誰ガタメノ正義
空気を切る音とともに剣が振り降ろされる。しかしその動きは単純に腕力と重力によるものではない。その証拠に剣は地面すれすれで静止している。しかもその剣は筋肉をあまり必要としないレイピアではない。重さを追求した巨大な両手剣であった。その重量によって発生した遠心力を膂力で御してみせるなど熟練の剣士であっても困難を極める。
「ふっ、ふっ、ふっ……」
ここに第三者がいればさらに驚いただろう。
一つは、本来であればその重量ゆえに両手で支えるべき大剣を片手のみで振るっていること。
もう一つは、この剣を振るっているのはせいぜい二十歳に届くかどうかの青年だということ。
「トレーニング、終わり」
彼こそが十七代目勇者。
彼の師匠である十六代目師匠は病で亡くなった。だが、彼は最後に自らの後継者を遺した。それがこの青年であり、彼は師匠の教えられた全てを習得した。
「勇者様」
草むらから急に人間が現れた。
この山はまるごと勇者の所有物だ。勇者とその弟子をのぞいてこの山には一人も住んではならない。十六代目勇者は既にこの世を去り、現在の勇者も新しく弟子を取っていないため、この山には誰もいない。
しかし、例外がある。
勇者のもとまで訪れた者の頼みを聞くこと。それが初代から十七代目まで続く勇者の掟だ。
「依頼は?」
「鉱山に住み着いた悪魔を倒せとのことです」
勇者は名実ともに最強の存在だ。真正面からの戦闘はもちろんのこと、常人であれば即死するほどの猛毒であろうとたいていのものは受け付けない。
だからこそ人間では絶対に倒せないような無理難題が持ち込まれる。
無論、その依頼を断ることも不可能ではない。なにせ勇者に勝てる人間などいないのだから、上から命令してくる王族や貴族を無視して好き勝手に生きることも選択肢の一つにある。
しかし、それはできない。
勇者は契約で縛られている。歴代の勇者の中で優劣はあるものの、誰一人としてその軛より逃れた者はいなかった。
「勇者の名において誓いをここに」
翌日、勇者は宮廷に召喚された。勇者としての必須技能として宮廷作法などの社交能力も教わったから、最低限の礼儀は弁えている。名前と顔と爵位といった基礎事項以外ほとんど知らない貴族に話しかけられてもうまくあしらっている。
しかし、それでも勇者にとってこの空気は『苦手』や『嫌い』を通り越してただただ不快だった。
勇者の五感は非常に感度が高い。闇夜に紛れて襲いかかってきたり、五感の一部を潰してきたりする魔物にも対応するためだ。当然、人間のささやき声も十分すぎるほどに耳に入ってくる。
(気持ち悪い……)
(所詮は山猿、たいしたことはない)
(まあまあ、バカだからこそ扱いやすい)
(左様、愚民は有効活用せねば)
(我々のために働けるなら本望というもの)
(むしろ感謝してほしいものですな)
(違いない)
宮廷にいる貴族たちは皆勇者を嘲る。
勇者となるための血がにじむような努力も、対価も報酬もなくただ名も知らぬ他人のために戦う無意味さも、特定の誰かを助けることが許されぬ苦悩も、彼らにはない。
彼らにとって勇者とはただの道具なのだ。
一国を治める統治者である王でさえそれは変わらない。
「勇者よ、よくぞ参った」
長々と口上を述べる文官と、時折わざわざ口を出す国王。しかしそれのほとんどは国王の威厳を保つためだけのもの。勇者に対する誠意などない。
要約すると、現在発掘中のシャーデンフロイデ鉱山で発見された古代遺跡から悪魔が出現したというもの。悪魔というのは人間に敵対する魔物の中でも特に厄介な種族の一つだが、今回の討伐対象はかなり高位の個体らしい。
