52話‐「ふたり」
。゜
+.
+.
。゜
「…チロタ?」
わたしがみっともなく泣いてしまったからかなんなのか、わたしの頭を撫で、立ち上がった。
南南西から吹く風は、温かく、やわらかく。眼下に広がる星の草原は途中途中、針葉樹が縁どって、海に向かってなだらかに駆け下りていた。
「おいジジイ!」
智慧のカシを指さして、チロタは、風にたてがみを乱しながら、大きな声で、煮えたぎる思いをぶつけるかのように、こう続けた。
「そこで茶飲んで、耳かっぽじいて、よく聞いとけよ!」
”出発の岬”に太陽の姿。日差しは、もう西に傾きはじめの頃だった。空は遠く秋空なのに、智慧のカシの付近は若草の香りが吹き抜けていた。
「タヌ子もいるなら、一緒に聞いとけ!」彩ちゃんも何故か指名されていた。
「この世界中のなにもかも、お前ら、耳かっぽじいて、よく聞いとけよ!」
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオ」天を貫く遠吠え――。
**あなたは、どうしてここへ?**
せらせら、せらりと、待ち構えていたように、問いが風に乗って聴こえた。
「これが俺の!」
「解答だ!」――吼える。
**あなたは、どうしてここへ?**
「どうして?!」「簡単だ!」
普段ならわたしと喋る時は、しゃがんでくれるところを、余裕が一切ないような様相で、上からガッと両手で手を握った。手というか、チロタが手を握ると、腕の途中ぐらいまで、一気に握りこまれてしまう。
チロタは、轟!絶叫した。
「俺は!こいつが!」
「好きだからだ!」
がっきともう一回手を握りなおし、わたしの目を見て力いっぱい叫んだ。
「嬢ーーーーーーッ!」
「お前が!お前がッ!!好きダァアアアアァアアァアアアアアアアアアアアアアアアァアァアアアアアアァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアァアァアアアアアアァァアアアア」
前髪がびゅうと後ろに向かってなびく圧。銀河中にわんわんと響き渡るような大音量。耳がキーンとなった。気温が5度は上がった。チロタの気迫で生まれたとおぼしき乱気流に、智慧のカシもゴウと揺れ、森中がミシミシと音を立て揺れた。
落葉樹から、一気に木の葉が舞って、辺り一面の風を彩った。鳥たちは天変地異かなんかかと思ったのか、バサバサと飛び立ち、空で流線形を描いた。
急展開すぎて、頭の中で、整理がつかない。好きって、えっと、えっと、ニャーとかヌーイとか、小動物に対していうやつじゃなくて?
どっと吹きだす汗を、風がさらりとさらっていった。チロタは顔どころか、全身もう真っ赤になっていた。多分、わたしも。
「船で見かけて…」
「も、もう一瞬で惚れちまって…」
ほ、ほんとうに?好きって、likeの方じゃなくて?全然実感が湧かなかった。ほんとに?ほんと?
翠の香りが、鼻先に抜けていく。午後の木漏れ日がわたしたちをきらきらと包んでいた。
「思った以上に優しい娘で…」
「お、お、俺なんか釣り合わねぇとか」
「嫌われてんじゃねぇかとか」
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ考えた」はるか頭上、逆光の中、八の字眉毛が見えた。
「け、今朝も、失敗しちまって…」
目に涙が溜まっていた。わたしもまた涙が出てきた。気にしてくれてたんだ。「わたしも言い過ぎたから…」チロタはごめんな。ともう一回謝った。
───この件は、時間が掛かるだろうけど、いつかきっと。
「俺は、バカで、字もよめねぇ」
「こんな天使さまに…ど、どう逆立ちすりゃ届くのかって………」
「ベンキョーして、出直そうって」
「何年かかったら、迎えに行けんのかなって」
わたしは、手を握り返そうとしたけど、大きさがあまりにも違うので、手の中で、チロタの人差し指をみつけて、ぎゅっと握った。
「べ、勉強なんかできなくったっていいけど」
「わたし…教えられるよ…!」
―――我ながら卑怯だ、結局傷つかない時を見計らって言ってしまった。でもここで黙ってるのは、もっとダメなんだと思った。
言うんだ、今言うんだ。
「わ、わ、わ、わ」
「わたわた、わたしも」
「チロタロタロタのことことことが…」
「あの、あの、おなじ、おなじ」
ああああ、助けて…。
チロタは一瞬、ぽかんとしたあと、道端で拾われた子どもみたいな顔をした。しばらくしどろもどろになった後。
「……もう」
「………いっちまうか」
意を決したかのように、しゃがんで、ゆっくりと、丁寧に、わたしの目を見てこう言った。
*
+.
