影
少女は感情の薄い声色で、勇敢に宣言した。
「悪、人?」
一人状況に置いて行かれている悠人は呆然と少女の言葉を反芻し、慌てて静止に入る。
「ちょ、ちょっと待って下さい! この人は人間なんです! いやっ、何て言うか、路地裏に座り込んでて、体調が悪そうだったんです! その後こうなって、きっと何か訳があるんです! だから」
「訳も何もありません。『悪人』は『悪人』です」
悠人の言葉をバッサリ切り捨てる少女。
そこで、少女は悠人の方を向いた。
「突然の事で混乱したと思いますが、安心して下さい。私が対処します」
目の辺りで切り揃えられた金髪と白い肌が強調する、ルビーのように真っ赤な瞳が悠人を射抜く。
宥めるように具体的な言葉を口にしないが、この少女がこれから何をする気なのか、想像に難くない。
その瞳に、決心と平静が同居しているのを、悠人は見逃さなかったからだ。
「で、でも」
「あなたは、あれがまだ人間に見えますか?」
「!」
少女に促され、視線を影の元へ向ける。
影は鋭利なもので切断されたかのように、片腕の肘から先を失っていた。
それが誰によって行われたのかは考えるまでもなかったが、意外なのは影が少しも動揺していない点だった。
先程まで暴れ狂って魔法を乱発していた影が、自身の体の欠損に何の反応も示していない。
それどころか、その場でただじっとしている。
通常の人間なら、腕を失ったという状況を受け入れられる訳がない。
少なくとも、痛みがそれを許してくれる筈がないのだ。
悠人が怪訝に思っていると、それは突然起こった。
切断された腕の断面が一瞬泡だったかと思うと、ボコボコと影が膨らみ、無くなった筈の腕が生えたのだ。
どんな回復魔法を使ったとしても、あんなに早く無くなった腕を治す事など出来はしない。
「あなたの言う通り元は人間ですが、『悪人』になってしまった以上、もう人間ではありません」
手を握ったり開いたりを繰り返す影に視線を固定したまま、少女はそう話す。
「このままでは燃え尽きるまで永遠に人に危害を及ぼし続けます。それは本人も望んでいないでしょう」
言葉を発せずにいる悠人に少女は忠告すると、無骨な大剣を握り直した。
「分かったら行って下さい。時間がありませんので」
その言葉の後、風と岩漿が衝突した。
轟音と共に発生した周囲を蹂躙する暴風に、焼け焦げるような熱気が乗る。
少女が大剣で影の攻撃を防いだのだ。
「ーーあなた、何をしたんですか? 『悪人』が剣を振るう私ではなく、あなたの方を見ているんですが」
「え?」
影の魔法を大剣で受けつつ、心底疑問そうに少女は声だけで悠人に問う。
見れば、影は目に当たる部分の二つの光を、少女の肩越しにその奥にいる悠人に向けていた。
影は悠人から目を離さず、こちらに手を伸ばしてくる。
何かしたのか、と言われても、ここまで執着される程の何かがあった記憶は無い。
そもそも初対面なのだから、何かしたのかと聞きたいのは悠人の方である。
「まあ良いです。逃げろと言ったのに、声をかけてしまってすみませんでした。もう行って貰って大丈夫です」
「でも、女の子一人を置いて行く訳には……」
「……心配は要りません」
少女は悠人に向かって手を広げる。
すると、彼女の手から虹色の霧のような物が噴射され、それが悠人の体を包み込んだ。
「一時的にあなたの姿を見えなくしました。魔力までは隠せませんが、それはーー」
少女は大剣を翻し、影を後方へと退ける。
「私の魔力でどうにかします」
悠人はそこで初めて、少女の魔力を見た。
魔力量にはおおよその基準が存在する。
例えば、視認した時に体の倍の高さまで魔力が昇っていれば、全国の平均的な魔力量よりも多いと言える。
それが三倍ともなると、それは地域有数の実力者だ。
そんな指標の中、少女の魔力を一言で表すと、圧倒的。
その一言に尽きる。
悠人を包む虹色の霧と同じ輝きを放つ彼女の魔力は、少女の小さな体の十倍もの高さまで猛々しく立ち昇っていた。
他を圧する絶対的な魔力量。
その魔力の前では、悠人や影、他の何もかもが霞んで見える。
『スルトの太陽剣』
少女がそう唱えると、魔力が呼応し、手に持つ大剣が凄まじい熱気を上げる。
まずい、と。
そう察するのに時間はかからなかった。
魔力と熱気で大気が歪む中、その大剣から解き放たれる攻撃の威力を想像し、悠人はすぐさま地上へと降りる事を選択しーー。
その直後だった。
視線を地上に移した瞬間、空が真っ赤に輝いた。