そもそも魔物というのは、ダンジョンなどの特殊な環境で生まれた突然変異体が人類の生存圏の環境に適応し、種として定着した存在だ。悪魔はその中でも特殊で、人間以上の知能と身体能力と魔法適性を持つ。高位の悪魔だと国一つ滅ぶこともありうるほどである。しかも、悪魔の多くは生存本能よりも好奇心や嗜虐心が強い傾向にあり、悪魔と遭遇した人間は生まれたことを後悔しながら死んでいく。
だからこそ、人類の切り札である勇者が倒さなければならない。
「以上である。下がれ」
しかし国王の態度は召し使いに対するそれと全く変わらない。勇者がいなければ自分たちの財産や領地どころか命すらも危ういというのに。
国王との謁見が終わるとすぐに勇者はその鉱山へと旅立った。通常の人間であれば一週間、早馬でも三日は必要とする距離だが、文字通り人間離れした勇者であれば一日もかからない。
「ここがシャーデンフロイデ鉱山か」
鉱山のふもとに建てられた村はまるで難民キャンプのようであった。老いも若きも女も男も関係なく、誰もが悲壮感に満ちた顔つきだ。大声を上げて泣く者は一人もいない。もはや彼らの中にそれだけの気力を持った者など一人もいないのだから。代わりに、すすり泣く声があちこちから聞こえる。悪魔のきまぐれで四肢が欠損しているのならまだましで、もっとひどい状態の死体も数えきれないほどある。しかし悪魔によって殺された哀れな村人の死体を埋める場所すらなく、肉が腐った悪臭が村の空気と混ざり合っていた。
「かえせ!」
勇者に向かって小石が投げられる。当然、勇者はその身体能力でその石を避けた。
「とうちゃんを、かえせ……!」
石を投げたのは、まだ十歳にも満たないであろう子供だ。その顔は涙で汚れていたが、その目にひそむのは非常に強い敵意と怨嗟だ。周りの大人たちはそれをたしなめることもせず、ただ無言で悪意のこもった視線を投げかけてくる。
「……これも勇者の呪い、か」
勇者に助けを求める人間は感謝を忘れ、助けられなかった人間は勇者を恨むだけ。たとえ誰にも負けない最強の力を持っていても、たとえ命を削る思いで他者を救済しても、勇者に報酬は与えられない。勇者とはそういう存在なのだ。
契約という名の呪い。
勇者はいわば都合のいい暴力装置なのだ。
「力ある者の責務、か」
ノブレス・オブリージュ。
だが、勇者はその言葉が嫌いだった。弱者が強者に甘えるための言葉だから。
「……ムシが」
誰にも聞こえないほどの小声で勇者は罵る。
弱者の救済を嫌悪しているのではない。ただ、この永劫に続くような連鎖に疲れたのだ。
報酬はなく、自分よりも劣った弱者のために奴隷のように死ぬまで働き続ける。名前は残っても誰も敬意を払わない。
そんな人生に意味と価値を見出せるはずがない。
だが、勇者には契約がある。どれほど理不尽な命令でも、勇者としての責務を放棄することはできない。
「勇者様」
少女はまさしく地上に舞い降りた天使のようであった。黄金色に輝く頭髪は一流の彫刻家が金塊を彫ったようであり、その口から紡がれる声はまるで天上の調べである。
「あなたは?」
「聖女ですわ」
それを聞くと勇者の中で疑問は氷解する。
この世界には勇者と同じシステムによって現在まで続いている存在がある。かつて世界を滅ぼそうとした魔王を討つために、その力をもって人々を救った英雄たちの技術を引き継いだ一族だ。
その一つが聖女。
治癒や解毒など回復に関係する能力のみであれば勇者を超える実力を持ち、その一点に特化すれば並ぶ者はいない。また、行使できる回復魔法の種類も膨大であり、教会に属する一部の神官以外には使用できない部位欠損の再生の魔法も修めている。
「それで? 聖女がこんな辺境になんの用だ?」
「もちろん、人々の救済です」
はっきりと。躊躇いも忌憚もなく、聖女は言った。
「私は人々のために働く存在なのですから」
