09話‐「青翠だった」
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――今日も空は嫌味なぐらい、天高く、紺碧色に澄んでいた。
帆は、朗々と吹きわたる風を捕まえ、進路を東へ、東へ。風を抱きとめ、”大きな船”は悠々と走る。広い広い甲板の上、わたしは無表情でひたすらブラシがけをしていた。
――どれぐらいの時間が流れたことだろう。
「おおーい」「舟守さーーん」
――わたしは”ゴース・ゴーズの鱗だまり”との一騎打ちのあと。気づくと、丸2日ぐらい 甲板で気を失って漂流していたみたいだった。いったい何をどうして、切りぬけたのか、よく覚えていなかった。
――ジルバ号は、波に凛と、浮かんでいた。
マストが一本やられたのと、甲板の多少のダメージ。船底への浸水も一般的なシケで喰らうぐらいの量。ジルバ号の損傷はそんなものだった。”ゴース・ゴーズ”と相まみえた後にしては、おかしなぐらいの軽傷。
炎振にくべていた種火はさすがに使い物にならず、マストも、修繕用の木片も海の藻くず。
「舟守の!お嬢ちゃーーん」
――呆然と、海の上、残りの糧をただ、ただ費やし、船室にしゃがみこんで日々をやり過ごしていた。
”大きな船”が通りかかったのが何日後だったかも覚えてない。幸いガラのいい船だった。陸地につくまでの間、水上守達の補佐と、その他雑事を手伝う事を条件に、目的の島の近くまで破損したジルバ号を牽引してもらえることになった。
「へぇ、お嬢さんその年で舟守かい」「すげぇなぁ。試練のコツを教えてくれよ」この船の乗組員達は、比較的素直で助かった。こういうのは、船長の人柄が呼ぶのだろう。
――嵐の夜以降、皮肉なことに空は快晴、順風満帆だった。
「舟守ちゃーーん」遠くからの声の主がどったどったと走るたび甲板がたわんでるのが、振動で分かる。 乗組員Aは、どうやらだいぶ大男の成りみたいだった。
――目の端にチラとだけ映り込む、刀傷。わたしは、淡々とデッキブラシをかけながら、なんですか?と黙って向き直す。「ミナサキなんとかのジジイが呼んでた、ぞっ」ぽんと大男に肩をはたかれて、わたしは前に転びそうになってしまった。なんて力だろう。
「…わわ………俺軽くやったつもりで………」すぐ助け起こされそうになるが、わたしは特になにも思わないまま、手を払った。
「……………………………………………そうですか」
(どうだっていい…)
――頭の芯が、ぼってりと腫れたみたいに、ダルかった。
銀朱海域に入ってから、ぐんと空の透過率があがり、天深く、徐々に澄んで来た感じだ。波は静かで、少し紺をたたえていた。海の色も空の色も少しずつ違ってきた。まるでこの辺は空の方が海みたいな色だ。わたしの出身海域では、空は近く、海はどこもかしこも水色に透き通っていた。
――もくもくと甲板を洗い、食事を作り。機械的に返答する日々。
――「愛想のねぇ娘っこだなァ…。」
たまにそんな声が後頭部を抜けて聞こえてくる。それでいい。わたしはあんたたちのニャーでもヌーイでもない。
わたしは毎日、給仕の仕事を終えると、甲板にでて星を見ながら、夜風に吹かれ、一人干しパンをかじる。このぐらいしか息抜きがない。船尾に行けば、牽引されてるジルバ号が少しだけでも眺められる。ジルバ号は、”大きな船”と比べると、まるで3歳ぐらいのよちよち歩きの小さな少女に見える。起こる波もほんの些細なものだった。
(…ほんと笹舟みたいだな…)
(…こんなに、ちっぽけだったんだ)
笑ってしまう。
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――醒めたような紺青の空。切った爪みたいな月だった。――
――わたしのセカイは、どんなことがあっても、空だけは美しかった。――
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(もう少しで、朱の航路…)
星を含んだ夜風が甲板を撫ぜる。降るような星とはこんな感じなんだろう。今まで嗅いだ事のない、すらりとした風だった。天を仰ぎながらわたしは少し毛布を引きよせ、干しパンをかじる。
多分これは、この航海の準備をした時に予想してた分よりだいぶ”ハダ寒い”ってやつだ。装備を買い足さないといけないな。
(この辺の海域は、羽ペン座が見えるんだ…)
星座も違ってきた。舟守の仕事でセカイ中飛び回ってたはずなのに、よく考えたら、東の海ははじめてだったことにようやく気付く。
「…あっ」「……おっ。奇遇だねぇ」
わたしが、星を見ながらパンをかじってると、どこかで見たような感じの乗組員が聞いてもないことを言い訳しながら声をかけてきた。何人かこういう乗組員がいるので、いちいち覚えてない。
「な、なぁアンタ……… 」勝手に横に座ってくる。わたしは、少し体の角度を変え、海の方を向く。
「……………………………… 」
「…………………… あ、あのさ。」
――暫くの沈黙ののち、何故か急に干し肉をぽんとほおられたが、返すとかいらないとかいうのがめんどうだったので、そのまま手に持っていることにした。――早くどこかに行ってくれないかな。きっと良かれと思ってやってることだろうし、この人はもしかしたら違う時に見たらいい人なのかもしれないけど、今は誰とも話したくない、悪いけど。
――目の端に映る刀傷だらけの大きな手と腕。
「…………ゴ………………… 」
「……………… ゴース・ゴーズに突っ込んだってな?」
――…めんどくさい。
「……………………………… その…」
「……………… 何か、あったんだろうけど」
わたしは、声色を変えず、おじぎして干し肉をすっと返しながら、伝える。
「……………………………… …失礼致します」
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――燃え残った木屑でもぱんぱんに詰め込まれたみたいな頭を夜風で冷やす。
わたしの黒紅色だった瞳は、いつの間にか何も反射しない煤球にすげ変わっていた。ぼんやりと遠くの空を眺める。依頼主の異国の少女の墨色の長い髪、前髪の奥、暗い瞳の記憶がちらつく。ふわり、笑う不思議な少女。
≪トオイトオイ島のカシの木宛てです≫>
≪ …枯れそうな箇所があります…≫>
わたしは、適当な樽の陰に隠れて食べることにした。
(…カシの木にどうやって配達するんだろう…)
(…いいや…そういうのはあとで…)
(まず、ついたら舟を修理して…)
特に暖かくない毛布の中。腰につけてる冷たく重く感じる革袋を少しさわる。
―――ジルバは、大嵐の夜。気圧の変化に耐えられずに―。
―心配させないで!
ーおとなしくして!
私があの時ジルバに放った――苛立ちにまみれた叱咤。
(あの時、ジルバがいっぱいまたたいて、最後にはなった光は―――)
目の端に映った、まるでセカイ中の孤独感を全て照らし導く灯みたいな大きな光の環。
それは、包むような――青翠。
(ジルバは…)
(…あんなちょっとの力しか残ってなかったのに…)
(……振り絞って……)
チチカ市場でこの依頼を受けた時、ちょっとでもワクワクしたりして、思い起こすと惨めだな。思わず薄笑いがもれる。
(…わたしは、)
(何にもわかってなかった…)
空洞の心に、何度も蘇る、バカみたいな大嵐のさなか、ふいに燈る癒やしの光。
(せめて…)
(気づいていれば……)
ジルバの最後の一言は────
≪ありがとう≫
────大きな大きな、青翠だった。
わたしのセカイでは、幸い、空だけは、美しかった。
遠く、遠く、高く。空に投げた視線は、わたしの心に帰ってこない。
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