上にふらふらと立ち上がると、観念したように砂浜へ
降りた。
一瞬の隙を突き、柏木達也が有紀を羽交い絞めにした。その手にはナイフが
握られ、切っ先が有紀の喉に突きつけられた。
「ボートの鍵はどこにある?」
圭にまっすぐ見据えられ、柏木達也が繰り返した。その顔はすっかり上気し、
珠のような汗が浮かんでいる。
「ボートの鍵だ!お前が隠しているんだろう!」
圭がポケットに手を突っ込み、イルカのキーホルダーを引っ張り出した。
「鍵は渡しても良い。だが遠藤さんと交換だ」
「駄目だ。鍵を渡すのが先だ」
くい気味に柏木達也が叫ぶ。ため息を一つつくと、圭が鍵を放った。それは
有紀の手前、一メートルほどの距離に落ち、砂に軽くめり込んだ。