その言葉に勇者が心の奥底に沈めていた憤懣が這い出てきそうになる。
ふざけるな。誰が好き好んで首輪をつけられた奴隷になるというのか。その苦しみは人生が終わるまで続き、自分よりもはるかに劣った存在を主人としてこの身が死を迎えるまでずっと仕えなければならない。聖女であるお前がその矛盾を知らないとは言わせないぞ。
そう言葉に出すことができるのなら、どれほど楽だろうか。
勇者は諦めた。諦めてしまった。
最初は人々に淡い幻想を抱いていた。
いつかは報われる。そのいつかがいつなのかはわからないが、きっといつか自分に返ってくるだろうと。
しかし、人間という生き物はどこまでも浅ましい虫でしかなかった。ヒトという生き物は感謝を忘れ、敬意を踏みにじり、報酬を踏み倒す。まさしく寄生虫だ。
「そうか」
だから、聖女にもおざなりな言葉しかかけられなかった。
勇者は聖女の思想に憎悪にも近い感情を抱く。同時に、勇者が捨ててしまった純粋さがまぶしく感じられた。
「む」
勇者は五感のどれでもない第六感とも呼ぶべき感覚で魔物の襲来を認識する。少しばかり遅れて聖女もまた悪魔の不浄なる魔力を感知する。
「ゲハハハハハ!」
子供が作った泥人形のように全体のバランスが狂った、全身が黒く染まった身体。目も口も鼻もなく、頭にあたる部分は起伏がないのっぺりしたそれ。常人であれば近くにいただけで嫌悪感と恐怖心を呼び出す邪悪な魔力。異様に細く、長い手足。まるでナイフのように鋭くとがり、指と一体化した爪。
それが悪魔だった。
悪魔の耳障りな声が聞こえる。その声は狭い集落全体に響き渡り、パニックという毒を村人たちの心に流し込む。混乱の渦に叩き込まれた人々は散り散りに逃げようとするが、統率が取れていない上に怪我人も多い。結果的に必死で逃げようとするもパニックで転び、周りの村人に踏まれていく。
「オモシロイ! オモシロイ! オモシロイ! ニンゲンハオロカデオモシロイ!」
悪魔は人間を嘲笑う。
さらに悪魔は追い打ちをかける。魔法で人間の頭ほどの大きさの火球を作り出し、人間が集中している場所に射出した。肉の焦げる臭気が辺りに広がり、混乱は加速する。
だが、勇者も聖女もここで動かないでいるほど無能ではなかった。
「ニンゲンノオトコ?」
「これでも勇者なんでな、さっさと魔界に帰れ泥人形」
当然だが、勇者と聖女を比較すれば、前衛としての直接戦闘能力は前者に軍配が上がる。傷跡をふさぎ、傷ついた血肉を閉じたり、毒や病原菌を死滅させたりするといった回復能力は聖女の方が圧倒的に上だが、逆にいえばその能力しかない。だから自然と勇者が攻撃と防御を請け負って、聖女が後方から前衛である勇者のダメージを回復させていくしかない。
「ゲハハハハ!」
だが、対峙する悪魔もまた二人に比肩するほどの強敵であった。
悪魔の周囲に魔力が集約されていくのを勇者は感知する。それが魔法を発動させるための行動であることは理解しているが、それを隙だと判断して攻勢に転じることはできない。現段階ではそれがどのような効果と範囲を持った魔法かもわからない。さらに、この悪魔は先ほど予備動作なしで火球を生み出した。つまり、無策で突っ込めば即座に魔法の餌食となる。
無論、勇者も魔法を一発食らった程度で死ぬほど耐久力と持久力に欠けている訳ではない。だが、これは相打ちに持ち込むべき勝負ではない。勇者と聖女の勝利に必要な条件は『この悪魔を殺すこと』だけではなく、『村人を守ること』も含まれる。もちろん、後者を満たすには前者も必要不可欠ではあるが、優先順位であれば前者が上位となる。
だが、なにかを守りながら戦うことは当然の帰結として困難を極める。ましてや、敵が自分と同じかそれ以上の強さを持っているのだ。
