08話‐「勇敢な舟護《ふなもり》」
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―――転。
海面は、闇の中、蠢き、ざわざわと次第に高さを増していった。
舵にグウと波の圧力を感じる。
(大丈夫…)
わたしは船尾から、しっかりと船首を見やり、舟の軸を目の奥に据えて、確認しながら、落ち着いて舵をとった。
ぽつり、頬に一滴、暗雲の囁きを確認した矢先、バラリ、天からのさんざめき。海面にはあっという間に無数の鋲が打ちつけられ、ほぼ同時に波がさらっていく。
しけった大風や雨雲を連れた風が、海面を払って飛んで、ジルバ号の横面をはたいていく。
――ビョウビョウと 横殴りの闇、天候は瞬く間に豹変していた。
眉間を打ちつける突風と飛沫。凝らしてひたすら前を視る。顔に張り付く風。どこかの誰かへの苛立ちとか死んでしまえも一緒にさらって全部まとめてどうぞ。みたいな風だった。
船首から「ボッ」という音。下からのはらんだ風は、あっという間に結わえておいた幌を吹き飛ばしていた。統制のとれなくなった修繕用の資材は、ばらばらと甲板を蹴散らし、海に波に消え、肘ぐらいの木片がガラリゴロリ。桟にひっかかっては甲板を転がる。
もう、この状態では、舵からとても手が離せない。木片ども、波とともに打ちつけられ、船室の壁を破ったりする前に海に逃げてほしい。
「ああもう!」
わたしは滑り止め付きの木枠に足を踏ん張り、口に入った潮をブっと吐き出した。
――嵐の時呪う。自分のこの体格を。どうしても押し負けてしまう時があるのだ。
どうかすると、舵をとりながら、舵にひっつかまるような操舵だ。もっと体が大きければよかった。目に潮が染みる。視線は遥か彼方。五感を震わせ、軸を感じ、視る。切る。ふわ。一瞬体が浮きそうになる。踏ん張る、満身の力を込め。舵にしがみつき。そのまま切り返す、体全体で。
コの字枠の足元、脇の桟から、ざあと排水してはまた海を飲む。
――大丈夫だジルバ号はあちこちわたしの体格に合わせた特注だ。丈夫で頼れる相棒だ。わたしは信じる。舟を、ジルバを。誇りを。
船底からの攻撃も始まった。ぐわらぐわんと喫水線が大きく振れる。波しぶきが頬をはたく。はたく。
――ふいに右舷。ひときわ大きく、一陣の”渦”が吹いた。
――「……………… …あ…………」
暴風雨の中、わたしは一瞬呆然とし、呆然とし……。
すぐさま舵にしがみつき、全力で取舵いっぱい進路を変えようとしていた。
――閃光、雷をはらむ雲。
前方に、大きな大きな”鱗だまり”、黒い煙。雨雲の竜――
――紺鉄の塊みたいな巨大な雲。闇を含み肥大を重ね、重ねた、”それ”は
――「”ゴース・ゴーズ”だ!」
閃光のたび形があらわになる別名”煙墨竜”
――海面すれすれに”雨雲の姿のまま”低気圧がおりてくる気象現象。「醜い鍛冶屋のゴース・ゴーズの物語」から名付けられたそれは
――”雨雲の塊”だった。
「恨みでもあるの!?海神!?」
このままではあと砂時計2周分…”2沙分”ぐらいでジルバ号に突っ込んでくる。
――左舷に切りかえしてうまく逃げたとしてもあと2沙分…。
――この大シケでたった2沙…。
(ジルバ…)
視線の少し前に、船室。ジルバの光は、鎮まったままだ。目を凝らす。船首でぐらんぐらん揺れてる金熱燈にちらちらと反射し、船室のドア窓を無数の雨粒が叩きつけてるのが視える。視線の先では、透明な篭 ”星守”が揺れに耐えながらジルバを抱え、護っていた。
―ー脳裏に浮かぶ弱弱しい革袋の底、薄い光。
「…畜生!こんな時に!」
うらめしさは、波に、風に吹き飛ばされ、刹那、後方遥か遠くへ。
――凪から抜けたかと思えばこれだ。やめてほしい。わたしは何か海神にそむくようなことでもやったんだろうか。
祈るように、視線をさらに奥へ。遠くへ、水平線に飛ばす、”芯”はどこだ、”軸”はそこだ、ここだ、波の底、振り合い。波の先、平衡。
舵よこれが”助言”だ。聞け、聴け、訊け!
