第四話 ムネチカ殿は寝顔も可愛い
「私はどうすればよいのだ」
ガーベラは、ムネチカを御姫様抱っこしまたた狼狽えている。額の三つ目も激しく揺れ動いていた。
呆れてものが言えない半目のキュキィはふむと口を曲げ、「いつもの威厳はどこに逝っちまったんすかねぇ」とガーベラに聞こえないようにごちた。
「異国の地でジタバタしてもしゃーないっす。ここはムネチカ殿についてるであろう護衛が来るのを待つっすよ」
「……そう、だな」
やれやれとするキュキィに、ガーベラも同意する。
夕陽が無言で地平に隠れていく中、彼女は腕の中のムネチカをじっと見た。
ほやーんとした優しそうな顔。さらさらと風に揺れる黒髪。自分よりもずっと小さく軽い身体。
(映像と変わらないのだな。可愛いものだ)
胸がほんわかと温かくなるのを感じ、少しだが、頬が緩んだ。
「お嬢様ーいいすか? 婿殿が成人するまでは、清く正しいお付き合いっすからね?」
キュキィの指摘に、ガーベラは額の目を向け睨む。ちなみにふたつの目はムネチカに釘づけだ。
「無論だ。そのようなはしたない真似はせぬ」
ガーベラは額の目をムネチカに戻した。私とてリードされたいしな、と言葉を濁す。
「パンツが見えても気にしないくせに、そーゆーとこは乙女なんすね」
「あれは、もののはずみだ、それにだな――」
ガーベラが不服を申し立てているところに、屋上への階段を登ってくる武装した兵士の姿が現れ始めた。一対一で会う約束のために階下で控えていた護衛だ。
だが彼らの足は、レッドドラゴンを見たところで止まってしまう。槍を持ったまま、恐怖を顔に張り付けた銅像のように固まってしまった。
レッドドラゴンのルッカは体長二十メートル、翼を広げれば四十メートルは越える。まして戦争中にはドラゴンで蹂躙されていた側の兵士である。本能的に恐怖を感じてもおかしくない。それにガーベラが恐ろしい存在だとの噂も後押ししているはずだ。
そんな噂を流されているとは知らないガーベラはノコノコと近寄っていった。
「あぁ、ムネチカ殿が気を失われてな」
「ひぇぇぇぇ!」
ガーベラが近づくと兵士たちは後ずさってしまう。凄惨な噂に加え、三つの目を持つ魔族という容姿が彼らを恐怖のどん底に落としているのだ。
肩をすくめたガーベラはそこで足を止め「危害を加えるつもりはない。ムネチカ殿をどこかで横にさせたいのだ」と訴えた。
「狼狽えるな」
顔を見合わせる兵士たちの間から、厳つい青年が歩み出た。年のころは三十路前と推測され、白い折り襟の騎士服に包まれている。
銀縁眼鏡から鋭い眼光を放つ目と忍耐を尊びそうな真横に結ばれた口。金髪角刈り四角い顎。肩の筋肉を盛り上げ、着ている白い騎士服と白い手袋はち切れんばかりにしている、ガチムチマッチョだ。
「お初にお目にかかります。私は殿下の身辺警護を拝命しております第二近衛隊の長ギルベルト・ビルケンシュトックと申します。姫に置かれましては、遠路はるばる、ご足労いただき、感謝の極みであります」
彼は筋肉を巻き込むように恭しく頭を下げた。獰猛な見かけに寄らず貴賓への対応に慣れている。
護衛の者たちには警戒されたままだが、ようやく話ができるとガーベラはホッとした。
「婿殿をどこへ運べばよいだろうか?」
「ムネチカ殿下は医務室に、私が代わりにお運びいたしますので、ガーベラ姫は応接室でお待ちいただければと」
「いや、ムネチカ殿は私の大切な婿殿だ。私が運ぶ」
ギルベルトの申し出をガーベラは一蹴した。彼を信用していないわけではなく、単にムネチカを独占したい、可愛らしい顔を眺めていたいという、魔族らしい邪な考えからだった。
