恋い慕いおもい
先生、好きなんです。頭がおかしくなるほど好きなんです。あなたの笑った顔を見ると心が浮き立って仕方がないんです。どうしても、どうしたってあなたのことしか考えられない程好きなんです。
覚えていらっしゃいますか。初めて先生にお会いした時、心が騒いで仕方がありませんでした。薄桃の花びらが舞って、私の制服がまだ真新しい春の日でした。あなたは緊張しきりだった私に「入学おめでとう」と声をかけて下さいましたね。
誰も知らない高校でその一言がどれだけ嬉しかったか、先生はご存じないでしょう。私、一言で恋に落ちました。一目ぼれではありません、そんな浮ついたものではございません。だってあなたの風貌なんてお世辞でいってもよくないこと知っているんです。
くたびれたシャツに薄汚れた白衣を着て、寝ぐせであちらこちらに散らばっている髪に微か匂う煙草の香り。どう考えたって良い大人じゃないでしょう。けれども私、そんな先生に恋をしたのです。
先生、好きなんです。一人あなたのことを考えて死んでしまう程思っているんです。胸が苦しくて切なくて夜も眠れぬほどあなたが好きなんです。私、きっと一生分の恋をあなたに使い果たそうとしているんだわ。胸が張り裂けそうなほど辛いのです。
雨の降る降る一日でした。私は傘を忘れてしまって下駄箱で立ち往生をしておりました。止まない雨はしとしとと、地面には水たまりが出来ていて、おろしたての靴下が濡れてしまうと憂鬱な気分でした。そんな折、先生は偶然通りかかったと仰って、透明のビニル傘を貸してくれましたね。使い古しの少し汚れた傘。私、嬉しくってつい顔が綻んでしまいました。あなたはそんな私を見てくしゃりと目じりに皺を作って、奇矯な奴だとお笑いになりましたね。その表情はいつもよりずっと幼く見え、年も幾らかしか違わない少年のようでした。ご存じないでしょうけれど、先生の一挙一動が私を一喜一憂させるのです。どうしてどうしてもっと早く生まれてこなかったのでしょう。同じ年を重ねれば先生だって私のことを子ども扱いすることなどないでしょうに。
先生、好きなんです。頭からつま先まで。縦横無尽に撥ねた髪一本一本、紫煙をくゆらせるその姿も好きなのです。胸の内に納めなければと溢れだしそうな思いを私抱えているのです。それがどれだけ苦しいことか先生は知っていますか。先生、あなた本当はもう察していらっしゃるのでしょう。それなのに素知らぬ振りをしてふいと違う生徒に呼ばれて行ってしまう。私切なくて切なくて涙が零れ落ちそうでした。
夏の長い休みに入った直後町をぶらついていた私に声をかけて下さった。先生はいつものくたびれた格好じゃなくて、Tシャツとジーンズを履いておりましたね。とても教師には見えないと私がからかうとあなたは少し機嫌を悪くしてすねた顔をしました。常々私を子ども扱いする癖に先生の方がよっぽどそれらしくって思わず笑ってしまいました。
ねえ先生、解っているんでしょう。こんなにも感情が素直に出てしまうのはあなただからだってこと。私、いつもはもっと澄ましているのよ。大人っぽいともクールだとも言われているわ。先生、先生だけなんです。些細なことで私の心をすっかりいっぱいにしてしまえる人は、あなただけなんです。世界でたった一人あなただけなのです。
女たるもの楚々としてあれ。色恋に現を抜かし日々を疎かにすることは許さない。私の両親は頭の固い人でした。幼いころより女子の嗜みだとお花やお茶、お稽古事に勤しんでおりました。良縁が結べるようにと礼儀作法に煩く私は日々窮屈さと息苦しさを覚え、いつしか逃げ出したいという願望を持つようになったのです。
けれども十六になったばかりの小娘が家に逆らうなどどうしたって出来ませんでした。高校についても共学など言語道断と一蹴され、父の望み通りこの学校へ入ったのです。初めから敷かれたレールの上を歩く人生に希望など持てませんでした。
金持ちの我儘と言われるかもしれませんが、血筋や財産しか見ない男たちが婚約者の候補だと知って私の心は緩やかに死んでいきました。言われるがままの人形、それが私の役目でございます。未来に一片の希望などありません。待ち受けているのは利益や打算に塗れた愛のない結婚。
外で愛人を作って囲っている父と表面上は仮面をかぶり良き妻を演じている母。何にもに恵まれている私ですが、残念なことに家族の愛には縁がありませんでした。仮面夫婦と薄気味悪い家族ごっこ。父も母も私を決して愛しているわけではありません。縁づくりの道具として生かされているのです。豪奢な屋敷も私にとっては冷たいだけで牢獄同然でした。
先生、こんなことを言えばきっとお笑いになるのでしょうがあなたは初めて私が感じた希望なのです。
好きなんです。頭が狂ってしまうほど好きなんです。せめて夢の通い路でお会いできたならばと毎晩祈っているほど先生が好きなのです。もしもあなたが「今夜は月がきれいですね」と仰ってくださったのなら、私は必ず「死んでも良い」とお伝えいたしましょう。
