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八月十七日 午前四時 (4)

 長い長い三十分だった。圭と古川正行の二人が部屋の前に立った。


ガスが残っている可能性もあるので、なるべく少人数の方が良いと判断


してのことである。


 「いいですか、塩素ガスは非常に重い性質を持っています。風通しの


悪いところにはガスが残っている可能性もありますから、気をつけて


ください」


 真剣な顔で古川正行が頷いた。


 「では行きます。バスルームの床は、塩素ガスの溶けた塩酸で濡れている


はずです。それを消石灰で中和してから、信也さんを運び出しましょう」


 「中和されたかどうかはどうやって確かめるんですか?」


 「酸が残っていれば、消石灰を撒いたときに泡が出ます。それが目安です」


 再び古川正行が頷く。二人は内側から目張りされたドアを破った。


 部屋の中に、鼻をツンと突くような塩素ガスの臭いはなかった。二人で


消石灰を撒きながら、少しずつ窓に近づく。しゅわしゅわと泡を発する


塩酸をなんとか中和し、信也までたどり着いたが、すでに手遅れだった。


 消石灰で真っ白になった二人が部屋を出ると、扉の外には心配そうに立つ


工藤夫妻の姿かあった。圭が黙って首を振ると、奈緒子がその場に崩れ落ちた。


 「信也の顔を見たいんだが」


 妻を支えるようにして立つ信也が言った。二人は柏木達也に付き添われて


部屋の中に入っていった。


 少し離れたところに立っていた有紀が歩み寄ってくる。部屋の鍵を開けて


もらい、体中に付いた消石灰の粉をシャワーで流した。


 この日の夕食はさながらお通夜のようだった。奈緒子はショックのあまり、


部屋から出てこなかった。さらに空席の目立つようになった食堂で、食事は


会話もほとんどなく進んだ。


 「さっきラジオで言っていたのですが」


 皿を持ってきた古川正行が、なんとかして会話のきっかけを作ろうとした。


 「台風は今夜中にも抜けるそうです。明日には帰れますよ」


 そう言ってテーブルを見渡したが、有紀があいまいに微笑んだだけだった。


他の人間は思いつめたような表情で、目の前の料理を口に運んでいた。


 食事が終わると、皆部屋へと戻って行った。圭はコーヒーの入ったカップを


手に、考え事をしていた。食堂には圭と有紀だけが残された。


 「あの、ちょっとよろしいですか?」


 話しかけてきたのは松田玲子だった。


 「急ぎ作成しなければならない書類があるのですが、その形式が英語なのです。


実は私はあまり英語が得意ではなくて。水野さんは英会話の講師をなさっている


のでしょう?少し手伝っていただけませんか?」


 部屋を移ったおかげで、圭の荷物はほとんど解かれておらず、荷造りは終わった


ようなものだった。構いませんよと答えると、松田玲子はほっとしたような表情を


浮かべた。


 「それでは私は部屋に戻ります。荷造りもしなきゃならないし」


 有紀が部屋に引き上げ、食堂には松田玲子と圭だけが残された。松田玲子が


ノートパソコンとプリンターを持ち込み、圭のアドバイスを受けながら書類作成を


進めた。


 作成を終え、最終チェックを済ませたのは、開始から一時間ほど経過した頃だった。


圭がプリントアウトした書類の端を揃えた。


 「うん。オーケー。これならどこに出しても問題ないと思います」


 「良かった。これで社長に怒鳴られずに済みそうです。仕事も終わりですし、何か


飲み物をお持ちしましょうか?」


 「いや、やめておきます。明日はヘリや船に揺られなきゃならないのに、アルコール


を飲むのは自殺行為です」


 テーブルの上に散らばったメモに目をやると、見覚えのある字が並んでいた。

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