名を知る少年アリス
人混みをかき分けた先にはバターの香りがあった。僕はその空気を食べるように急ぎ足だった。
「とうさん!かあさん!早く!」
後ろから僕を呼び止める笑い声が聞こえる。僕はそれでも急いでいた。半年間夢にまで見た遊園地に来たからだ。県外からも人が遊びにくるような所だ。幼い頃に入った記憶しかない僕はこの半年間さんざん駄々を捏ねまくってようやく来ることが叶った場所だった。
僕はみんなに自慢するように歩いて、あれに指を指した。
「あれに乗りたい!あのジェットコースターに!」
僕は大きくなったことを、ジェットコースターくらい乗れるようになったことを家族に自慢したかったのかもしれない。
「ジェットコースターなんか乗れるの?」とかあさんは心配そうに僕を見つめた。
「無理すんなよ!」ととうさんは笑った。
「あんなの余裕で乗れるさ!」と僕は意地を張った。
ジェットコースターに並ぶ列が見えた。その入り口には身長を測る看板が立ちはだかっていた。
「やっぱり、あのアリスの奴にしとけば!?」とかあさんは言う。
アリスの奴とは、アリスみたいな不思議な世界を歩きながら巡る簡易的でお子ちゃまじみた施設の事だった。
「嫌だよ、あんなところ!」
「でも、身長ギリギリじゃない!?」
「へいきへいき!靴のなかにティッシュ詰めとけば余裕だから!」
それか髪の毛をもこっとさせる案もあった。かあさんは列へと並び出した僕を見つめていた。僕は一人で列に並んでいた。
かあさんは高所恐怖症でジェットコースターなんて論外だったし、とうさんはきっと僕が一人で乗ると言い張ったことを受けて、僕を試そうとしていたんだと思う。
並ぶ列がまるで僕は焦らせるようにゆっくり進んだり早く進んだりした。
「もうすぐだな~、。」なんて強気な独り言を言って見せたが、本当は階段を上るだけで足がすくみそうだった。そして、いよいよ僕は前から4番目になった。
「君、乗る前に身長測ろっか!?」とスタッフが僕を呼び止めたが、僕は堂々と乗り場の看板へと向かった。そして、「背伸びしてませんよ!?」と目で合図すると、スタッフは頷いていた。
「じゃあ、前から二両目の左側に座ろっか!?」
僕は言われた通り動くいい子を演じた。靴の下にあるティッシュを隠すために。スタッフが一人一人チェックしていく。僕のチェックをしたのは人相の悪いお兄さんだった。
「それじゃあ、皆さん準備はいいかな!?」と元気のいいお姉さんが言う。
「いってらっしゃい!!」そう言われた僕は調子に乗って皆に手を振り返していた。
ーガタン
ジェットコースターが天国へと上っていく。その怖さよりもかあさんととうさんに見せつけてやりたい気持ちでいっぱいだった。下を覗いてかあさんととうさんの姿を探す。みんなが点で小さくなっていく。
ーガラガラガラ
頂上までの間、自分の成長に浸る素振りをしていた。今度はもっと怖い奴に乗ろう。とうさんでもビビって逃げ出すようなそんな怖い奴。
この坂を下るその瞬間にきっと写真を撮られるんだよな。だからピースでもして高らかに乗っていたことを証明するんだ。
ーギコン
頂上に着いた時、出発と違う音がした。それが始まりの合図なんだと自分で納得していた。
頂上から落ちる瞬間、ジェットコースターの何かが欠け落ちる音だけが見えた。
(あ!写真の存在忘れてた!)と思ったと同時だった。
僕のシートの下で何か大きな音がした。自然現象に近い揺れが僕の脳にダイレクトに来て、気がつくと目の前には鉄の棒が見えた。それが最後の風景だとみんな思っている。
だけど、僕の頭の中の最後は、家族三人であのお子ちゃまっぽいと馬鹿にしたアリスみたいな世界を笑いながら歩く風景だった。僕は本当はそれを望んでいたのかもしれない。それが僕にとっての幸せだったのかもしれない。僕はこれに乗ったことよりも、変な意地を張ったことを後悔した。
僕はコースター事故で死んだんだった。
***
僕の名前は有栖川るいだ。
僕がここに来た理由は隠れるためだ。やがて来る天国のお迎えに。
逃げるためだ。悲惨な事故の現実に。
浸るためだ。家族との細やかな甘い時間に。
手紙はいつの間にか僕の手の中でくしゃくしゃになっていた。
(君は本当はこの世界から出たくないんじゃないか!?)
檻の前にいたあの声の主は祖父だった。父方の祖父も祖母ももうずいぶんと前に亡くなっている。僕はその全てを理解した。チロルが導いてくれた理由も、イカれ帽子屋のとうさんや花札の女王のかあさんが泣いていた理由も全部。
そうだ、本当は僕はこの世界に残っていたかったんだ。いつまでも。隠れていたいし、逃げていたいし、浸っていたい。でも、その先に何があるんだろう。幸せではないことは確かだった。
「時間も命も限りがある。だから、尊いんだよ。」
みんなが僕がこの事実を知った時のショックを想って残してくれた言葉が今、耳にやって来る。
でも、、、。でも、、、、。
「大事なことは目をつぶらないこと、あらゆることからね!」
チロルの声がした。この世界を創らざる終えなかった僕の全てから目を剃らしちゃいけないんだ。僕はくしゃくしゃの手紙をゆっくりと丁寧に広げた。
再び手紙を呼んでいたら、目が熱くなって字が歪んでいく。すると肩にそっと暖かさがやって来た。
チロルだった。
「おかえりなさい。」とチロルは僕の肩に手をおいて、静かにささやいた。
「ただいま、、、、、。」僕は声を泣かせながらそう言った。
「全部分かったんだね。」
「うん。」
「へいき?」
僕はしばらくしてからチロルに返した。
「もうへいき!」と僕は静かに立ち上がった。
「さあ、名前を口に出すんだよ。名前はおまじないなんだ。もとの世界に帰るためのね。大丈夫。私もいるからね。」とチロルは手紙を持つ僕の手を包んだ。
「ありがとね。」
僕はもとの世界で出会った人、この世界で起こった事の全てを思い出していた。そして、例えこれからどんな存在になろうとも忘れない。忘れない。
「僕の名前は有栖川るい。」
名前を理解したアリスはこの世界を連れてもとの世界へと消えていく。まるで夢のように。
最後まで読んでいただきありがとうございました。