わたしは夢中で舵を切り返してる間、どこかで乗り合わせた、ベテランの水上守との会話をぼんやりと思い出していた。
――舟守に問われる能力は、簡単に言って、
・責任遂行能力。
・納期の概念。
・決して積み荷を転覆させない。
そんなものだった。
前者2つについては、グース群島ののんびりした人たちには、あまり出来ないことで、”秋”や”冬”がある方の地域の島民の方が得意だと聞く。わたしは、幸いにも生まれつききっちりした性格で、この点だけは舟守に向いていた。
問題は後者だ
――「要は積み荷さえ沈めなきゃいい」
経験を積んだ水上守たちは、口をそろえて言う。
ふと、風圧が甲板を震わせ、わたしの頭上を何かが吹っ飛んで千切れて。そのまま風に旅立った。どうやらマストが1本やられたようだ。
「簡単に言ってくれるなぁ!」
まるで叫ぶような雨の中、波が煽る。小さな舟の足元をすくっては、甲板を洗って逃げていく。左舷から高波。殴るような雨飛沫。すくい上げられた船底が、瞬間。海面を叩きつける。波の粉塵、闇の中、雨粒と供、甲板で踊る。逃げる。跳ねる。爆ぜる。
顔に弾丸みたいに雨粒が撃ち込まれ、ぐしゃぐしゃの前髪を二の腕の内側でやっと上げる。ザンザと頭から波をかぶる。波は瞬く間に桟に梳かれ、海へ。波へ。闇へ。風へ。
「取舵ィ!」
足元をガンガン波が洗っていく。滑ったら最後だ。死んでも踏み外さない。
「…要は!」
声出ししないと、立ってられない。踏ん張った体でそのまま舵を、取れ。執れ。左舷に、少しでも。
「意地でも!」
突風の中、真っ暗な雨が叩きつける中、叫ぶ。
「浮いときゃいいんだろ!?」
――――その時だった。
ゆっくりとした青の点滅。
「ジ…ジルバ!」
いつの間にかジルバが革袋から脱出し“星守”の中でふわり、浮いていた。
「だめだ!」
チ…カ…チ…カチカ…。翠の点滅。ゆっくりと星守の内壁を探るような動き。
――隙を見つけたように、波の猛攻。あっという間に足を滑らせそうになり、舵につかまり死ぬ気で体制をとり直し、叫ぶ。
「何?!」
「出てきちゃダメだ!」
チカチカ…チカ…。黄色の点滅。
「革袋に戻って!」
叫んだ口に雨という雨が降り注ぐ。吐きだしながら叫ぶ。額から雨が血のように流れ、強い点滅が鼻先に映る。まつ毛についた水滴で乱反射してしまう。
「こんな嵐の日に動いたら!」
「一気に枯れちゃう!」
気を散らしてたら、次の瞬間、海の底だ。
チカチカ…チカ…。
何か喋ってるみたいだけど、聴いてる暇がない。
「ジルバ!お願い!」
「心配させないで!」
「おとなしくして!」
声にならない声で叫ぶ。熱を。
舵を切る、斬る。波を切る。斬る。風と風。闇と風、刻む。切り刻む。泡だつ、波立つ。銀に、灰に。雨飛沫。海飛沫。風飛沫。
――――やっとジルバの点滅がやみ、なんだか普段より大きく大きく光ったようだった。
――荒れ狂う波間と闇の隙間だった。
――気づけば巨大な竜は目前――
大きな雨雲が雷とともにゴウゴゴと海面すれすれまで降りてくる。
”ゴース・ゴーズの鱗だまり”
わたしは、重心を滑り止めにしっかりと固定し、金色の魂、燃す、叫ぶ、気持ちだけは、前に!
「こ、こい!」
"ゴース・ゴーズ"はまるで海渡のひなを見る、冥の王の様相だ。お前がそのまま進路にいるんじゃしょうがないな。そんな感じだ。海面はめりめりと悲鳴をあげてうねり、波はまるで邪魔そうに払う竜の尾のように弾く。
――小舟を、この、ほんの些細な、”笹舟”を。
小さく細い体が、禍の吐息のような暴風の中、ふわと浮き、一瞬舵から手が離れた。
――静寂がよぎった。
…―――――――――――――― ― ―― ――。
――(ジルバは何かいいたいんじゃなかったのか?)
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――死ぬ気で瞬時、舵輪をつかみ直し、満身の力を込め、体を引き寄せたのだけは覚えてる。
**―**
遠くチカイどこかで、声が聞こえる。
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≪… … …… ……無茶する … …… …から… …… ≫
――…誰?
さかさまも天も地もない、全ての風景が温かい象牙色の空間。遠くに藍緑や紫水晶、白花色の霧がふわり、うかんで視える。まるで淡箔石の中のよう。
――…ここはどこだろう?
≪… … …… …… ミ… …… ………ム … … ≫
―― …うん?ここにいますよ?
≪… … …… ……ワタシ … は……… …もう役割… …… …… ≫
わたしは、ふんわりとした空間、乳白の光に包まれ、誰かの声を聞いていた。
≪≪…迄… ……ずっと…… …… … …し …かったね …… …… … …… ≫≫
―― …よく聞こえないよ?もう少しはっきり…。
≪≪ …… … … ワタシは”知ってて”……… ん…だよ≫≫
≪だから…………… し…… いで… … ≫
―誰だろう。患部に添える手のようにあたたかな声―
≪≪ …… … …… …… … …… と…う≫≫
*―*
――静寂の中、反芻する。嵐の中のわたし。
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ージルバ!心配させないで!
ーおとなしくして!
ーチ… カチカ… … チ…カ
ー……。
――(ジルバは何かいいたいんじゃなかったのか?)
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