器の件【うつわのくだん】
妻と間男を殺めた純朴な牛飼いが、陽の当たらない牢で死刑を待っていた。
そこに王の元で働く工の匠がやってきて彼をじっくり眺め、やがて看守に声をかけ牛飼いを牢から出した。
彼は牛飼いを自分の工房に連れて行き小さな部屋をあてがった。
匠は何を作るのかは語らなかったが、彼に牛に関しての凡ゆる事柄を何日もかけて尋ね続け書き留めた。言葉少ない牛飼いは好きな牛の話を言葉を選びながら丁寧に教えた。そうしてある日連れ立って市場へ行き牛飼いの見立てで一頭の美しい雌牛を飼った。
牛飼いは雌牛を育てながら匠の手伝いをした。
ある時、匠が牛飼いに目隠しをして馬車に乗せた。しばらくの間ごとごとと揺れる荷台の上でじっとしていると木々の匂いと湿気が増して森の中に入ったのを感じた。やがて馬車は止まり目隠しを外されると、頂と頂の間に無人の牧場があり、その彼方には一頭の大きな雄牛がいた。今迄見たこともないほど大きく立派な雄牛は背に陽光を浴びて佇んで居た。
匠は牛飼いにできるだけ近づくことなく雄牛をを測ることを命じた。牛飼いの注意を受けながら遠くから雄牛を採寸した。
秋の終わり頃になると工房に何度となく王宮からの使いが覗きに来ては匠に王妃の品の完成を催促した。匠は急いで作ることで品の出来が落ちることを厭い、使いにも厳しい言葉を返し続けた。
匠が王妃のために何を作ろうとしているのか、牛飼いには皆目見当がつかなかったが工房の机の上に広げられた図面には雌牛を真横から描いた絵があり、何故か中がくり抜かれて、台のようなものが組み込まれていた。
王妃が欲しいのは牛の置物なのだろうか。もしそうだとしたら何を入れるためのものだろうか。
ある日、匠が悩ましい表情をして小さな牛飼いの部屋に入ってきた。
彼は何かが出てくるのを押さえつけるように額に手を当てたまま、この世にあの雄牛のような大きさの雌牛は居るのだろうかと牛飼いに問うた。牛飼いは匠を恐れながら、居てもあの雄牛頭2つ小分は小さいと答えると、そうかと呟き、お前にこれを見て欲しいと例の図面をひろげた。
その図面には以前に見た時と違い、牛の中に人が、四つん這いになった女性が描かれていた。これは王妃とあの雄牛が交わるための器だ。この中には王妃が入る。しかしこの大きさではあの大きな雄牛が王妃を貫き殺してしまうのだ。あの雄牛より大きな雌牛が居ないならば、雄牛を騙す事は出来ない。あれはミノス王が神から授かった牛だからな。
暫くの間匠をじっと見ていた牛飼いは炉から炭を取って図面に簡単な人型を書き足した。人型は匠が描いたものとは反対に尻尾の方に王妃の頭があり、しかも仰向けになっていた。
牛飼いは最後に太い線で弓なりに反り返り人型の足の間に滑り込む雄牛のものを描いた。
成る程これなら距離と勢いが稼げる。お前は素晴らしい。匠はそう言って工房に戻っていった。
牛飼いは一人になると、胃の中から上がって来るものを全て吐いた。
器が完成した日の夕刻、雌牛は牛飼いによって静かに命を奪われ、血の一滴も落とさずに綺麗に皮を剥がれた。
四人の兵を外に残した王妃が静かに工房に入って来ると扉は固く閉ざされ、三人だけの企みが始まった。
王妃はダイダロスに言われるがままに身につけていたものを解き始め、削り屑と油が散り撒かれた床に高価な衣を落としていった。
薄れていく陽光と蝋燭の炎に照らされた王妃パシパエーの一糸纏わぬ姿は陶器の様に蒼く艶やかで艶かしく、ただ頰のみがこれから始まる秘儀を想い紅潮している。
王妃があられもない形で器に入ると入ると足の間に山羊の角を三重に重ねて削った弓なりの機具が当てられた。王妃ははっと小さく息を呑んだ。
皮は器に被せられ丁寧に縫い閉じられた。
「ダイダロス、妾は感謝しておるぞ」
器の中からくぐもった声が聞こえた。
陽が落ちると器が載せられた荷車が二頭の馬に引かれて工房を出た。
王妃の四人の兵の馬も後から付いて来る。
牛飼いは今度は目隠しをされなかった。彼は背中にかけられた兵たちの眼差しを感じながらこの秘儀が終わった後の事を考え、元々牢の中か処刑人の刃で果てるものであった自らの命が、少しだけ多く夜明けと日没を迎えられただけだと冷たいため息を漏らした。
そのため息を聞いたのかどうか、匠はこう呟いた。
お前は寡黙で頭も良い。私といる限り死罪からは免れられる。私の弟子になるが良い。
雄牛の牧場にたどり着いた。雄牛は丘の向こうにいるのだろうか、姿は見えない。
綺麗に整った芝の上に黄金で作られた大きな水飲み桶が置かれたあるのが滑稽に見えた。
この季節にいるはずではない狂った森の虫達が大雨のような音を立てて鳴いている。
王妃の入った器が柵の中に置かれ、尻の部分に雌牛の汁をぬりつけ、茂みの中で紐の巻かれた歯車を回すと、器はまるで生きた若い雌牛のごとく発情の仕草を始めた。
仕草を教えた牛飼いさえ本物と見紛う程の動きである。牛を動かす歯車からもう一つ別の回転を起こした小さな歯車は雌牛の切ない声を生み出した。
やがて雄牛が丘にその堂々とした姿を見せ、ゆるりと偽りの牛の方に寄ってくると
器の尻の周りを行ったり来たりした後、突然器の背中に前脚を乗せ掛けた。
器の中からこの世のものとは思えない悲鳴が聞こえる。獣の悲鳴だ。
牛飼いは匠の横で立ち上がった。彼の腕を掴もうとした匠を振りほどき、茂みを駆け抜けて熱湯の様な鼻息を上げている雄牛に駆け寄り、力任せに尻を叩いた。
行為を邪魔された雄牛は怒りの唸り声をあげて片脚を蹴り上げた。脚は牛飼いの顎に当たり、顎の骨は砕け頭にめり込んだまま枯れた木の葉が冬の始まりの風に吹かれるように夜空に舞い、そして遠くの茂みに落ちた。
そして虫が一斉に鳴き止み、森は静寂に包まれた。