過度な期待はしていけません。身を亡ぼすような行動は慎まなければなりません。先生、私はあなたを狂おしい程思っているのですが、あなたの身の破滅は望んでおりません。
だからこそこの胸の内、決して悟られてはならぬと本当にそう思っているのです。けれども先生、本当にあなたは酷い人。
あれは月の大きい夜でした。国語科の先生に手伝いを頼まれた私は資料をまとめ学校を出るころには日はとっぷりと暮れていました。秋の日は釣瓶落としとはよく言ったものです。電燈の無い道をとぼとぼと心細くなりながら歩いていると東の空にオレンジ色に光る月が昇っておりました。私は歩みを止めしばらく見蕩れていると、後方から誰かが私の名を呼びました。声の主の方を振り返れば呆れと心配が混ざったような表情をしている先生がいたのです。思わぬ僥倖に浮き立つ心でしたが、先生は厳しい声音で「危ないだろう」と仰いましたね。聞いたこともない口調で繰り返し繰り返し注意するあなたに私はすっかりしょげ返ってしまい、意気消沈しました。するとまずいと思ったのでしょう? 幾分か和らいだ声で「送っていく」と仰って隣を歩いてくださいましたね。私は悲しいのだか、嬉しいのだかその両方をいっぺんに感じそれでも幸せを覚えました。
先生、先生にはきっと判らないことでしょうね。泣くほど嬉しかったのです。もうこれ以上に幸福を感じることなどないと思う程嬉しかったのです。先生の表情がよく見えないのは残念だけれど、周囲が暗くて良かったと思いました。だって私の頬は溢れだした感情で濡れていたのですから。
現実を見ていないわけではありません。夢見る乙女でもありません。清廉潔白な少女ではございません。人間の暗い部分を知らないわけではありません。それでも先生、私はあなたを好きになって初めて呼吸をしたのです。そんなことをお伝えすればきっと先生は私から距離を取るのでしょうね。
ねえ先生。私も悠長なことを言っている場合では無くなりました。状況が変わってしまったのです。長らく決まっていなかった婚約者が決まりました。十も上の方だそうです。高貴なお方の血筋を引いていらっしゃる上品な男性だと母は言っておりました。両親は慶事と喜んでおりましたが、私の胸は張り裂けんばかりです。
先生、どうかお願い。後生です。私をどこかに連れ去って。お金が無くても無精でも何でも良いのです。先生が傍に居て下さるのならば私の人生は茨の道だとしても薔薇色なのです。ねえ先生、私を哀れだとお思いなのであれば、どうかどうか私をこの檻からお救い下さい。なんて、嘘です。
先生、先生とお会いできて私は初めて恋を知りました。おままごととお笑いになるかもしれませんが、あなたに対する私の思いは寸分違わぬ愛でした。けれども先生、私以前にお伝えしたでしょう。あなたの身の破滅を望んでいるわけではないのです。女の恋は恐ろしいと言いますが、先生。先生はどうか幸せになってください。きっと、あなたが笑っていれば私もきっと幸福なのです。魂の半分は既に先生に捧げております。だからどうか素敵な女性と薔薇色の道を歩んでください。
先生、好きなんです。いっそ気が違ってしまえば良いと思う程に好きなんです。私の世界の中心は先生なのです。ぶっきらぼうな態度も、煙草の匂いも、くたびれたシャツの皺すら愛おしいのです。
結婚を告げたときの先生の顔と言ったら私、笑ってしまいました。目をまんまるくして、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔つきでしたね。その後、「そうか」と仰って寂し気な表情をして。私、笑顔でさよならするつもりだったのよ。其れなのに、くしゃりと髪を撫ぜる掌は優しく温かくて。先生、どうしてと問えばその答えは素晴らしく胸を打つもので私は言葉を失いました。
出会って三度目の春。薄桃の花びらは未だ蕾の中でした。先生、先生は悪い大人です。分別のついたことを仰っておりましたが行動とまるで伴っておりません。
白梅の匂いが微かに香り、さらりと温くなった風が私の髪をさらいました。先生はじっと私の顔を見つめ、それからゆっくりと目を閉じます。髪を撫ぜていた掌が私の頭を包み込み胸の中に閉じ込められる。唇と唇が近づき、互いの吐息すらも感じられる距離になった時先生は荒々しい口づけをして下さいました。私が離れようとしても力強い腕の中に閉じ込めて何度も何度も。私は身体の芯までとろけそうになって、波にのまれぬよう必死に先生の背に手を伸ばし縋りつきました。
先生、私きっとこの日のことを二度と忘れないでしょう。後悔はしません、後悔など絶対にしてあげません。あなたはとうとう最後まではっきりした言葉を仰って下さいませんでしたけど、もう良いわ。だって私が先生を好きなことは生涯変わらないのですから。
先生、好きなんです。もう二度とお会いできなくとも好きなんです。この先どんなことが待ち受けているとしても、ねえ先生。私はあなただけを胸の中に入れて生きていきます。これが私の生涯初めてにして最後の恋でございました。それではごきげんよう、さようなら。