「ユウシャ! ユウシャ!」
目の前の悪魔は耳を腐らせるように不快な音を響かせる。
「ニンゲン、ヨワイ! ユウシャ、マモル!」
悪魔は村人を守ろうとする勇者の意図を即座に見抜き、村人に当たるように魔法を周囲にまき散らす。悪知恵の働く悪魔は、わずかだが時間差をつけて人間に当てようとする。
「くっ」
勇者は勇者である以上、村人を切り捨てることはできない。ゆえに、悪魔への攻撃をやめて防御魔法を発動させざるを得ない。
「ユウシャ、マモル! ニンゲン、マモル!」
耳障りな悪魔の叫び声がさらに大きくなる。そこに群衆の混乱と恐怖が混ざり合って、まるでこの世の終わりのようだった。
「ゲハハハハ!」
悪魔は笑いながら突撃してくる。凶器となる爪をさらに鋭くとがらせ、その長さはもとの二倍にまでのびた。それはもはやナイフどころか剣にも匹敵するほどの大きさを持つ。だが、勇者が持つ大剣に比べると小さい。つまり、武器の長さから考えれば、悪魔の爪が勇者に届く前に勇者の大剣が悪魔に届くということである。
悪魔の爪はたしかに脅威となりうるが、勇者の持つ大剣は特別製であり、これを超える切れ味と硬度を持つ物質は存在しない。また、悪魔は魔法を最も得意としている。高位の悪魔である以上、肉体という武器もそれなりの強さがあるだろうが、魔法を捨ててわざわざ自分にとって不利な肉弾戦に持ち込むだろうか。
「はあっ!」
けれど、深く考察するだけの余裕はない。ならば、悪魔を剣で切る他ない。
「グギギギッ」
手応えはたしかにあった。悪魔の爪のうち十本全てを砕き、ついでに右の手首ごと切り落としたのだ。返す刀で悪魔を切り伏せようとするも、悪魔は後ろに下がる。
しかし違和感が残る。
人間を苦しめることこそが至上命題であるとして生きている悪魔であればこんな行動を起こすはずがないだろう。一度に与えられるダメージこそ小さいが、周りの人間を巻き込むような形で、勇者に防戦をさせるように誘導する方が悪魔にとって優れた作戦だ。わざわざ敗北というリスクを賭けることなく、じわじわと着実に相手を追い詰めることができるのだから。
「オロカナニンゲン!」
その言葉でやっと理解する。
「──罠だ!」
魔物は通常の生物とは違う。この星の中に存在しながら、全く異なる法則に支配された異界で生まれた異物こそが魔物。その中でも最高位に近い悪魔が生物としての常識を持ち合わせている訳がない。
「モウオソイ!」
悪魔がしかけた罠とは、勇者が切り落とした悪魔の手だ。悪魔は最初からそのためにあえて悪手である突撃をしかけ、勇者はそれにまんまと騙されて悪魔の手から先を切り飛ばした。
では、切り落とされた手はどこにあるのか?
当然、勇者の後ろから支援魔法をかけている聖女の近く。そしてそれは悪魔の魔法の流れ弾に当たらない安全地帯でもあり、弱い村人たちが集中している場所でもある。
あわてて勇者はそれを排除しようとするが、悪魔が勇者の動きを阻む。
「聖女、はやく!」
耳障りな喝采に応じるように悪魔が放った罠が動き出す。
悪魔の手はクモのように長い爪を足代わりに立ち上がり、勢いをつけて獲物のやわらかな肉にその凶器を差し込もうとする。
悪魔の餌食となるのは、老人か、若人か、大人か、子供か、男か、女か。どちらにせよ、命が一つこの世から消え去ることに違いはない。
悪魔の手が獲物の肉をつかみ、手が獲物を握ることによって悪魔の爪が骨ごと肉を切り裂く。
「ッ!」
悪魔に応戦しながらも哀れな命が奪われるのを覚悟していた勇者だったが、結果は想定とは違ったものだった。
「ナァンダ」
悪魔の攻撃の手が緩む一瞬、勇者は見た。
聖女だ。