しっかとムネチカを抱き、ガーベラは彼らを睥睨する。
彼女には魔王の娘というプライドもある。簡単に従うと思われては、今後に響くとの思惑もあった。
彼女の謎の気迫と悪い噂が護衛を怖気づかせる。ガチムチなギルベルトの眼光が増し、彼の手が剣の柄に触れた。黄昏時の温度変化よりも低下したと錯覚するほど空気が張り詰めている。
周囲のピリッとした緊張を感じたのか、キュキィが身を乗り出した。
「あーっと近衛の隊長さん。ちょっと花摘みに行きたいんすけど、どこっすかね?」
意識外から飛んできた呑気な声に気勢が削がれたギルベルトは、緊張で硬くした筋肉を緩める。ムキキキと首を曲げ、キュキィを見た。
「はな、つみ?」
「乙女に皆まで言わせちゃダメっすよ」
パチンとウインクを飛ばすキュキィが、剣呑な空気をあっさりとぶち壊した。
陽も落ち、夜が忍び寄り始めた学園の医務室。
ムネチカの護衛三人が暗い表情で入り口の横で待機している。ギルベルトは報告をするために宮殿へ向かって不在なために内心ひやひやなのだろう。
ムネチカが寝かされているているベッドは、医務室の隣にある貴賓用の部屋だ。学園には来賓もあり、お忍びを考慮して姿を隠せるように医務室にも個室をもうけてあるのだ。
ベッド、丸テーブル、三脚の椅子、横になれるクッションの良さげなソファと、広い部屋ではないが一通り揃っている。応接室とはいかないが、調度品の質は高い。
ガーベラによって大事に大事に運ばれたムネチカは、ベッドで静かに寝息を立てている。ガーベラは枕元で椅子に座り、どこか虚ろな目で彼を見つめていた。
「私は嫌われてしまったろうか」
先ほどの気迫はどこへ消えたのか、彼女は力なく、ポツリと呟いた。
キュキィはユーニタスから持ち込んだ魔石式ポットで紅茶を用意している。魔石式ポットとは、魔石という特殊な鉱石に蓄えた魔力を使って液体を保温する魔具だ。今回は熱湯を持ってきていた。
「何とも言えないっすね」
キュキィは丸テーブルにコトリとティカップとソーサを並べる。ちらと見やったガーベラだが、紅茶には手を付けず、またムネチカの寝顔を眺めていた。
「ムネチカ殿に、もうちょっと笑いかけるとか、できなかったすか?」
なだめるように声をかけたキュキィは羽をたたみ、静かに椅子に座り、カップに口を付けた。そしてガーベラの言葉を待った。
「顔が、動かなかった」
ガーベラの、彼の顔を見る額の目が潤み始めた。彼女がムネチカに跪いたとき、本当は笑みを浮かべるはずだったのだが、日頃できないことは急にはできなかったのだ。
(あれでは怖がらせただけではないか)
ガーベラは、チクリと刺すような胸の痛みに唇を噛んだ。そんなしょんぼりと項垂れる主を、キュキィは微笑ましく見ている。
「そんなに婿殿LOVEっすか」
「そ、そうでは!」
視線を落とすガーベラの耳がほんのり朱に染まる。
「十歳ショタの前で素直になれない二十歳乙女」
「ぐう……」
キュキィにスパッと言い切られ、ガーベラは唸るのみだ。
実のところガーベラは、この縁談を素直に受け入れていた。アザレアから見せられた映像の中の楽しそうに笑うムネチカが、ガーベラの心を侵略していたのだ。
だが縁談が進み始めたからと言って、彼女にとって安心できる要素はなかった。
そもそも人間と魔族は生存をかけて戦っていたのだ。戦後五年たったとはいえ、相手に対する感情が消えたわけではない。
感情は、理性や理論でどうなるものでもない。それは人間の魔族も同じだ。
自らを高めることに邁進していたために、ある意味箱入りで育ったガーベラには恋愛経験はない。さらに自分はかなり年上で、しかも人間とは違う魔族という不利。