。゜
「嬢…下の名前を、フルネームを」
「教えてくれ」
どうしてだろう、と思ったけど、わたしは名前を教えない理由がもう見つけきれなかった。
大きな大きな智慧の木の下、舞い散る木の葉の中、わたしは、うつむいてぼそっと
「ミカダ…」
「ミカダ・ミムラス」
「です」
お母さんと、ジルバにしか、呼ばせてなかった名前…。
「静かな勇気って花言葉の…小さくて、黄色い野の花の、名前…」これ以上赤くなりようがない程赤いのに、言ってるうちにゆでだこみたいになってしまった。
「…ミムラス……ミムちゃんか…」嬉しそうにつぶやいた後、頭からぷしゅぷしゅと湯気が出はじめた。わたしも、つられて湯気が出た。
チロタは一回ポーズを変えかけて。うーんと考えを巡らせた。きょろきょろと周りを見渡し、どういうわけかわたしをよっと担いで一番近いところにあった、切り株の上に立たせた。
――この人は、男の人なのに、わたしに危害を加えない。起こった衝突は、話し合って変えて行ける、きっと。
これから何をするかよく分からないけど、安心して待っていようと思った。だってこの人はずっと嗅いでいたいような、落ち着く匂いがするから。
わたしが切り株の上に立って、チロタがしゃがんで、やっとわたしの位置が、少しチロタより高くなる。
改めてひざまずいて、わたしの手を取って、甲にキスをした。ドキッとしすぎて、心肺停止しそうだった。手に汗がにじむ。湿気てて気持ち悪かったらどうしよう。いらないことをぐるぐると考えた。
チロタは深呼吸ののち、慎重に言葉を選ぶかのように、まっすぐ見つめて、ゆっくりとこう続けた。
*
+.
。゜
「ミムちゃん」声が上ずっていた。
輪郭が光に溶けた。逆光の中、わたしたちは、このセカイからふたりだけ、シルエットで浮かぶ。大男と小さな、ちっぽけなわたし。ふたり、風景からくり抜かれたみたいになっていた。
――チロタの産毛が金色に光っていた。風でポンチョが揺れていた。輝く海と、智慧のカシが、遠くで見守ってるかのようだった。
紺碧の空の端、”向こうの世界”で紫や藍、薄桃色が絵具をこぼしてしまったみたいになっていた、不思議な空が岬の向こうに固まったまま、浮かんでいた。
彩ちゃんは空で構図を取って「上から描くか」なんていってたな…。どういうことだろう。
――チロタに見上げられたのは、初めてかもしれない。
「…これが愛ってヤツなんだって」
「嬢…じゃない」
「ミ、ミムを見てたら、すげぇ思う」
下の名前で呼ぶのが慣れなくて、照れてるみたいだった。目が合うと、溶けそうだ。どうすれば溶けずにいられるんだろう。
古傷だらけの精悍な顔立ちを、西日になりかけの陽光が照らす。高い鼻と彫りにはっきりとした影が落ちて、まるで彫刻のようだった。
*
+.
。゜
「ミカダ・ミムラスさん」
「俺と、結婚して下さい」
「専属の盾として、一生雇ってほしい」
「絶対、絶対、大切にする」
*
+.
。゜
ぬくもりが頬を伝った。
夢みたいで、あまりにも夢みたいで、夢なんじゃないかって思った。夢なら覚めないでって言葉は、こういう時使うんだって思った。
でもきっと夢じゃない、この地点は、わたしが歩んできた、”道”の延長線上。無数の分かれ道を、ひとつひとつ選んで、自分の足で到達した、分岐の突端。
「…あの、あの」
「えっと」
「…えっと」
わたしでいいの?こんなわたしで?
なにか気の利いた言葉を返そうとしたけど、マイナスの言葉ばかり浮かんだ。どうしよう、どうすれば想いを伝えられるんだろう…。
だいぶ間が空いてしまった。チロタが「だ、だめか…?」と死にそうな顔をしはじめた。
慌ててぽろぽろと泣きながら違う違うと力いっぱい首を横に振ったあと、びょこんびょこんと縦に振りなおして。
「す、す、好きです!」
どう返答すればいいかわからず、いま心にある、一番星みたいに輝いてた言葉を放った。
*
+.
