第七話 誰しも思うとことはある
朝を告げる鳥の声が王都ラシャスに響き渡る。うーんと眼をこすりながらムネチカは目を覚ました。もう朝か、と二度寝しようとしてベッドの感触が違うことに気づく。目と口がグワッと開かれる。
「そうだ僕!」
ムネチカは跳ね起きた。窓がないゆえに薄暗いが、扉下部の隙間から光が差し込んで物の輪郭くらいは分かるようになっている。
「ガーベラ様、じゃなくって、さん!」
ムネチカは自分の隣を見たが、そこには彼女の姿はない。布団も冷えており、だいぶ前にいなくなったことを示している。
夢でも見ていたのか、とも思ったが、そもそも自室でない部屋で寝ていた時点でおかしいのだ。
ムネチカはベッドから降り、明かりが漏れる扉へと向かった。
扉の向こうは光であふれかえっており、ムネチカは額に手をあてた。
「殿下、おはようございます」
光の向こうでギルベルトの声がする。ムネチカの護衛隊長という職柄、この部屋で待機していたのだろうか。
「おはよう、ギルベルト。それはそうと……」
目が慣れてきたムネチカは部屋を見渡すように顔を回す。
(当然だけど、ガーベラさんはいないな)
「ガーベラ姫なら、いま湯浴び中であります」
「え、あ、そ、そうなんだ」
心の中を見透かされたようで、ボッと顔が熱くなる。チロリとギルベルトを見たが、彼はきりりとした顔を崩してはいなかった。
(良かった、バレてない)
ホッと胸をなでおろすムネチカ。
「殿下もお召し替えがありますので、一度自室へお戻りください」
ギルベルトの声にムネチカは困惑する。
確かに昨日ガーベラと会うための服装から、いつの間にか肌着にされていたが。恥ずかしくなってしまうので、誰が脱がしてくれたのかまでは考えないことにした。
(ガーベラさんはどうするんだろう。今日は父上に謁見なのに)
昨日は夕刻ということもあって、その日のうちに国王への挨拶はしないことになっていた。その代わり翌日の今日、朝一番で謁見となっていたのだ。そこでこれである。
彼女の準備不足が目に見えていた。
「ガーベラさんは」
ムネチカが「ガーベラさん」と言ったことにギルベルトは片眉を上げたが、きりりとした面持ちに戻った。
「姫はお付きの侍女殿と我が方のメイド達がお支度をしております。別室にて待機と――」
「ガ、ガーベラさんと一緒じゃないと!」
ムネチカは彼の言葉を遮って叫んだ。
昨晩、ガーネラはムネチカを襲う不逞な輩から守ると断言したのだ。それゆえに別室になっては彼らの思うつぼになってしまう。
焦ったムネチカだが、ここは学園であり、彼を筆頭にそれなりの警護がされていることを失念していた。
「で、ですが、ガーベラ姫は魔法の達人であり、単身でこの王都ですらも灰燼に帰せるとも噂されるお方です」
普段はおとなしいムネチカが強く反応したことに、ギルベルトは狼狽した。何が彼の主をそうさせたのか不明だが、彼を落ち着かせるべく言葉を続ける。
「それに、専属侍女の淫魔は、姫にも劣らぬ魔法の腕前とお聞きしておりますれば。もちろん我らも護衛体制に隙はないと自負しております」
ギルベルトは冷静に厳かな礼をしつつだが〝淫魔〟の言葉で語気を荒げた。
「あ。ご、ごめん」
ムネチカはしまった、と顔を俯かせた。ギルベルトにとって淫魔は唾棄すべき対象だった。
几帳面で潔癖なところのある彼は、淫魔という存在に激しい嫌悪感を示すのだ。もっともそれだけではないことをムネチカは知っている。
(ともかく落ち着こう)
ムネチカを狙う勢力がいるとすれば、今の手薄な状況は好ましいはずだった。今この頼れる近衛隊長に話をするのは容易だが、いたずらに話を広げ護衛体制を強化していったとき、相手はそれを上回る規模の攻撃を考えるはずである。
奇襲は、する側が必ず有利である。兵法の基本だ。
彼らの都合の良いタイミングで行われる攻撃が大規模であれば、たとえムネチカがガーベラによって守られたとしても、周囲の被害が甚大になると予想される。
それはムネチカのみならず国王であるクニツナも望むところではないだろうことは、彼でもわかることだ。
その結果、戦端を開かずとも王都は混乱し、権威を簒奪せしめんとする勢力が鬨の声をあげかねない。そんな事態も避けなくてはならない。
(ギルベルトが、僕を狙う勢力があることは知らないはずだ。彼を巻き込むべきか、ガーベラさんと相談しないと)
軽はずみに言うことが憚れる内容に、ムネチカは戦慄した。自分の言葉が重みをもってしまったのだ。
今まではひ弱と言われ、相手にされなかった存在だった自分が一気に担ぎ上げられてしまったことに、恐怖を感じ始めた。
「ぼ、僕は自室で支度をするから、ガーベラさんの支度が終わったら部屋に来てほしいと言伝をしておいて」
ムネチカは顔を上げ、彼の言葉を待ちわびるギルベルトに告げる。
「はっ! 仰せのままに。では殿下もお召し替えを」
「わ、わかった」
ギルベルトに促されるまま、ムネチカは医務室を後にした。
周囲を見目が良い木目で囲われた、湯けむりが立ち込める湯殿。香料が入れられ、ほんのり薔薇の匂いがする猫足のバスタブに、ガーベラは肩まで湯につかっていた。橙の髪はアップでまとめられ、ぱっと見で角のようにも見える。まさに魔王だ。