ムネチカについても、王族であれば幼いころから縁談はあるだろうし、もしかしたら幼馴染といい関係になっているのでは、などという妄想が爆発していた。
怖がられやしないか、嫌われるのではないか、という不安。
既に恋仲の娘がいて、拒否されるのではないか、という悲観。
ガーベラの慎ましやかな胸は、複雑な想いでいっぱいだった。
故に初めてムネチカ本人の前に出たときに頑張ったのだが、うまく表情を出せなかったのだ。
先ほどの微笑みも、ガーベラの精一杯の笑みだった。
「ぅぅん」
ムネチカが苦しそうに寝返りを打った。項垂れていたガーベラはビクっと肩を跳ねさせ、彼を窺う。
(私が驚かせてしまったばかりに)
ガーベラは額に汗をかき、うなされるムネチカを見るだけだ。また驚かせて嫌われてしまうのではないのかと、後ろ向きな思考にとらわれてしまっているのだ。
「お嬢様、熱があるか額を触ってみるっす」
キュキィがタオルを濡らし、声をかけた。ガーベラはハッとして、すぐにムネチカの額に手を当てる。ガーベラの小指があまってしまう小さな額だ。
「あまり、熱くはないな」
少なくとも自分よりは低い、とガーベラは判断した。発熱はしていないことに胸の痛みが和らぎ、緊張していた体から力が抜けていく。
「魔力を内包する魔族は人間よりも体温が高い傾向があるっす。ま、でもお嬢様より体温が低ければ心配するような熱ではないってことっす」
「そうなのか?」
「あー、お嬢様はその辺のことはノータッチだったっすね。ま、優先は帝王学っすからねっと、コレを額にのせるっす」
キュキィに渡された濡れタオルを、ガーベラは二回折り曲げ、ムネチカの額に乗せる。肩を落とし、はぁと小さく息をはいた。
「私は、魔族と人間の違いもわかっていないのだな」
三つの眼を閉じ、見るからにしょげているガーベラが蚊の鳴く声で呟いた。
(私が学んできたことは、無駄だったのか?)
そんなことはないのは頭では理解しているが、体温が違うという初歩的なことすら知らなかった事実が、ガーベラを苛む。
「知らないのは仕方ないっすよ。これからムネチカ殿と一緒に学んでいきゃーいんすよ! ドンマイドンマイ!」
わざと明るく振る舞うキュキィの励ましに、ガーベラを締め付ける茨が、少し緩んだ気がした。
(慰めてくれる存在がいるというのは、ありがたいものだな)
「うーーーん」
ムネチカが寝返りを打つ際に額にのせたタオルが落ちてしまった。ガーベラが枕に落ちたタオルを拾い上げた時、ムネチカの目がゆっくり開く。ガーベラの視線が彼の黒い瞳と絡まり、緊張で彼女の表情が凍り付いた。
「ガーベラ、様」
目の前のガーベラに気がつき、ムネチカの目がぐわっと開かれる。
「ムネチカ殿。大丈夫か? 痛いとこはないか、その」
無表情に戻ったガーベラはムネチカに顔を寄せた。ムネチカの頬に唇が触れてしまいそうな距離まで迫っている。
「ガガガーベラ様、ち、近いでふぉっぺにぃぃ!」
「ムネチカ殿!」
ムネチカが騒いだ際に彼女の唇が頬に触れたらしい。彼の顔がトマト以上に赤くなり、そしてまた気を失った。
ガーベラは白目をむくムネチカを見て、あぁやはり、と思ってしまう。
(嫌われてしまったか……)
深紅の瞳から元気が抜けてしまったが、彼からすれば、美女が吐息がかかるほどに接近して、かつ頬に唇が触れてしまったのだ。彼も恋愛の免疫がないゆえに反応が激しくなる。
自分への恐怖で気を失ったと認識した魔王の娘と、無遠慮に近寄る美女に気絶する初心な王子。
「いやー、これ、苦労しそうっすね」
気配を消して静かに様子を見ていたキュキィだけが、的確な分析をしていたのだった。