同時に大気が震え、影が放っていた風とは比にならないような強風が体を突き飛ばした。
「う、わあああああっ!!」
ジタバタともがきながら体勢を整え、どうにか空中に留まる。
そして、顔を上げた悠人は見た。
少女の大剣によって影が貫かれているのを。
影はまだ四肢を動かしているが、その動きはぎこちない。
錆びついて動かなくなっていく機械のように、徐々に力を失ってく。
「ーーごめんなさい」
少女の呟きと共に、影の体にヒビが入る。
そこには人間らしい血も肉もない。
亀裂が広がり、指先から体の中心へと灰に変わっていく。
少女はその様子を最後まで見届けると、手に持つ大剣の魔法を解除した。
「結局、あなたが避難する程の時間はかかりませんでしたか」
大して離れられずに中途半端な所で呆然とする悠人に少女は降下しながらそんな言葉を投げかける。
「助けてくれて、ありがとうございました……!」
悠人は腰を折って少女に頭を下げる。
未だ正確に現状を把握出来ていないが、少女が悠人の危機を救ってくれたのは事実だ。
事情を聞く前に、それだけは先に伝えておかなければならない。
「お礼はいりません。これは私の役割なので」
それよりも、と。
少女は悠人の感謝の言葉をあっさり流すと、話題を移す。
「あなた、どこか体調に異変などありませんか?」
じっと悠人を観察するように見つめ、そう問う。
「え、いや……特には」
「……本当ですか? 病院に行きたくない子供じゃないんですから、素直に言って下さい」
「ほ、本当です! 打撲くらいならありますが、本当にそれくらいです!」
「……」
少女は目を細めると、魔力を高める。
『欠陥を見透かす硝子の瞳』
少女が片手を右目にかざすと、魔力の残滓が宝石のように赤い瞳を覆った。
その状態で悠人の周りを回り、様々な方向からしばらく観察すると、少女は驚いたような声を上げた。
「まさか、本当にどこも悪くないんですか……!?」
「は、はい……」
「『悪人』の魔力をあんなに受けて、何の影響もないなんて……」
今度は奇妙なものを見るかのような目で、悠人をまじまじと見つめる少女に、悠人はずっと思っていた疑問を放った。
「その、さっきから言ってる『悪人』っていうのはそもそも何なんですか?」
さっきの人が影みたいなのになったのと何か関係があるんですか、と。
悠人の質問に、少女は顕著な反応を見せた。
「まさかとは思いましたが、『悪人』を知らないんですか……?」
「えっと、はい……」
悠人が頷くと、少女はこれまでのポーカーフェイスを崩し、大きく目を見開いた。
そして躊躇うように視線を逸らし、その先の言葉を選ぶようにしばし沈黙した後、少女は再び口を開いた。
「『悪人』というのはーー」
「おや、もう終わってしまったのかい?」
突如、少女の声を陽気な声が遮った。
「!?」
「やあ、お二人さん。驚かせたかな?」
声がした方を見れば、悠人と少女のすぐ横に、いつの間に現れたのか、一人の青年が立っていた。
目測でも百九十センチ以上は確実にある背丈に、装飾の施された白いローブを纏っており、手にはその身長と同等の大きさの杖を持っている。
その姿は童話などで聞く典型的な魔法使いの姿に酷く似通っていた。
柔らかな声色同様、優しさの滲んだ表情を浮かべ、桜色の髪から覗く、理知的な翡翠色の目がこちらを見つめる。
「見た所、君達が渦中にいた可能性が高そうだけど、状況を聞いても良いかな?」
青年は悠人と少女の間で視線を行き来させる。
渦中にいた、というからには、今まさに起きた影のようなものにまつわる話で間違いないだろう。
その顛末の報告をどちらかがしろ、という訳だ。
すると、
「『悪人』が出現し、街の一角を破壊。その後、彼が襲われているのを見つけたため、私が到着次第悪人を斬りました」
慣れた様子で少女が事の次第を説明した。
青年はそれを聞き、うんうんと頷く。
「なるほどね。それなら今回もお礼を言わせて貰うよ。これだけの人がいながら、ここら一帯が血の海になっていないのは、君のおかげだ」
そう言って恭しく頭を下げる青年。
しかし、少女はそれに首を振る。
「いえ、お礼なら彼に。私が到着する前から、彼は既に街の人の救出を行っていました。私の魔法である程度確認しましたが、人的被害は恐らくゼロです。それに加え、彼は間近で悪人の魔力を受けた筈なのですが、体調に異変が無いらしく……」
「ほう、それはそれは……」
少女による追加の情報に、青年は眉を持ち上げ、興味深そうに悠人に視線を移した。
