八月十四日 午後一時 (4)
娯楽室の中では銘銘が遊びに興じていた。工藤奈緒子は松田玲子を相手に
チェスで勝負。信也は友人とともにダーツを放っていた。奥に設置された
バーではカウンターの向こうに古川正行が入り、信太郎は酒を飲みながら
留学生に熱弁を振るっていた。今は誰も座っていないが、ポーカーや麻雀用の
テーブル、果てはカラオケまであった。
「なにか飲み物を持ってきましょうか」
三人が入ってきたのを見て、古川正行が尋ねた。柏木達也がスコッチを頼み、
圭もそれに便乗した。
「果実酒も用意してありますよ」
という言葉を受け、有紀にはシードルが配られた。それを手に、有紀は
ビリヤードテーブルのすぐ脇に腰を下ろした。
圭はスタンドからキューを一本抜くと、歪みがないことを確かめ、重心の
位置を測った。柏木達也が九つのボールを並べ、そっと木枠を外すと手玉を
圭に差し出した。キューにチョークを塗っていた圭は、それをテーブルの隅
に置き、手玉を受け取った。
「お手柔らかにお願いしますよ」
柏木達也の軽口を背中で受け流し、圭はしなやかな指でブリッジを組むと、
流れるような動きで手玉を突いた。勢いよく弾き出された手玉は、三角形に
並べられた的玉をバラバラに飛ばした。
「参ったな。敵わないや」
勝負は何度繰り返しても圭の勝ちだった。柏木がスコッチのお代わりを
取りに行った。圭は有紀の隣に腰を下ろした。
「何でもできるんですね」
手元を見つめたまま有紀が言う。有紀はどこからかチップを探してきて、
パームの練習をしていた。チップが大きいせいか、上手くホールドできずにいた。
「何でも、ってわけじゃありません。ビリヤードだって特別上手くはないですし。
あれだけ酔っていれば、手玉が一つに見えているかどうかも怪しいものですよ」
そう言うと有紀の手を取り、チップの位置を少しずらした。チップはぴたりと
掌に収まり、逆さにしても落ちてはこなかった。
「水野さん、今度はポーカーで勝負しませんか?」
気が付くとポーカーテーブルにはオーナー夫婦と柏木達也が座っていた。
一人だけ立っているところを見ると、松田玲子がディーラー役を務めるらしい。
「どうぞ、打ち負かしてきてください。私は一足先に部屋に戻りますから」
有紀は笑顔で立ち上がり、おやすみなさいと言い残して部屋に戻っていった。
圭もそろそろ部屋に戻りたかったが、待ちきれずに近づいてきた柏木達也に肩を
組まれてしまった。
「勝ち逃げは許しませんよ」
そう言って柏木達也は酒臭い息を吐いた。テーブルに着くと、松田玲子が
カードを配った。
「ビット」
左端に座っていた信太郎がチップを二枚放った。それを見て全員がチップを
二枚ずつ前に押しやった。圭は二枚のカードを交換する。自分の手札から三枚の
カードを抜きながら、柏木達也が話しかけてきた。
「遠藤さんでしたっけ、一緒に来た方。彼女なんですか?」
「いいえ、そういうわけではありません」
自分の手札を見た柏木達也の眉間にシワが寄った。それは一瞬で消えたが、
圭はそれを見逃さなかった。
松田玲子が両手を軽く広げ、二度目のビットを促した。
「ビット」
二枚のチップを放ったのは柏木達也だった。オーナー夫婦と松田玲子は勝負を
降りた。
「じゃあ、コールで」
圭が二枚のチップを支払い、勝負は圭と柏木達也の一騎打ちとなった。圭の
手札はスリーカード、柏木達也はワンペアだった。チップが圭の元に集められた。
柏木達也が苦々しげに呻いた。松田玲子によってカードが配られ、再び信太郎が
ビットを行った。続いて全員がチップを支払った。圭はすべてのカードを交換した。
「それにしても綺麗な方ですねえ」
どうやら柏木達也はさっきの話の続きをしているようだった。
「ええ、その点は否定しません。僕はドロップです」
勝負を降り、圭がカードを机の上に伏せた。
「昼間のはナイスアシストだったでしょう?」
ニヤニヤと笑いながら、柏木達也がチップをビットした。圭が黙っていると、
勝手に続けた。
「タンデムですよ。私がマジェスティに乗ったから、ぴったりくっつけたでしょう?」
相変わらず下品に笑い続ける柏木達也から目を逸らし、グラスに口をつけた。
「じゃあマニュアルを運転できない、って言うのは嘘ですか?」
「いえ、それは本当なんですけどね」
それじゃあアシストでもなんでもない。喉まで出かけた言葉をスコッチで飲み込む
横で、チップは松田玲子の元に集められた。ふとバーカウンターに目をやると、
留学生が座っているのが目に入った。三人で頭を突き合わせ、なにやらひそひそ
と話し込んでいる。その内の一人と圭の目が合った。圭は愛想笑いを浮かべたが、
彼は無表情で目を逸らすと、指をさして圭が見ていることを他の二人に伝えた。
残りの二人も振り返って圭を見ると、連れ立って娯楽室を出て行った。
結局柏木達也は一度も勝つことなく、あっという間にチップを全て失った。
娯楽室にはすでに信也たちの姿はなかった。オーナー夫婦も部屋に戻り、
飲みすぎた柏木達也は古川正行に抱えられて出て行った。
「お強いんですね」
テーブルの上を片付けながら、松田玲子が言った。圭は否定するように、ゆっくりと
首を振った。
「少し勘が良いだけです。引き際を見極めれば、大きく負けが込んだりはしません」
「勘でビリヤードは勝てませんよ」
カードを箱に戻しながら、松田玲子が笑った。
松田玲子と共に娯楽室をあとにし、圭は食堂に寄って水を一杯飲んだ。タンブラーを
流し台に置き、照明を消して食堂を出ると、別荘内は闇に包まれた。数秒目を閉じて
暗闇に目を慣らす。雲の切れ間から月が顔を覗かせ、足元を薄っすらと照らした。
扉の前で鍵を探していると、隣の部屋のドアが開き、有紀が顔を出した。
「足音が聞こえたので」
そう言う有紀はまだワンピースを着ていた。
「なんだか寝付けないんですけど、良かったら散歩に行きませんか?」
圭は鍵を探すのをやめ、二人は並んで外へ出た。空を見上げると、雲がかなりの
速さで流れていった。今晩は三日月だった。二人をぬるい風が撫でた。台風特有の
湿った風だ。
海岸へと延びる坂を下りながら、有紀が尋ねる。
「ポーカーはどうでした?」
「まあ、ぼちぼちですかね」
前を向いたまま圭が答えると、隣で有紀がくすっと笑った。
「水野さんはきっと、ビンの蓋を開けるのにも『楽勝だった』とは言わないんで
しょうね」
「ビンの蓋は恐ろしく固いかもしれませんよ」
そう言って圭も微笑んだ。
何の前触れもなく、圭が尋ねた。
「月には何人くらいの人が住んでると思います?」
「えっ?」
質問の意味がわからず、有紀が足を止めた。
「昔見た映画に出てきた台詞なんです。月に人が住んでるとして、何人くらいだと
思います?」
数歩先で足を止めた圭は、空に浮かぶ三日月を見上げていた。同じように月を
見上げ、有紀が考えこんだ。
「うーん、百万人くらいですかね」
「だったら、三日月のときは大混雑でしょうね」
一瞬言葉の意味を考え、有紀が吹き出した。見上げすぎて凝ったのか、首をぽき
ぽきと鳴らしながら圭も笑った。