聖女の左腕は切断され、断面から肉と骨が大気に露出している。悪魔の爪が非常に鋭利であったがために体外に流れ出てしまった血液の量はさほどではないが、聖女の顔から血の気が失せている。勇者を補助するための支援魔法で魔力を消費し、左腕を失ったことで気力もほとんど限界だ。それでもさすが聖女というべきか、悪魔の手は聖女の唱えた魔法によって今度こそ塵も残さずに消滅したようだった。
「マァ、イッカ」
悪魔は興がそがれたのか、戦闘から撤退へと切り替わる。相手が逃げに回った時点で後ろから追撃を入れるのが最も正しいのかもしれないが、そのせいでまた魔法を乱発されて村人が死んでいくよりも悪魔を逃がして体勢を立て直す方がいいだろう。
「おつかれさまです、勇者様」
左腕を失った聖女が労いの言葉をかけてきても、勇者はまるで嬉しくなどなかった。
「……それよりも、一度中に入ったほうがいい。休息は取れるときに取っておくのがいいからな」
「ええ、そうですね。この身は誰かのためにあるのですから」
違う、そうじゃない。
だが、そこから先を口にすることはどうしてもできなかった。
万人の救済。なんと甘美な響きだろう。だが、それを実行できる存在がこの世界にいったいどれほどいるのだろうか。
勇者にはできない。
けれど聖女はできる。
聖女の左腕の断面が聖女の思想を雄弁に主張しているようだった。
「ここでいいでしょうか」
聖女は村のはずれにある空き家に入る。周りには村人たちの死体が投げ捨てられ、死体が発する腐臭が鼻を刺激する。
勇者は内部の音を遮断する魔法を発動させる。
「あの悪魔は非常に厄介でしたね、まさか切り落とした手が動き出すとは、こちらの想定をことごとく裏切っています」
「…………ああ」
「理想的なのは、村人たちがいない状況で戦闘を開始することですね。それも、こちらの有利となる戦場を作り出して反撃の隙を与えず、こちらが一方的に攻めることができる戦闘こそ最も望ましいと言えるでしょう」
「…………ああ」
「悪魔の真の実力はいまだ未知数。ですが、勝てない相手ではないでしょう。となれば、次回は悪魔の意表を突くためにあらかじめ支援魔法を重ねがけして勇者様を強化し…………」
「そういうことじゃないっ!」
言った。ついに言ってしまった。
勇者の理性はわずかに後悔するが、勇者の本心はもはや勇者本人ですら隠し切れるものではなかった。
「なぜ、誰も責めないっ!」
左腕を切り落としたのは悪魔の手だ。だが、勇者がもっと注意深く戦っていたら悪魔の罠を見抜けたかもしれない。あるいは、誰か犠牲者が出ることを承知で悪魔の手を回避すれば、むざむざ左腕をくれてやることもなかったかもしれない。
それは所詮、現在から過去を観察した際に夢想する『もしかしたら』の可能性に過ぎない。だが、普通ならば左腕を失ったことを誰かを恨まずにはいられないだろう。もしそれが誰のせいだったとしても、だ。
「恨みなどありません」
それなのに、聖女はかすかな動揺もわずかな憤怒も見せず、淡々と答える。
「お前っ!」
思わず勇者は自らの得物である大剣を聖女の首にあてる。大剣の先端は聖女の首の皮に食い込んで小さな傷跡を作っている。ほんのわずかでも大剣を押し込めば聖女の首と胴体はわかれるだろう。
「まあ、そうでしょうね」
喉元に刃物を突き付けられてなお、聖女は全く動じない。
「なぜそれでも人間を救おうとする!」
「言うまでもないことです。この身は名も知らぬ迷い後のためにあるのですから」
「人間に価値などない! そんなことはお前だってわかっているはずだ!」
世界は、勇者のような規格外の存在のためにできていない。むしろその他大勢の弱者のためにある。人外は阻害され、迫害され、利用されるだけであり、そこには感謝も敬意もなく、悪意のみがある。
「私もあなたも人間ではないのです」
