第二十三話 五年後をみていらっしゃい
大河バスグラットを渡る風が冷気を連れてバルコニーを撫でていく。
湯浴みを終えたガーベラが部屋へ向かって廊下を歩いている時、バルコニーに立つユキシロを見つけた。
ランプを持ったユキシロがバルコニーの手すりにごしに闇を眺め、白い息を吐いていた。
「夜は冷えますわね」
しっかりと外套を着こんでいるものの、ユキシロの肩が震えている。襟足の長い帽子で後頭部を隠しているのだが忍び込む冷気を拒めないようだ。
光の漏れる廊下からガーベラは近づいていくが、厚手のガウン一枚しか羽織っていない。明らかに寒そうだ。
「ユーニタスに比べれば、まだ暖かい方だな」
背後から聞こえたガーベラの声に振り返ったユキシロの目は、信じられないものを見た、という程大きく開く。
「見るだけで寒そうなのですが」
「この屋敷から拝借したものだが、動きやすくてなかなか良いものだ」
「だからといって胸元を広げなくてもよいのではありませんこと?」
「湯浴み後で少々あつくてな」
ガーベラはがっぽりと胸元を覗かせたまま手をパタパタと仰いでいる。そこに、自分にはない谷間を見つけ、ユキシロはムムと眉を寄せた。
淑女は、実のところ胸元を強調するドレスをまとうことが多い。王族たるユキシロも、幼いながら舞踏会などでよく目にしていた。
だがそれは品位を伴って、初めて許されるのだ。
娼館で春を売る女のように、男を落とす武器にするわけではない。副次的にそうなってしまうことに異論はないが、あくまで、見せつけるのは同性である女だ。
我が上である、と含み笑いするための武器なのだ。
今のガーベラは無意識でやっているだけで他意はない。それはユキシロもわかっているが、見せつけられていることに違いはない。
普段は冷静なユキシロも、カチーンとくる時があるのだ。
「五年後をみていらっしゃい」
「ユキシロ、顔が怖いぞ」
「アヤメお姉様は十五歳でムッチムチでしたのよ!」
「すまぬ、なにかを思い出させてしまったか」
ぷりぷりするユキシロに、ガーベラも対応ができないでいる。
そもそも何に怒っているかも見当がついていない。
「そもそも、キュキィ殿に鼻の下を伸ばしているムネチカが悪いのですわ!」
腕を組んでぷくーっと頬を膨らませるユキシロは、とうとうムネチカに当たりだした。
「ムネチカは悪くないぞ。あれはキュキィが悪い、というか、淫魔の本性だからな。ムネチカが誘惑されてしまうのはキュキィが優秀な証拠でもある」
「ガーベラ殿は、悔しくないのですか?」
「キュキィをぽやーっと眺めていることに、何も思わないではない。しかし、ムネチカが靡くことはないと思ってもいる」
ガーベラは言い切った。
もちろん、まったく、心底、そう思っているわけではない。
ほんのちょっぴり、不安はある。
だが、キュキィがそうすることはありえないと。それだけは絶対だった。
それゆえの断言だ。
「それよりも、だ。ユキシロの姉上がそうであるならば、私はユキシロに嫉妬せねばならんな」
ガーベラの言葉にユキシロはハッと息を止めた。ガーベラは、慎ましやかなのである。
何がとは言わないが、慎ましやかなのである。
自分が放った言葉が存外にガーベラに刺さってしまったことに、ユキシロが「ごめんなさい」とこぼした。
「気にはしていない……姉上か、羨ましいな……」
ガーベラはユキシロの隣に立ち、夜闇を見つめた。街の明かりがぽつぽつと散らされているその上に、輝く白い月を。
「私は一人娘だから、姉妹がいたことはない」
「……それは魔族特有の問題ですか?」
「まぁ、そうなるな。長命故の、出生率の低さが原因だ。こればっかりは魔法を用いても、どうにもならん」
ガーベラの視線は月を見たままだ。
「そもそも雄がおらんしな」
「ガーベラ殿、言い方」
「言い方だけで本質は変わらぬ」
「言い方で受け取り方も変わるものですわ。ムネチカが聞いていたら、また俯いてしまいます」
