八月十四日 午後一時 (3)
部屋に戻り、開け放った窓の前に立つと、強い日差しがじりじりと肌を焼いた。
傾き始めた太陽が、無遠慮に陽光を差し込む。日向の匂いが圭を包み込んでいた。
西向きに設えられた窓からは、広がる海が一望できた。空は夜の気配を漂わせ、
鈍い水色が広がり始めていた。夜から逃げるように沈みかけた太陽に照らされ、
海面近くの空は眩いばかりのオレンジ色をしている。圭と海との間に挟まれた
景色は、逆光線で黒く影に包まれていた。
部屋のドアが三度ノックされた。木の扉にあたるコツコツという音は、有紀の
白く小さな手を連想させた。顔を窓の外に向けたまま、
「開いてますよ」
と声をかけた。振り返ると、扉の隙間から有紀の顔が覗いていた。圭が見てい
た木々と同じように、有紀から見れば圭も真っ黒なシルエットに見えただろう。
「六時から夕食らしいですよ」
室内履きのスリッパを脱ぎ、ハイカットのスニーカーに足を突っ込む。砂の
付いたジーンズは、既に黒のスラックスに履き替えていた。靴紐を絞めると、
机の上にある鍵を手に部屋を出た。
食堂に向かって歩いていると、階段を上がってくる松田玲子と鉢合わせた。
「ちょうど呼びに行こうとしていたところなんです。皆さんもうお集まりに
なっています」
松田玲子の顔色が優れなかった。心配事がある、と顔に書いてある。直接尋ねる
までもなく、その内容は明らかになった。彼女に続いて食堂に入ると、一人の男が
席を立った。その男がテーブルの向こうを回り、二人の方に近づいてきた。その顔
を見て、隣で有紀の体がこわばるのを感じた。有紀が圭のシャツ、その肘の辺りを
ぎゅっと掴んだ。
「その節は大変ご迷惑をおかけしました」
そう言って神妙に頭を下げたのは、工藤信也だった。
「執行猶予がつきまして、今はこっちで暮らしています。都会と違って誘惑も
少ないので」
その表情には穏やかな笑みさえ浮かんでいた。
松田玲子に案内されて席に着いた。古川正行が二人のグラスにシャンパンを
注ぐ。それを見届けた信太郎が立ち上がり、集まった人たちを紹介した。
「ご存知の方もいらっしゃると思いますが、妻の奈緒子と息子の信也です。
その隣は信也の友人の中野勇太君と、弟さんの健太君」
紹介を受け、兄弟がヘラヘラと笑った。
「妻の横に座っている三人は、中国からうちの会社に勉強に来ている学生です。
まあ、たまには息抜きも必要だろうということで、今回連れてきております。
料理を運んでいるのは、この別荘の管理人をお願いしている古川正行君と、
その妻の夏実さん。えー、最後に東京で息子がお世話になった方々です」
話が三人に及ぶと、信太郎がやや言葉に詰まった。柏木達也が立ち上がり、
名前と職業を告げた。刑事と聞いても、特に表情を変える者はいなかった。
続いて圭と有紀が簡単に自己紹介をした。松田玲子を含んだ数人が、軽く
頭を下げて会釈をした。それでは、と信太郎がシャンパングラスを掲げた。
「では、みなさんとの出会いを祝して」
乾杯の音頭が取られ、テーブルのそこかしこでグラス同士が合わさる音が
響いた。
食事はフランス料理のフルコースだった。オードブルに始まり、スープ、
ポアソンと続く。
このような場にお呼びしてしまって。
脳内で松田玲子の言葉が繰り返された。表情が優れなかったのはこのため
だったのだ。圭はテーブルを挟んで向かいに座る、工藤信也を改めて観察した。
長かった髪は短く刈り込まれ、肌も健康的に焼けていた。そのおかげか以前漂っ
ていた軽そうな雰囲気は見られない。信也は隣に座る男と楽しげに話していた。
あの中野という男と、食堂から顔を出した弟だ。確か中島勇太と健太といったか。
兄弟というだけあって、二人ともよく似ていた。
食事はフルーツとコーヒーで締めくくられた。食事を終え、程よくアルコール
の入った面々が娯楽室へと移って行った。二人の方にチラッと目をやりながら、
最後尾で松田玲子が出て行った。
「大丈夫ですか?」
表情なくデミタスカップを見つめる有紀に問いかけた。
「大丈夫。少し驚いただけです。まさかあの人に会うとは思っていなかったから」
圭が相槌を打った。
「どう思います?」
言いたくはないのですが、というように僅かに間を空けて圭が答えた。
「人間そう簡単に変われるものじゃありません。付き合っている友人も変わっていな
いようですし、中身はそのままと考えた方がいいでしょうね。反省はしているかもしれ
ないですが」
圭が軽く肩をすくめた。
「ますます僕らを呼んだ理由がわからなくなりました」
二人の間に沈黙が流れた。そこへ完全に一杯機嫌の柏木達也が入ってきた。
「ああ、ここにいましたか。ここの娯楽室すごいですよ。遊び道具があらかた
揃ってます」
そう言うと屈みこむように二人の耳元に近づき、声を落として続けた。
「あのオーナー、並みの金持ちじゃありませんな」
圭が適当に相槌を打つと、柏木達也は姿勢を戻し、キューでボールを打つ真似を
した。
「そういえばビリヤードの相手がいなくてね。どうですか?ひと勝負」
僕らは部屋に戻ります、と言いかける圭に先んじて有紀が立ち上がった。
「私たちも行こうと思っていたところなんです」
そう言うと圭の手を取って食堂を出て行った。
「こうなったらとことん付き合ってあげましょう。どうして私たちを呼んだのか、
じっくり見せてもらいます」