「君、空木悠人君だね?」
「!? どうして僕の名前を?」
唐突に呼ばれた自分の名前に、悠人は驚きを露わにした。
見ず知らずの、何の接点もない人物に一方的に名前を知られているのだから、当然の反応だ。
青年はそんな悠人の反応に満足そうな笑みを浮かべた。
「ふふ、それは勿論知ってるさ。何せ私は君達の」
青年がその先の言葉を発しようとした時。
軽快な音楽が青年から流れた。
青年は、おっと失礼、と杖を持っていない方の手を服の中に入れ、中から音の発信源である携帯を取り出した。
「もしもし、私だけど……ふむふむ、おお! もう揃っているのか。分かった、私もすぐに向かうよ」
手短に電話を済ませると、青年は笑顔を浮かべてこちらを見た。
「さてと、少し話でも、と思ったけど、どうやらそれは後にした方が良さそうだ。ここに留まっていると都合が悪いからね。さあ行こう、被害に関しては後でこちらが対応するから心配いらないよ」
「あの、行くってどこに……?」
「決まってるじゃないか、君の着てるそれは何だい?」
首を傾げる悠人に、青年は悠人の胸元を指さす。
「星源学園魔法学校入学式、あと十分ちょっとで始まるよ」
「あっ!! そうだっ、入学式が! でも、ここからじゃもう……」
すっかり意識の外に追いやられていた大事な用事を思い出す。
それでも、残された時間はあと十分程しかないという事実が、その用事に間に合う可能性を否定している。
「まあそれどころじゃなかったから仕方ないさ。けど、まだ間に合うよ」
諦めるには早い、と青年は杖に魔力を集め出した。
バサっと外套をはためかせ、魔力の集中した杖で宙を突く。
すると杖を中心に光の円が発生し、円から放たれる眩い輝きがその場にいる三人を包み込んだ。
瞬きの間。
もしかしたらそれよりも短い間の出来事だったかもしれない。
光が視界を覆ったと思った瞬間、景色は変わり、目の前にはどこまでも広がる青空ではなく、満開の桜が咲き誇っていた。
「ここはーー」
どこか、と言いかけ、桜の最奥を見た悠人は口をつぐんだ。
そこには、青々と澄み渡る空にくっきりとその存在を主張する白亜の校舎が聳え立っていた。
その時点で校舎だと断じてしまったのは、傷や汚れ一つない真っ白な壁面に、悠人の着ている制服と同じ、五芒星と月桂冠の校章が刻まれていたからだ。
それこそ、正面の校舎が星源学園魔法高等学校の校舎である事の証明である。
「初めての登校がこんな呆気のないものになってしまってすまない。けど、許して欲しい」
この移動を行った当人である青年は、校舎に続く桜並木に挟まれた道の前に立ち、謝罪の言葉を口にする。
「いえ、こちらこそ、連れて来て頂いてありがとうございます! おかげで間に合いそうです」
悠人はそれに対して、とんでもない、と胸の前で手を振る。
どんな魔法を使ったのかは分からないが、複数人を瞬間移動させる魔法ともなると、その魔力消費は相当なものだろう。
わざわざそんな労力を費やしてまで運んでくれたのだから、文句など出る筈もない。
ただ、
「あの……あなたも一緒に来てしまって大丈夫だったんですか?」
唯一気掛かりがあるとすれば、近くにいた少女まで、ここ魔法学校に一緒に来てしまっていた事だ。
何せ、魔法学校の入学式に向かわなければならなかったのは悠人だけの筈でーー。
少女はそんな悠人の心配に、何を言っているのか、という表情を浮かべたが、すぐに合点がいった様子で身に纏っているコートに手をかけた。
コートが端から光の粒子に変わり、消えた。
コート自体が魔法で作られた物で、今少女の意思によって解除されたのだ。
そしてその下から顕になったのは、
「私もあなたと同じく、今日から星源学園の生徒なので」
悠人と同じ、星源学園魔法高等学校の制服だった。
「ええっ!?」
衝撃の告白に瞠目する悠人。
「何だ、彼女が星源学園の新入生だって知らなかったのかい?」
「そうみたいですね」
「へえ……」
「……何ですか?」
「ふふん、言っただろう? こういう子もいるって」
青年が得意気な表情を浮かべる中、少女は苦虫を噛み潰したかのように眉間に皺を寄せた。
「じゃ、じゃあ、あなたは……?」
「ああ、私? 私は……いや、やめておこう。ここまで来たし、まだ内緒にしておくよ」
少女が同じ学校の生徒だと分かり、今度は青年の正体に迫るが、青年はそれに答えようとして口を閉ざした。
「さあ、入学式会場までもうすぐだ。急ごうか」