ガーベラにつけられたメイド達はその三つ目の顔に慄き、頬を引きつらせながら湯殿の端に並んでいる。侍女であるキュキィも謁見するので、ともに湯浴びをしていた。
「いやー、一日ぶりの湯は気持ちいいっすね!」
キュキィはバスタブ脇で褐色の肌が弾く湯を、手で軽くぬぐっている。少し動くたびにたゆんと連れる乳房に、ガーベラの三つの視線が刺さる。
(なぜ私の身体は母上に似なかったのだ。私とて魔王の血を引くもの。もっと豊かな胸があってもいいはずだ)
ガーベラは湯船に口元を沈め、ボコボコと泡を吹きだす。そっと自らの絶壁に手を当て、キュキィのたわわなメロンを恨みがましく眺めていた。
「お嬢様ー。アザレア様も二十歳くらいまでは淑女的慎ましいおっぱいだったらしいっすよー。だから今が心配でもご安心っすー」
背中に生えた蝙蝠のような翼をぱたぱたと揺らし水滴を払うキュキィがニカッと笑う。眩しい笑顔が小憎らしくもあるが、キュキィに悪気はないのはガーベラもわかっている。
彼女は幼馴染で気の置けない、唯一の存在だ。そのくらいはわかる。わかるのだが。
「キュキィ、また私の心を読んだな!」
「読んでないっすよー。そんなもの欲しそうな目で見てたらわかるっすよー」
「くっ!」
下から胸を持ち上げるように見せびらかしながらの悪意のない笑みを向けられ、ガーベラは唇を噛んだ。
「胸の大きさが、すべてではない!」
「まー、胸の大きさも、男性の好み次第っすからねー。ムネチカ殿下の趣味は、どうなんすかねー」
キュキィの厭らしさの含まれた視線を受け、ガーベラは顔をそらした。
「ムネチカは、そのようなものには惑わされずに、私の本質を見てくれるに違いない!」
「いやー、なんかお嬢様の方がコテンパンにやられちゃってる感じっすねー」
「ふん、心落ち着けて私を見てくれれば、隠された魅力に気が付くさ!」
ザバっと立ち上がり、猫足のバスタブから出たガーベラは、控えていたメイドから差し出されたバスローブを羽織った。
魔族としては標準的な身長だが人間と比較すると女性としてはありえないほど高いガーベラの脛までしか丈がない。
「む、人間サイズだと私には小さいのだな」
「お嬢様は一八〇センチ近いっすからねー。成人男性でも平均より高い身長でないと釣り合わないっすからねー」
キュキィの何気ない一言がガーベラに胸に刺さる。
(ムネチカは、将来大きくなってくれるのだろうか)
並び立った時、彼の方が高い方が絵になるのだろうことは、ガーベラにもわかっている。たとえ自分が魔王になったとしても、だ。それくらいの乙女心は持っているつもりだった。
「人間の男性は、伴侶の身長について、どんな意見を持っておるのだろうな」
丈の足りないバスローブの裾を見て、ガーベラは呟いた。三つ目もそうだがこの身長も、人間の中では異質に映るだろうとガーベラは思った。これからどのような目で見られるのかを考えるに至り、彼女はぐっと口元を引き締めた。
(ふん、魔王の娘たる私が、この程度のことで何を弱気な。与えられたとはいえ自ら伴侶の心を傾けさせることなど容易いと見せつけてくれる)
ガーベラは頭にムネチカの寝顔を思い浮かべ、少しだけ頬を熱くした。
「んあ、まーた婿殿の顔を思い浮かべてにやけてるっすね」
「おま、心を読むなといっておろうがッ!」
ガーベラは、同じくバスローブにくるまれたキュキィを睨んだ。悔しいかな、彼女のバスローブはとあるもので前が閉じ切らずに強烈な谷間を見せつけていた。その谷間を、ガーベラは内心羨ましくも苦々し気な視線でもって見据えた。
(ムネチカは、私の体をどう思うのだろうか。やはり大きさを求めるのだろうか)
アンデッドは除外だが、人間に近い体の獣人などは大抵大きな胸をしており、それは雄をひきつけるためだった。三つ目族も例にもれず体つきは豊満な個体が多い。
数少ない男性が母性を求めるからだ、子を産んだ際に母乳の出が良い、などまことしやかに噂される内容に信憑性はない。ガーベラもそんなことは信じてなどいない。
だが、ムネチカは人間であり、精神構造が似ているとはいえ同じではない。個体として身長の差があることからも、同じことがあり得ないと察せられる。
だからこそ、ガーベラは不安なのだ。
「大丈夫っすよ。あたしが見る限り、この縁談はばっちしっすから。いやー、アザレア様の目の確かさは、さすがは魔王ってとこっすね」
ガーベラのことなどお見通しとばかりなキュキィがフォローを入れる。
「持たざる者の想いなど、お前にはわかるまい」
「あたしにない物なんてたくさんあるっすよ。なくなってしまった物だってあるっすよー」
変わらずに笑っているキュキィだが、少しだけ影が差したことにガーベラは気が付いた。彼女の触れてほしくない過去に言及してしまったのだ。
「母上か、すまなかったな」
「んなつもりで言ったわけじゃないっす。母上は名誉の戦死っしたから。アザレア様も、心を痛めてくださってましたし。お嬢様が気にすることじゃないっすよ!」
アザレアに仕えていたキュキィの母親は、魔王の懐刀として君臨していたが、先の会戦で戦死した。
自分の母親は生きているが、彼女の母親は亡くなってるのだ。キュキィにとって、いましがたの言葉は堪えただろう。
だがキュキィは、いつもよりほんの少しだけ明るく振舞うのだ。
(お前は強いな)
ガーベラは目を細め、そう思うのだった。