聖女の左腕の断面が動き出す。肉が泡立ち、骨がのびていき、皮膚もその動きに合わせて新しいものへと変化する。
当然、ただの人間にそんな機能はない。
「私は死ぬことがない。腕を切られようが、足を潰されようが、血を吸い出されようが、死ぬことはない。脳や心臓を貫かれたとしても、すぐに再生してしまう。毒も病気も老いも私を殺すことはできません」
不死の呪い。勇者も名前だけは知っていたが、実在すること自体が怪しい代物だった。だが、勇者の大剣がつけた傷も痕さえ残らずに再生した。なにより、部位欠損の制裁という魔法の難易度は非常に高く、高い道具と長い儀式が必要となる。そういった条件を満たさずに左腕を治すなど呪いでもない限り不可能だ。
けれど、それゆえに疑問が残る。
「それほどまでに人間離れしているのに、なぜ人間を助けようとする。人間がいなくてもたった一人で生きていける存在が、なぜ脆弱な生き物に手を貸す?」
勇者と同じく聖女もまた契約で縛られている存在であり、人々の助けの声を無視することはできない。けれど、聖女の行動はそれとは違う。わざわざ助けなくてもいい人間に手を差し伸べているのだ。
「……私とて、人間と自分が同類だなどと考えてはいませんよ、勇者」
ぞっとするほど冷たい目だった。だが、ここまで来て踏みとどまる訳にはいかない。
「では、助ける意味も価値もないではないか」
「ええ、そうですね」
聖女は自分の行動の全てを否定する。
「私たちは所詮、人間ではない。ヒトの形をとった怪物がヒトの作った箱庭に存在できるはずもない」
事実のみを淡々と一切の感情を交えずに聖女は自らと世界のことを語る。
「この世界の主役はあくまで人間。私たちは主役にも脇役にもなれない。でも、裏方にはなれる」
要領を得ない答えだったが、聖女にとってそれこそが真理だった。
「よく、わからないな」
「やがてわかりますよ。先代の勇者はそれをあなたに教えることなく逝ってしまったようですが」
それだけ言うと聖女は横になった。
「私の呪いはほぼ自動的に傷を治しますが、代償として体力を消耗します。だから適度な休息が必要となるのです」
「悪魔が来たら起こせということか」
「はい、お願いしますね」
聖女が眠りに就くと、勇者は先ほどの聖女の言葉を反芻しながら思索にふける。
思い出すのは、師匠である先代の勇者の言葉だ。
師匠は常日頃から『自らのためでなく、誰かのために剣を触れ』と言っていた。欲望のための剣には限界があるからだと。
今になってその言葉が身に染みる。
修練を怠ったことはなく、昔の自分と戦っても負けることなどありえない。だが、正義を見失った自分の剣はこれ以上成長しない。目標である師匠の剣に比べるとまだまだ遅く、拙く、軽い。
変わらなければいけない。
しかし、どうすれば聖女のような境地にたどり着けるのかがわからない。
聖女の言葉は正しい。
勇者も聖女も人間という枠から外れたバケモノである。その強さゆえに誰とも価値観を共有することはできず、その異常性ゆえに誰にも理解されない。人間がこちらに歩み寄ることも、こちらが人間に歩み寄ることもない。
だが、聖女の思想は理解しがたい。
永遠に理解し合えない存在のためになぜ汚れ仕事を引き受けるのか。人間に価値はないと理解していて、なぜその人間を救おうとするのか。
聖女は言った。
自分たちは主役でも脇役でもなく、裏方であると。
なぜ裏方で甘んじるのか。誰にも認められないのであれば、他人に押し付けられた役割など放棄してしまえばいい。その強さがあればその程度のことは造作もないことのはずなのに。
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ…………?