ふぅとため息をつくユキシロに対し、ガーベラはハテと首を傾げる。
「何故ムネチカが俯かねばならぬ?」
「何故って……雄という言葉は力強さを思い浮かべさせますわ」
「なるほど。ムネチカは体質を気にしているのだったな」
ガーベラはまだしっとりとしている髪をかきあげた。横にいるユキシロの視線が刺さっていることを誤魔化すためだ。
(気を抜くとすぐにこうだな)
ムネチカを傷つけるような発言を慎まなければならない立場なはずが、それができずにいる自分に、腹の底がざわつく。
責めるのではなく窘めるようなユキシロの目も、ガーベラに追い打ちをかけている。
「ユキシロは強いな」
ガーベラは、逃れるように白い息を吐いた。己の力のなさを、他者の高みと比較することで、正当化したのだ。
相手が手の届かぬ高みにいるからだ、と。
体の良い、言い訳だ。
「……強くなんかありません」
ユキシロは、ぎゅっと唇をかんだ。
何か思いつけた表情のユキシロを見て、ガーベラは眉を寄せた。
「ユキシロは、芯の強い女性だと、私は思うが」
「……芯の強い女性は、アヤメお姉様ですわ。わたくしは、弱い。とても」
ユキシロの外套から覗く拳は、硬く握られている。ガーベラは一瞬だけそこに視線をやり、ユキシロに向いた。
「ふむ、ユキシロの姉君は、それほど強い女性なのか」
どうやらユキシロは色々と思うところがあり、何かを吐き出したいのだと、ガーベラは察した。であれば水を向けてみようと思うのは当然だ。
「アヤメお姉様は、わたくしなどよりも、よほどサナダ家の女ですわ」
そう語るユキシロの目が輝いている。うまくいったかな、とホッとして、ガーベラはほんの少しだけ肩を落とした。
「アヤメお姉様は、わたくしよりも十ほど上の、素敵なお姉様でした」
ユキシロの頬はほんのり赤く染まり、目じりが潤んでいる。意識していないのだろうが、恋する乙女という顔だ。
「あれは、わたくしが五歳の時のことです。アヤメお姉様の御輿入れが決まりました」
「輿入れ……縁談ということか」
「そうですわ。魔族の国ユーニタスとの境に領地がある辺境伯デギュード・ガゼリアン殿の元に嫁ぐことが決まったのです」
辺境伯の名を聞いたガーベラがピクリと眉を動かした。
「デギュード・ガゼリアン。聞いたことがあるな。我が魔王軍の第三軍団を率いていた獣王スカーレットと渡り合った武人だろう」
「えぇ、鋼の肉体と火山のような力を持つと評判のお方です」
「スカーレットが歯ぎしりをして悔しがっていたのを、私は見たことがある」
「そう、なのですか」
ふふっと白い息を吐くガーベラに比べ、ユキシロの顔はさえない。
「お姉様の輿入れは、論功行賞なのです。辺境伯は国境の守りの要。王族としても絶対に繋ぎ止めておきたい存在です」
「で、姉君が選ばれた、と」
「当時の王族の中で年頃の女性は、アヤメお姉様しかおりませんでした」
ユキシロがポツポツと語り始めた。
「当時辺境伯は三十歳。十五歳のアヤメお姉様の倍です。あまりにも離れている年齢に、わたくしは猛反対したのですが、父上はまんざらでもない様子でした。わたくしには、それが許せなかった」
「……年齢差、か?」
年齢が離れているといえば、ガーベラとムネチカもそうだ。しかも、年上はガーベラの方であり、さらに条件が悪い。
揶揄されているのかと、ガーベラの頬がひりつく。
「アヤメお姉様は、王太子のヤスツナ様に想いを寄せておられたのです。もちろん、秘密裏にですわ。縁談が決まった時、わたくしにだけ、打ち明けてくださいました」
「ヤスツナ殿にか」
想像した以上の答えに、ガーベラの目が開かれた。
「えぇ、殿下には既に奥さまがおられました。ですから、お姉様もその思いを公にすることはできなかったのです」
ゆっくりと、しまい込んだ思い出を手繰り寄せるように語るユキシロを、ガーベラは無言で見つめた。




