プロローグ (3)
席を立って二十分後、圭はマンションの前を歩いていた。まずはゆっくりと歩いて
その前を通過する。あくまでも、ただ通りかかっただけだ、という雰囲気で。二重に
なった自動ドア、恐らくオートロックだろう。そのすぐ脇には非常階段の出入り口が
ある。こちらもオートロックだろうが、外から死角になる分こちらの方が侵入経路には
良さそうだ。足を止めずに観察を済ませると、そのまま前を通り過ぎた。
その足で一度大きな通りへ戻り、コンビニでメロンパンとお茶を買った。それを手に
同じ経路でマンションの前へと戻った。周囲をさっと見渡し、非常階段の前に立った。
ポケットから携帯を取り出すと、ストラップをスライドさせ、金属製の器具を二本取り
出した。それを鍵穴に挿し入れると、あっという間に扉が開いた。圭は流れるような
動作でマンションの中へ侵入した。彼の動きはネコ科の野生動物を思わせた。決して
筋骨隆々というタイプではなく、一見華奢にもみえる。しかしよく見れば全身に均整の
取れた筋肉がついており、それがしなやかに躍動するのがわかる。圭はするすると
六階まで階段を登ると、再びストラップを取り出して鍵を開けた。扉には大きな
すりガラスがはまっていた。扉を僅かに開け、隙間から中を覗く。誰もいないことを
確認して彼はエレベーターホールに足を踏み入れた。このマンションは各フロアに
一部屋ずつしかないらしい。重厚な扉の脇には「K u d o 設計事務所」という表札が
かかっている。アルファベット部分は流れるようなイタリック。いかにもデザイン事務所
といった趣だ。電力メーターが動いているから、中に人が居るとみて間違いない
だろう。斉藤の話によれば、ここが事務所兼住居であるらしい。
あとは踏み込むタイミングか。
圭はエレベーターに乗り込むと、堂々と正面ロビーから外へ出た。その際に郵便
受けの中身をチェックするふりをして、事務所宛のダイレクトメールを一通抜き
取った。一度自分の部屋に戻り、準備を整える必要があった。
圭は再びタクシーに乗り込み、自宅へ戻った。パソコンを立ち上げるとメールが二通
届いていた。一通は斉藤範子から。必要な情報が書かれており、ちゃんと写真も添付
されていた。写真には女性が二人写っている。一人は依頼をしてきた斉藤範子だ。
卒業パーティーかなにかで撮られた写真らしい。二人ともドレスアップをし、笑顔を
浮かべている。多少アルコールが入っているのだろう、頬にはうっすらと赤みが
さしている。斉藤と一緒に写っている女性、今回圭が連れ出す女性は遠藤有紀。
メールによれば年齢は二十三。線の細い美人だった。
本文にはデザイナーのホームページアドレスも記載されていた。それらをプリント
アウトして、目を通しながら買ってきたメロンパンを食べた。それによれば問題の
デザイナーの名は工藤信也。歳は三十二。切れ長の目、通った鼻筋、確かに女性に
モテそうな顔立ちだが、色白で軽そうな印象を受ける。趣味はギター、狩猟、スノー
ボードらしい。どこかの山でスノーボードを滑る様子や、猟銃を手に、獲物と見られる
大きな熊と写る写真がアップされていた。食事を終えてもう一通のメールを開くと、
こちらは朝井からだった。
― 契約まとまりました。所要二日でトラブル解決の基本料金が九万円。ただし急ぎ
のために三割増で十一万七千円プラス諸経費。後日領収書を持ってきてください。
今回もいつもと同様に仲介料は一割で。経費として五万円を口座に振り込んで
おきました。ギャラの先払い分だと思ってください。幸運を。―
現金はあとからコンビニで引き出すとして、まずは必要な準備だ。圭は抜き取って
きたダイレクトメールの底を二センチほどクラフトナイフで開いた。続いて机の中から
USBメモリー型の盗聴器を取り出し、それを封筒の中に入れた。落ちてこないように
封筒の奥へと押しやると、開いた部分を慎重に糊付けした。もう少し小さいものが
用意できればよかったが、時間がないのだから仕方ない。シャワーで汗を流し、白い
Tシャツとジーンズに着替えた。少し眠っておきたいが、移動するタクシーがいなく
なってしまっては面倒なので、仮眠は現地で取ることした。
コンビニで現金を下ろし、タクシーで再びマンションの前に戻った。細工済みの
ダイレクトメールを郵便受けに戻し、自分は再び非常階段から六階へ登った。受信用
のイヤホンを耳に入れ、携帯のアラームをセットすると、圭は非常階段の隅に収まって
仮眠をとった。
圭は「ザーッ!」という雑音で目を覚ました。慌てて受信機のボリュームを調整
する。時刻を確認すると午前六時。目を覚ますのと、セットしていた携帯のアラームが
震えるのがほぼ同時だった。二人の内どちらかが(恐らくは彼女の方だと思うが)
郵便物を取ったのだろう。だとすれば十数秒後には彼女がエレベーターホールに
現れる。自分の存在を知らせるこれ以上ないチャンスだ。
だが万が一エレベーターを降りてくるのが工藤だったら?
この状況では扉にはめ込まれた磨ガラスが邪魔だった。確認のために扉の陰に
立てば、顔こそ見られないものの、影が映り込んでしまう。それに降りてきたのが
彼女だったとして、突然非常階段から見知らぬ男が出てくれば、悲鳴を上げ
かねない。
あまりにも危険すぎる。
圭は影の映り込まない位置に身を潜めた。
たっぷりと準備する時間があったら。彼女との打ち合わせる時間があったら。盗聴器
をダイレクトメールに潜ませる必要もなかったし、彼女が話を切り出す大まかな時間も
わかったはずなのだ。
とはいえ、たらればの話をしても仕方がない。それらを承知の上で仕事を請けたの
だから。扉が閉まる音を確認して、昨夜、現金を引き出すついでに買ってきた
メロンパンを食べる。圭は食べ終えるとジーンズの尻ポケットから文庫本を取り出して
読み始めた。
待つこと二時間。イヤホンを通じて聞こえてくる室内の様子が切迫してきた。
そろそろか。
文庫本をしまうと、圭はエレベーターホールへと移動した。
「辞める?そんなこと許すわけねえだろ」
工藤のその言葉を聞いて、圭はインターホンに手を伸ばした。