「勇者様」
いつの間にか起き上がった聖女の言葉で勇者の意識は思索の海から現実へと戻る。
「どうした」
「村の近くにしかけておいた感知魔法に反応がありました。悪魔がこちらに向かってきているようです」
一瞬で勇者の意識は切り替わる。
「あとどれくらいでこちらに着く?」
「おそらく五十秒もないでしょうね」
それを聞くと勇者は得物の大剣を肩に担いで外へ出る。月光を浴びて夜空を飛び回る悪魔を目視すると、勇者は自らに飛行の魔法をかけ、先制攻撃として悪魔に一撃を加える。
「ユウシャ!」
だが、悪魔もまた勇者の姿を見ていた。そしてすばやく魔法を唱えて迎撃する。
「オチロ!」
勇者の剣戟と悪魔の魔法が交差する。互いに大きなダメージにはならないが、悪魔の翼は切り裂かれ、勇者の飛行の魔法は解除される。地面に激突する前に魔法と身体能力でできるだけ衝撃を殺す。
「ニンゲン、イナイ」
落下した先は死体が廃棄された場所。近くには生きている人間は一人もいない。ここにいるのは、勇者と聖女だけだ。
「ここなら流れ弾を気にする必要もない。全力でいくぞ!」
勇者は悪魔よりもはやく一歩踏み出す。反応がわずかに遅れた悪魔は一瞬だけ迷った。
距離を取って魔法で戦うか、相手の懐に入って肉弾戦に持ち込むか。
それは刹那の逡巡だったが、勇者にとってそれは大きな隙となった。
既に再生している悪魔の両手が動き出すよりもはやく大剣を振り下ろす。それは何年も反復し続けてきた型であり、その何万回も繰り返したそれは回避も防御も許さない必殺の一撃であった。
「ググッ!」
もちろん、悪魔がこの程度で死ぬとは思えない。切断されて身体から離れた手を動かすような存在がたかだか一撃で葬り去れるはずがないのだ。
「グガガガガッ!」
悪魔に魔力が集中する。今までのものよりも一つ一つの規模は小さくなっているものの、今から放たれる魔法の数はまさしく暴力的だ。
「聖女!」
呼びかけられた聖女が支援魔法をかけると同時に、悪魔の魔法が発動する。一個の拳程度の大きさの火球が悪魔の周りに浮かび、百を超える魔法が全て勇者に直撃する。
「グギャアッハ!」
悪魔の喜びの声が耳に障る。だが、その耳事態に異常が起こっている。聖女による強化魔法でレジストし、ダメージを最小限に抑えた。だが、今の攻撃で混乱した三半規管を正常に戻すには時間がいる。
そしてその時間は悪魔にとって十分すぎる。
「ググッ!」
悪魔の爪がのびた。鋭さはそのまま、長さだけが一メートルを超える。まるで爪の結界だ。十本の刃を避けながら懐まで接近するのは不可能だろう。勇者がいくら怪力を誇っていても、大剣という武器の特徴からして何度も振り回せるものではない。魔法には連射性と速射性があるが、手になじんだ得物の一撃に比べるとどうしても威力が劣る。かといって、攻撃力を高めようとすれば今度は術式の構築に集中力と時間を浪費する。
けれど、勇者は諦めない。
力の限り剣を振り回し、悪魔の手からのびる爪を叩き切る。再生した端から次々と爪を切り落とし、どんどん奥へと突き進む。
そして。
「追い詰めたぞ」
ついに悪魔の懐まで入り込む。
悪魔の爪は全て折れ、魔法を発動させる時間も与えない。
だが、悪魔は笑っていた。
「グギャギャギャ」
次の瞬間、腹を貫かれる。
「ぐ、はっ」
悪魔の身体はまるで湿った粘土のように形を自由に変える。悪魔はその身から一振りの槍を作り上げて勇者の腹を突き刺したのだ。
「グギャ?」
だが、悪魔の笑い声も途中で疑問が混じったものとなった。
聖女だ。
「……禁呪最大開放」
聖女が魔力を解放する。
聖女の肉体が崩れていく。否、まるで火山から噴き上がるマグマのように泡立った肉が分解と再生を繰り返してどんどん増殖しているのだ。
もはや聖女の面影はどこにもない。美術品のように完成された美が集合した姿は全て消え去り、不定形の肉と骨と皮が濁流のように辺りに広がっていく。
「グハハハハ!」
