Bewitch you
よろしくお願いします!
これは、不幸で幸せな少年の話。
その少年はごく一般的な家庭に生まれた。
子供想いの両親に、心優しい姉。
決して裕福ではなかったが、家族から十分な愛情を受け、少年は育った。
しかし、人生の一割にも満たないであろう幼い頃、そんな幸せな生活はあっという間に幕を閉じた。
少年が幼稚園に通い出した時、誰よりも優しかった姉が原因不明の病で入院した。
元々体が弱かった事も相まって、その後、姉は病院から帰って来なくなった。
少年が小学校に入学した頃、少年の誕生日に母親が事故に遭った。
飲酒運転のせいで、母親は誕生日ケーキを抱えたままこの世を去った。
残った父親は少年と姉に苦労を掛けさせまいと、死に物狂いで働いた。
朝食の横に置かれた父親のメモに、「おはよう」と言うのが少年の日課になった。
少年自身もそうだ。
よく怪我をし、物を盗まれ、いじめられた。
少年は幸せではなかった。
ここまで理不尽な現実を、幸せだと思える筈がなかった。
しかし、そんなある日、少年に転機が訪れた。
その日は朝から雨が降っていた。
灰色のドームに覆われたような無機的な空。
耳鳴りのように絶え間なく響く雨音。
葉に落ち、はじかれる水滴と同じように弾む学生の楽しげな声。
多くの人が帰路に着く時間、少年は一人近所の公園で雨宿りをしていた。
大人が二人か三人入れるくらいのドーム状の遊具の中で、スポンジのように水を吸ったリュックの中から私物を取り出していく。
手に取ればボロボロと崩れる教科書やノート。
雨で溶け散らかした紙の残骸がへばり付くリュック。
リュックの中に一緒にしまっていたため、同様の見た目になりながらもまともに形を保っている筆記用具と、小学校の頃に買った龍がデザインされた書道バッグ。
原型を保っているものでさえ、無事とは言い難い。
書道バッグに関しては、走りにくいからとリュックに詰めたのが裏目に出てしまっていた。
いや、原因の話をするのなら、昇降口に置いておいた傘を盗まれたことこそが、この事態を引き起こしている主な要因と言えた。
それが無ければ、少年の私物は無事だったし、全身滝に打たれたようにずぶ濡れになることもなかった。
雨宿りすることもなく、まっすぐ家に帰れていたのである。
どれだけ少年が嘆いても、雨は止みそうな気配を見せようともしない。
遊具の壁を無慈悲に強く打ち続けている。
例の如く降りかかる不幸。
慣れるにも慣れようのない現実。
少年がぐちゃぐちゃになった私物を茫然と見つめていると、
「やあ、少年」
少年の耳に、ふとそんな声が届いた。
少年は弾かれるように顔を上げた。
そして、声がした方、遊具の出口に視線を向ける。
本能的に動いた体に、遅れて思考が追い付き、今起きた事の分析を始める。
聞き間違いだろうか。
少年はそう思った。
外の雨音に邪魔される事なく、遊具の外から中まではっきり声を届ける事など不可能だからだ。
しかし、少年はその考えを巡らせる内に、ある違和感に気付いた。
先程まで永遠と聞こえていた筈の雨音がしないのだ。
少年は思わず立ち上がり、天井の低い遊具に頭をぶつけるが、そんな事も構わずに遊具の出口に近寄ると、そこから顔を覗かせる。
そして、あらん限り目を見開いた。
外は、晴れていた。
ほんの少し前までバケツをひっくり返したような勢いで雨が降っていたのに、今の少年の視界は雨粒のカーテンに遮られていない。
それどころか、日の光を遮っていた分厚い雲も綺麗さっぱり無くなり、夕日が建物や地面を茜色に染め上げている。
少年は遊具から出ると、空を見上げ、再び目の前の光景に愕然とした。
すると、
「驚かせたかな?」
背後から声が掛かる。
