プロローグ (2)
依頼を受けたのは昨夜。ほんの十数時間前だった。夜十一時過ぎ、朝井から
電話があり、お前向きの依頼があるからやらないか、と言う。
「ただ・・・」
と朝井は続けた。朝井は中規模の探偵事務所を経営している。圭の職業は英会話
講師だったが、かつての経験を買われ、雇われ探偵のような仕事もしていた。
朝井は時間や人手不足などの理由で受けられない場合、圭に依頼を回してくることが
あった。
「時間がないんだ」
彼によれば仕事は明日、女性を無事外へ連れ出して欲しいという内容だった。
こういった依頼の場合、綿密な打ち合わせと下見が鍵となる。時間がないというのは
ある意味致命的な状況であった。
「断ってくれても構わない。今回の依頼はあまりにも急すぎる」
「いや、話だけでも聞きますよ。依頼主とは話せるんでしょう?」
少し考えて、圭はそう返事をした。
三十分後、三人はテーブルを挟んで座っていた。時間が遅いので店内には人影も
まばらだ。三人はなるべく周りに人が居ない、隅の席を選んだ。圭が依頼主の小柄な
女性と名刺を交換した。女性の年齢は五十代半ばだろうか。
「水野圭です。まあ、朝井さんのところの下請けみたいなものだと思ってください」
「下請け、ですか?」
下請けと聞いて依頼主の表情が曇った。それを見てすかさず朝井がフォローを
入れた。
「いや、彼はこう言いますがね、私はそんな風には思っていません。ことこういった
事例に関しては。今回のように時間が限られていてはなおさらです。そこいらの中堅
探偵よりずっと腕は確かです」
目の前で褒められて、圭は僅かにはにかんだ。
「では、もう一度依頼の内容について聞かせていただけますか?」
圭に促され、依頼主の女性が話し始めた。
「私は斉藤範子といいます。S大学で美術史を教えています。お願いしたいのは
教え子のことで。彼女は卒業後にとあるデザイナーのアシスタントとして働いているの
ですが、そのデザイナーがちょっと、なんというか、問題のある人なんです」
斉藤範子はそこで一息つき、湯気の立つカフェラテに口をつけた。
「問題というのは?」
圭はタイミングを計って話の続きを促した。もしこの依頼を受けるとすれば、一分一秒
でも時間が惜しい。
「はい。ひとつは素行、というか私生活で。新進気鋭のデザイナーなんて言われて
いましたし、人気があるせいか女性関係の噂が絶えない人なんです。あくまで
噂ですが、薬に手を出しているという話もあります」
「先ほどひとつは、と言いましたね。ということは他にもある?」
「実は仕事の方もあまり上手くいっていないようなんです。新人賞を獲ったくらい
ですから実力はあるのかもしれませんが、それも何年も前の話です。賞の上にあぐらを
かいて、最近はほとんど仕事らしい仕事をしている話は聞きません。今はアシスタント
をしている彼女が細々とした仕事をこなしているようです」
「そんな人物だとわかっていたのに、彼女を止めなかったんですか?」
斉藤範子は耳が痛い、というようにうなだれてしまった。もともと小さな体がさらに
小さく見える。圭はそのまま消え入ってしまいそうに感じた。
「私もあくまでも噂でしか知りませんでしたし、アシスタントに雇ってもらえると喜ぶ
彼女を見ていると強くは言えなくて。なにしろデザイン関係の就職は厳しい状況が
続いているもので。気が付いたときには同棲のような状況になっていて、
抜け出すのが難しくなっていました」
「それで、現実を知った彼女が彼の所を辞めたい、というわけですか」
「はい。ただ私にはすんなり辞められるとは思えなくて」
そこまで話して、斉藤範子はまたカフェラテに口をつけた。彼女がカップから口を
離すのを待ち、圭が尋ねた。
「疑問があるのですが、あなたと話せるということは、簡単に外に出られるの
でしょう?そのままDVシェルターのようなところに駆け込んだらどうです?」
「私もそれを勧めたのですが、直接辞める意思を伝えると言って聞かなくて。すでに
貴重品の類は持ち出して私が預かっています。あとは彼女だけなんですが」
そこまで言うと、斉藤範子はカップを見つめたまま押し黙ってしまった。三人の間に
沈黙が流れた。それを破ったのは、それまでずっと黙っていた朝井だった。
「で、どうする?」
朝井と斉藤範子、二人の視線が圭に集まった。
時間がないというのは厳しいが、出来ない内容ではない。それにこういった仕事は
圭が得意とするものだった。
「請けましょう」
ほんの少し考えるような素振りを見せたあと、圭はあっさりと答えた。
「事務所の住所はわかりますか?」
それを聞いて斉藤範子の表情がぱあっと明るくなった。朝井もホッとしたような表情
を浮かべていた。彼女は手帳を取り出すと、そのなかから一枚破って内容を書き
写した。住所は電車を乗り継いで三十分ほどかかる所だが、タクシーを使えば
その半分ほどの時間で行ける。
「わかりました。メールは使えますか?ではなるべく最近撮られた彼女の写真、名前、
身体的特徴、これは身長や体重ですが、わかる範囲でいいので、それらを私の
パソコン宛に送ってください。アドレスは先ほど渡した名刺に書いてあります」
彼女はひとつとして指示を聞き漏らすまいと、内容を熱心にメモした。
「細かい契約の内容については朝井さんにお願いします」
そこまで話すと、圭は手付かずのコーヒーを置いて席を立った。
「さて、彼は仕事を始めたようですから、私たちは契約の内容について
詰めましょうか」
ニッコリと笑顔を浮かべ、朝井は斉藤範子の向かい側へと席を移した。