だが、悪魔は恐慌に陥ることはない。冷静に魔法を編み、聖女だった肉を焼き尽くしていく。
「聖女っ!」
聖女はたしかに常識外れの再生能力を持ち、たいていの傷を即座に再生させることができる。だが、今の状態では的が大きくなっただけだ。広範囲に渡る魔法で攻撃すれば、悪魔は聖女に回復する暇も与えずに片づけることができる。
勇者は致命傷。
聖女も劣勢。
しかし──負けではない。
「っ!?」
液状化した聖女に勇者は飲み込まれる。
コップからこぼれた水のように広がっていた聖女は勇者を包み込むように巨大な球体にまとまり、中心にいる勇者に優しい魔力を流し込む。
悪魔が魔法で攻撃するが、勇者にとどめを刺すどころか聖女の肉体を崩すことすらできない。一方的に攻撃されていた先ほどとは違い、半端な魔法では傷一つつかなくなったのだ。
ゆえに、悪魔は待つ。
たしかにこの防御力は脅威である。だが、これにも限度や条件があるはずだ。連発できるような簡単な魔法であれば最初から出し惜しみなどしないはずだし、この防御力を利用して攻撃に転じる気配もない。
つまり、これはあくまで殻に閉じこもっているのと変わらない。魔法の効果が切れたところを最大火力の一撃でぶち込めばいい。
勇者は聖女だった肉の濁流の中で回復魔法をかけられていた。姿形が変化してもこの肉は聖女そのものであるのだから、体内に取り込んだ状態でも魔法が使えるということだろう。
だが、勇者の中に流れ込んでくるのは回復魔法の魔力の流れだけではない。
聖女の記憶、知識、感情。
それらは勇者の意識に流れ込んでくる。
多くの悲しみがあった。
捨てられる子供。裏切られる妻。飢える男。絶望する老人。恨みを抱く女。復讐を誓う若者。冷たくなっていく死体。男が炎で焼けるにおい。美しい女が死んで腐っていく様子。子供が病で倒れていく光景。謀略で毒をあおる貴族。肉親で骨肉の争いを起こす王族。
だが、それと同じくらいの歓びがあった。
新たな家族の誕生を祝福する夫婦。恋を育む若人。愛を謳う詩人。苦しみから解放された子供。人生の意味を悟る老人。民のために働く名君。人々を導く王。悪しき魔王を撃ち滅ぼした初代勇者たち。
人間の醜い一面だけでなく、美しい一面も聖女は知っていた。
それを知ってなお聖女は全ての人間を救済しようとしたのだ。
そのとき、勇者の中のなにかが壊れた。
やっと、聖女の言葉を理解できた。
人間に意味はない。
でも、人間が作るモノは価値がある。
一人一人の人間に価値を見出せなくても人間が作り出す物語は美しいのだ。
たしかに主役にも脇役にもなれないかもしれない。だが、裏方がいなければ演劇は成立しない。
人間は弱い。
勇者や聖女がいなければ、きっとすぐに滅びてしまうほど弱い存在だ。
だからこそ、ハッピーエンド以外認めたくない。
「ヨワイ、ヨワイ! ヨワイユウシャハコッケイ!」
悪魔の準備は万端だ。
だが────勇者もやっと理解した。
遅かったかもしれない。
手遅れだったかもしれない。
だが。
やっと勇者は『ただの暴力装置』から『誰かのために剣を振ることができる本物の勇者』へと至った。
勇者を守っていた聖女の肉が結合を解除する。だが勇者の顔に不安はない。
「────聖剣、解放!」
勇者が持つ大剣が神々しい光を放つ。まるで生まれ変わった勇者に生誕の祝福を施すように。
「シネエエエィ!」
悪魔のおぞましい魔力は既に一つの魔法として完成していた。命中すれば勇者の身体は塵すら残さずに消え去るだろう。
しかし、勇者の手にあるのはついに真の力を発揮した聖剣。
苦悩ゆえに勇者では引き出せなかったそれは、魔王すらも切り伏せる人間の強さの象徴。
「────────────!」
勝負は一瞬。
聖剣が悪魔とその魔法を両断する。
さしもの悪魔でも聖剣の清浄な魔力の流れによって存在を維持できなくなり、消滅した。
「……勝った」
勇者はついに己の正義のありかを見つけたのだ。