。゜
チロタは、わたしをじっと見上げながら、ほんとうだろうか…というような顔をしばらく続けた後。
やおら
「ッシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァアァア!」
と嬉しさのあまり世界中を握って潰すんじゃないかというような、力いっぱいのガッツポーズ。
――その時だった。
もう、空を見上げるしかなかった。
さっきまで隅っこに固まっていた、紫苑や桃色が瞬く間に空中に水彩絵の具を大きな筆で端からばっと一気に伸ばしたみたいに広がった。
「!?」
一瞬でそら中ピンクに染まった。チロタは岬を背にしていて、まだ気が付いてないみたいで、まだ喜びのガッツポーズで仰け反ってる中だ。
「チロタ!ねぇ、チロタ。空が」切り株から降りて、ゆさゆさとチロタの大きな体をゆさぶって指さす。
「なんだぁ?」
ひゅーんひゅーんとどこかから次々と何かを打ち上げるような音が振った瞬間、≪ドォン≫大きな打ち上げ花火が空に輝いた。
桃色の空、大輪の白い花が次々と咲いた。≪ドォン≫≪ドドォン≫ぱらぱら…。…こんな無人島で、見計らったようなタイミング。
これは、多分、少しずれた次元で、そういえばわたしたちのやりとりを聞いてたであろう、二人。カシノギさんと彩ちゃんが…。
ばらばらばら…智慧のカシから、山ほどどんぐりが降ってきた。
≪妬けるねェ≫
≪でっかいのー。泣かせたら天罰だぞー≫
耳の奥に、二人の声が、遠く響いた。
「お前らありがとよ!」チロタは世界中何もかも愛してるぜ、といった様相で、顔いっぱい笑って、どんぐりの雨の中、わたしを抱きしめた。
≪よーし≫彩ちゃんの声。
≪借りを返すぞーー≫
そういえば白い花を助けてくれたから、と太陽の円卓のとこでそんなこと言ってたな…。
くりん!
一筆描きで雲が走った。わたしたちを縁取るよう、ハート形に白く駆けた。
この雲や空はきっと彩ちゃんが描いたんだ。分からないけど確信した。彩ちゃんはもしかして空を描く神様かなんかなんだろうか…。
せらせらせら
**世話が焼けるお二人さん**
**これでも喰らいやがれっての**
もう一人のワタシというより、”ゲートキーパー”の方がどこかで福音の風をピュゥと吹いたのが分かった。さっき逃げた鳥たちが風と共一斉に花をくわえて放射線を描いて駆け抜けた。
鳥の中に一匹やけに見慣れた、美しい蒲公英色と翠色の羽、つぶらな点目、やたらと和む顔立ちの…。チロタの頭のすれすれをヒュウと駆け抜けて…。
≪トーポポルルーー!≫
「「旦那ァ!」」二人で思わず見上げる。
旦那の後ろには小さな翠色の可愛い鳥がよたよたと一生懸命飛んでついてきて、わたし達を見つけるとほっぺたを赤くして≪ポポー≫≪オ、オ、シアワセセワニ≫と噛みながらお花をわたしの頭に置いていった。
何度も旦那が戻ってきて、こっちだよ、とエスコート。旦那のおヨメさんだろうか?可愛い…。
号令一下。一斉に鳥たちがわたし達に花の祝福をひらりひら、胸いっぱい降らしてくれた。
「ミム」
チロタは、わたしの手を握り、ギャラリーお構いなしに、見つめた。
「道案内の報酬だけど」
「こ、怖くなかったらでいいから」
チロタの顔が近づいてきた。報酬…?どれが報酬?え?も、も、もしかして…。チロタは静かに親指でわたしの唇をぷるんと弾いて「…愛してる」とゆっくり顔を近づけ…。
――わたしは何故か…うん…。と、うなずいてしまった。
もう一度シルエットで、ふたり、このセカイからくり抜かれた。チロタがいっぱいかがんだので、わたしからもいっぱい背伸びした。
「俺、もう…」
熱い吐息。
「ムリ…」
「チロ……」
肩にひとひらのちいさな花、一輪。わたしは、息をとめ、そのまま目を閉じた。
。゜
+.
.
*
+.
。゜
≪ドォン!≫ぱらぱらぱら…。花咲き乱れ、降りつむ、桃色の空。大輪の花火が咲いては、わたしたちの頬を照らす。
「……ん」
甘く、甘い、水みたいな瞬間。
「………………………… … 」
「…………………………… … や」
まぶたの向こうが、熱いな。
むさぼり、からめとる。頭の芯がジンジンと痺れ、溺れた。
抱きしめて、もみくちゃにして、わたしを持ち上げて、もう一回顔を見て、照れて、笑い合って、また目を閉じて、もう一度。ううん何度も、何度でも。
「……んん…」
――ここは神の島、トオイトオイ島、出発の岬。
空いっぱいの花火と、ハートの雲に縁どられ、桃色の空。森中の小鳥と花吹雪。少し不思議なセカイの住人達に祝福され、
*
+.
。゜
―――わたしたちは、白く溶けた。
二度とほどけないよう、堅く、固く、結ぶ。やっと出会えた、この運命の、喜びを。
胸の小瓶が揺れた。遠く彼方、チカチカと、翠の点滅が、小さく光った。
+.
.
*
+.