予期せぬ声に、少年は肩を跳ね上げた。
そして、背後を振り返った。
「すまないね。雨足が強かったものだから、止めさせて貰ったよ」
しかし、その甲斐あって君とこうして話すことが出来る、と。
そこには、青年が立っていた。
短く切った処女雪の様に透き通った白い髪。
幼さの入り混じった、男性か女性か判別のつかない中性的な顔立ち。
身長は中学生の少年より一回りも二回りも大きく、服装はごくシンプル。
下手な装飾は無く、全てが完璧に設計された作り物のように美しい。
青年は少年の前まで歩み寄ると、少年の疑問に答えるように再び口を開いた。
「僕は神様。君の願いを一つ、叶えに来た」
先程遊具の中で聞いた声と同じ、心地の良い声が少年の耳朶を打つ。
「神、様…?」
「ああ、そうさ」
少年は寒さで震える唇を小さく動かし、尋ねた。
青年、神様はそれを微笑んで肯定すると、少年の頭に手をかざす。
すると、少年の体を暖かい何かが包み込み、衣服の水分を取り去った。
あっという間に体全体の寒さと震えが消え、代わりに温もりが宿る。
少年は自分の服を引っ張り、目を丸くする。
再び信じられない光景を目にした少年は、正面に立つ者が本物の神様なのだと悟った。
そして当の神様は、その現象についてなんて事のないように話す。
「何でもできて、何でも知ってる、言ってしまえば僕は全知全能の存在だ。だから君の体を暖めることくらい造作もないし、君が今までどんな人生を歩んできたのかも知ってる」
「!」
少年は最後の神様の言葉を聞いて、身をこわばらせた。
少年は自身の過去を、周囲に隠してはいる訳ではなかった。
そのためクラスメイトでも事情を知っている者はいたし、それがいじめの原因にもなっていた。
しかし、それが少年のデリケートな部分であることに変わりはなく、その敏感な所を見ず知らずの者に突かれては、動揺どころの話ではなかった。
「思わないかい、何故自分ばかりこんな目に会うのか、と。苦しいだろう、一方的な理不尽に晒され続けるのは」
神様はしゃがみ込み、目線を下げる。
「君には権利がある。これだけ嫌な思いをしてきたんだ。復讐でも君自身の欲でも構わない。君の心からの願いであれば、それが何であろうと叶えよう」
「……」
「さあ、君は何を願う? 一ノ瀬歩君」
暫しの沈黙。
少年、一ノ瀬歩は顔を上げ、神様に願いを告げた。
「僕はーー」
その目は一片の迷いも後悔もなく、真剣そのものだった。
一ノ瀬歩の言葉を聞くと、神様は瞠目した。
そして嬉しそうに、満足げに微笑んだ。
「君の願い、聞き届けたよ」
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その晩。
静かに、かつ劇的に世界は変わった。
真夜中と言えど、外には多くの人が出歩いていた。
しかし、誰もがその変化の過程に気付くことはなかった。
気付いたのは日の光が街を照らし始めた明け方。
寝坊ばかりする学生も、夜勤疲れの残る社会人でさえも、その時ばかりは飛び起きた。
それに気付くと誰もが己の感動と驚愕を他者と共有すべく、まだ眠っている家族や友人を叩き起こした。
無理もなかった。
そのぐらい、それが人々にもたらす興奮は絶大だった。
それの名前は、『魔法』。
水が空を流れ、大地が隆起し、周囲の何よりも大きな樹木がいくつも生え、大気にはそれらの現象を生み出す『魔素』が漂っていた。
そして、人の手からもそれは発せられた。
人には魔法を使用するための『魔力』と呼ばれるエネルギーが宿り、掌に炎を、風を、雷を生み、それらを意のままに操ることが出来るようになった。
この日までは存在しなかった力。
日常が非日常に変わった日。
そしてその非日常は、日常へと馴染んでいった。