八月十六日 午前八時三十分 (3)
「聞いてもいいですか?」
階段へと続くテラスを歩きながら、柏木達也が圭に尋ねた。圭はいつも思うのだが、
「聞いてもいいですか?」という質問はあまり意味がない。質問の内容がわからない
以上、たいていの場合は続きを聞かざるを得ないし、聞いた本人も質問することを
前提で聞いているからだ。
圭が黙っていると、それを肯定の意味に取った柏木達也が続けて質問した。
「ずいぶんこういった捜査に慣れているように見えますが、あなたは元警官か
なにかですか?遺体を見てもまったく動揺していないように見えますし」
圭はすぐには答えなかったが、やがて諦めたように口を開いた。
「以前にもお話したかもしれませんが、僕は日本に来る前はアメリカに住んで
いました。中学高校の六年間を日本で過しましたが、それ以外は向こうで暮らし
ていたんです」
「ええ、それは確か聞きました。ずっとアメリカにいたというのに、ずいぶん
日本語が上手くて、日本人にしか見えないと思った記憶があります」
「両親は共に日本人ですからね。見た目には日本人と変わりません。それに
アメリカに住んでいるくせに、母は英語が不得意でしてね。家の中では日本語が
公用語だったんです。そのおかげで自然と日本語も身につきました」
そう言って圭は笑った。
「警官ではないですけど、僕はそういう職場で働いていたんです。今は
英会話講師ですが」
「というと、FBIだとかCIA?」
予想外の答えに柏木達也は驚きを隠せなかった。
「どうりで慣れているはずですね」
柏木達也は感心したような、呆れたような複雑な表情を浮かべていた。
圭はこの話をするのが好きではなかった。この話をすると、たいていの場合
矢継ぎ早の質問攻めに合う。
殺人犯を逮捕したことはある?
銃を撃ったことはある?
どうして辞めたの?
それはアメリカでも日本でも同じだった。今付き合いのある人間で、圭の
経歴を知るのは、朝井と有紀の二人だけだった。
ここへ来ることを決めた翌週、有紀から電話があった。
「あの、実は私旅行らしい旅行をしたことがなくて。トランクを買いに行きたいん
ですが、付き合ってもらえませんか?」
構わないと伝えると、受話器から聞こえる有紀の声が少し弾んだ気がした。
翌日、二人は量販店を訪れた。せいぜい二三泊だからという圭のアドバイスを受け、
有紀が選んだのは白い、キャスター付きで小さめのトランクだった。持って帰ることも
可能なサイズだったが、有紀は配達伝票にサインをした。
「今度こそ私にご馳走させてください」
有紀が連れて行ったのは、隠れ家のようにひっそりとたたずむ小料理屋だった。
「水野さんが連れて行ってくれたお店みたいに、オシャレじゃないんですけど」
「そんなことありません。こういう雰囲気、好きですよ」
圭がそう言うと、申し訳なさそうな顔をしていた有紀がはにかんだ。自分が元
捜査官だったことを話したのは、この晩のことだった。
「日本に来る前はどんなお仕事をされてたんですか?」
ふと会話が途切れた瞬間に、有紀が何気なく聞いたのだ。正直に答えるか否か、
迷わなかったと言えば嘘になるが、結局圭は話してしまった。それ以上は答えたく
ない、というそぶりを見せれば、しつこく追求しないだけの分別が有紀にはあると
思ったし、事実その通りだった。
柏木達也は続けて何か聞きたそうだったので、圭はそれを以上の追求を避ける
ために歩みを速めた。
二人が食堂に入ると、座っていた人々の目線が一斉に二人を捕らえた。
「皆さんすでにご存知かもしれませんが、中島健太さんが亡くなりました」
柏木達也が改めて報告すると、何人かが息を飲んだ。信太郎の赤みがさした顔
ですら血の気が引き、真っ青に見えた。
「詳しい原因は解剖してみないとわかりませんが、状況から判断して薬物の
過剰摂取によるものと思われます。トランクからは薬物が見つかり、腕には常習の
痕もありました」
すっかり血色が悪くなった信太郎が口を開いた。
「では事故ということかね?」
その口調には事故であって欲しい、という願望が含まれているように聞こえた。
こんな状況に置かれても、世間体が気になるのだろう。自分の別荘で殺人事件が
起こったとなれば、一面でないにしろ、新聞記事になるのは間違いない。
少なくとも週刊誌の格好のネタにはなるだろう。それだけは避けたい、という
様子がにじみ出ていた。
この期に及んでも保身ばかりに気が行くとは。
口には出さなかったが、圭は半ば呆れていた。まあ、会社と従業員を守りたい
という、社長の鑑と言えないこともないのか。
「自殺ということも考えられます。お兄さんが亡くなってかなりショックを
受けておられたようですし。事故か自殺か。それは解剖や正式な捜査を経て、
警察が判断するでしょう」
信太郎はそれを聞いて安心した様子だった。殺人でない言ってもらっただけで、
彼にとっては十分なのだろう。
皆を前にした柏木達也の話は、圭の推理とは大きく異なるものだった。けれど
圭は黙ったまま聞いていた。彼はこの別荘にいる何者かに殺されました、などと
言えば混乱は免れない。なにより自分の推理を裏付ける、確固たる証拠がなかった。
隣では息子の信也が青い顔をしていた。今回、事情聴取は行われなかった。
柏木達也は皆が寝静まったあとのことだし、聞く必要はないと判断したらしい。
圭は記憶が新しいうちに聞いておいたほうがいいと主張したが、柏木達也は県警に
任せるといって聞かなかった。
「それより食事にしましょう。食事は生活の基本ですから」
中島健太の遺体が見つかったせいで、圭と柏木達也は朝から何も口にして
いなかった。すでに時計の針は十二時を回っており、確かに圭も空腹を感じてはいた。
現段階でわかっていることはあまりにも少なかった。詳しいことは検視と鑑識が
入るまではわからないだろう。そう思って圭も強く食い下がらなかった。
古川夫妻が食事を用意してくれるまで、少し時間が空いた。圭は薄暗い娯楽室で、
壁を叩きつけた。
「くそっ。なんでこんなことに」
予想外に大きな音が響いた。それを聞きつけて、心配そうな顔をした有紀が入って
きた。彼女は圭のすぐ後ろで足を止めた。
「どうしてこんなことになってしまったんでしょうか」
圭が大きなため息をついた。
「わかりません。ともかく用心しないと」
こめかみをぐりぐりマッサージしながら圭が呟いた。食事ができたらしく、食堂から
古川正行の呼ぶ声が聞こえた。