9・わたし海に出る(2)
巨大なサメの顎が迫ってきて。
それからの数瞬、いろんなことが起きました。
*
まず感じたのは、アリーくんの体のやわさ、体温。子供ってこんなにあったかいんだ。
それから、サメの歯の鋭さ。向かってくる。
死ぬ。
守らなきゃ、アリーくんだけでも守らなきゃ。ああなんて立派な心がけ。ギュ、抱えこんで、
カイが、棒っきれを両手で振りかぶって飛び込んできました。
大きく反った背、見開いた目、一文字に引き結んだ唇。
同時に、なにかが風を切って飛ぶ音を、たぶんふたつ聞いて。
赤い飛沫が上がって、目にかかって。一瞬、視界を奪われました。
カイ、棒っきれ……パドルを振り下ろすことなく石のように海に落ち、
*
「サメか。よしよし、びっくりしたよな、そりゃ」
浮いてきたカイが、わたしの腕の中でポカンとしてるアリーくんの頭をなでました。
「か、カイ!! ケガは!?」
「大丈夫、山長の矢でかたが付いた。
……この漁は、追い込まれた魚どもめがけて、でかいのが突っ込んでくることがある。それだけは言っとくべきだった。すまない」
くだんのサメは、腹を見せて浮いてました。海水に溶ける薄い血と、なかなか溶けない濃い血を流して。改めて見るとそんなに大きくはなく、たぶん一メートルそこそこ。
その目のあたりに刺さっている矢が一本。そして、もっと太くて長い矢が、えらから入って胴体深くくいこんでました。
たぶん後者が、山長だという巨人のものなのでしょう。じゃあ前者は……?
次の瞬間また、いろんなことがいっぺんにおきました。
魚のおじさんが、欠けた左の人差し指を立ててなにか叫び、
バチンッ!! 身のすくむような破裂音。
静かな巨人が、トーニくんを……わが子を、舟底へとはり倒したのです。大きな手のひらで。
長老が腕を広げ、なにか皆に呼びかけました。にこやかに。
この程度のアクシデントはありふれてるのでしょうか。
みな、笑ったりかぶりを振ったり、それきりで漁の締め、魚を網に取りこむ作業に掛かりました。
「さてミユキ、舟に戻ろう。私が先に戻って引っ張り上げてやる」
その声でわれに返るわたし。
アリーくんをますますギュッと抱きしめたまま、蚊の鳴くような声で訴えます。
「あの……カイ、その、お約束っていうか?」
「は? なんだって、オヤクソク? なにがだ」
頭のてっぺんまで赤くなってるのが自分でもわかりました。
「…………………………。胸布、とれて流されたっぽい……」
舟の上、すばやく判断を下す、かしこいベル。もう一人の少女に手を伸べて、
「ママヌ! あんたのを!!」
ママヌちゃんはノーと叫んでわが身を抱きしめました。そりゃそう。
*
たくさんの獲物を抱えて、浜に戻って(胸布はそのへんに漂ってたのを回収しました。お騒がせしました)。
誰もかれもワイワイにぎやかな中、帰って寝るというカイを引き止めました。
「カイ、トーニくんにありがとうって言わなきゃ。彼でしょ? もう一本の矢」
返ってきた答え、なんとなく予想した通り。
「ええとな……今日のトーニの役目は、鏑矢での信号手だったんだ。
サメが出たとして、人のそばに矢を打ちこんでいいのは、許された大人だけだ。今日の山長みたいに。
親父さんが殴って、長老が許したからうやむやになっただけ。トーニは追い込み漁のルールを破ったんだよ。ほめたり感謝したりはできない」
生真面目。そして強情。
「ん。今の話、聞かなかったことにしますね」
「は?」
ニッコリ笑って、浜につっ立っていたトーニくんのもとに駆け寄りました。
「あの! さっき、ありがとうございました!」
少年は、左の頬をかわいそうなくらい腫らしたまま、まるで無関心に、
「別に感謝されることじゃない」
それでも立ち去らなかったのは、きっと、カイがいたから。
カイ、バツ悪そうにしばらく黙ってたけど、やがて苦笑いを作ってみせました。
「弓、腕を上げたな。だが親父さん超えなら、あと十年はかかるんじゃないか?」
きびすを返し、去りかけて。
少年はふと、固めたこぶしを、こちらにつきつけました。
「一年もかける気はない」
遠くの騒ぎに目をやると、わたしの前では泣かなかったアリーくんが、お母さんに抱かれて大泣きしてるのでした。
*
夜、
「トーニのやつ、最近意味わからないな……?」
首をひねるカイに、こっそり笑みをこぼしました。鈍感。
*
その夜、漁の疲れか、意外に早く寝落ちしてしまって(ふだんはなるべく起きてカイとおしゃべりしてるんですよ?)。
すこし怖い夢を見ました。
毎晩のように見るお母さんの夢じゃなく。
陽の光を背負って、跳びこんでくる。褐色の少女。目を見開き、歯を食いしばって。
振り下ろされる棒っきれ。
その先端が海に触れた瞬間、棒きれと少女、もろとも砕け散ってしまったのです。粉々に。
ハッと目覚めて、あわてて姿を探して。
カイ、やっぱり漁の疲れか、子供みたいな顔で居眠りしてました。




