51話‐「あなたが好きな、花も、空も」
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丘を少し下った先、水平線がひゅっと一本描かれただけの、風躍る輝く岬を背に、わたしは、声を張り上げていた。
億年の沙がそのまま幹のうねりとなり、重ね続け、この星と共に歩んできた、分岐の突端、大賢者”智慧のカシ”を見上げ、すくむような気持ちで、一歩前に。
何をいうか、決まってない。決まってないけど、前に出た。わからない、わからないけど、何故だか一歩前に出た。混乱して、泣きそうなのを、ぐっとこらえた。
ザザザン、ザンザ、翠の風。目の裏に、ジルバの残像が瞬いた。星の花揺れる草原の中、チロタが真剣な面持ちで、わたしの横顔を追っていた。
背中から、ビョウと、一陣の強い風。
≪あなたは、どうしてここへ?≫
頭の中に、もう一度問いを浮かべ、すっと、息を吸い、何を言うかまったく計画が立たないまま、声を張り上げた。
「―――わたしは!」
声がひっくり返ってしまった。
「わ……」
「―――わからない!」
ザンザと葉擦れに負けないよう。叫んだ。
――どうしよう、何にもいう事が決まってない。でもきっと、こういうのは決めてからいう事でもないんじゃないか、とも思った。
「ここへ来るまで、何度も何度も、考えました!」
「わたしはどこからきて、どうしてここにいて、どこへ行きたいのか」
「全然、ぜんぜん、分からない!」
「わ、わかってるのかもしれないけど」
「それがほんとうの答えかどうかは」
「――――わからないからです!」
智慧のカシの真ん中、こっちのカシには建ってなかったけど、カシノギさんが棲んでた樹上の家があったあたりの、樹のお腹辺りに届くよう声を張り上げた。
耳の脇を、ザンザ、ザンザと、木の葉時雨。目の端でチロタがうなづきながら聴いてくれてるのが分かった。昼下がりの陽光が、わたしの頬を焼いて、南南西の若草の風が、さらりと熱をさらっていく。
「”ここ”にいるのは、何故かって!?」
「わからない!」
「舟守になって、人の役に立って…」
「つまんないけど、これでいいんだって」
クムド島の教室の片隅、ジルバが寝てる腰の革袋をそっと撫で、孤独に耐えてた、小さなわたしが、叫んだ。
「わたしは、き、きっと…」
お母さんが護った小さな花が浮かんだ。本当は、憎くって、憎くって、たまらなかった彼の花。
───鉛色の”わたし”。わたしが苛め抜いてきたもう一人の”貴方”。もうこんなのはやめるんだとばかりに、心の中、同時に叫んだ。
「だ、誰かに必要とされたかっただけ…!」鼻がつんと赤くなったのが分かった。チカチカチカ…。宝物が、心の中、こぽこぽと湧きあがって、声に乗って吹き出していくみたいだ。
「東の海域に向かう途中、大切な親友を一人、亡くしました」
チロタがびっくりしたような顔をして、わたしの方を見たのが分かった。
「後悔しました」
「こんな仕事取らなきゃよかったって」
「自分が決めて、出発したのに」泣きそうだ…。ダメだ、いまは。
ザンザ、ザンザ、ザンザカザ。遠く水平線に、これから春の島に旅立つであろう、海渡の一行が旋回していた。
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「わ、わたしは、この冒険で、優しいニンゲンもいるんだって」チロタの方をつい見る。風の中、目があった。いつもなら笑ってくれそうなものなのに、チロタは赤い目をこすり、困ったような、何とも言えないような顔をした。
「し、し、知れてよかったこともいっぱいあって」泣いたらだめだ。
「……えっと」「……えっと」チロタの目を見る。どうしよう。しばらくずっとチロタを見上げてるうち、顔から火が噴いて気温を上げた。
「あの、あのね」言おうとしたらおろおろして、口が震えた。どうしよう、言わないと、今まで散々ツンケンしてきたのに、こんなのちゃんと口に出して伝えなきゃわからない…。
言うって何を?わたしはどうしたいの?この気持ちに名前を付けるとしたらいったい”コレ”はなんなんだろう。
分かってるようでわからない。けど、このまま離れ離れになるなんて、嫌だ。嫌だ、いやだ。わたしは、チロタが……。
チロタは眉を八の字にして、何故だか一緒に泣きそうな顔をした。堪えていた気持ちが潤んで目から今にもこぼれそうだ。どうしよう、わたしは、わたしは…。
「で、でも…」
―――大切な言葉を、こんな流れで言ったら、泣き落としみたいだ…。
「わ…、わかんなくて…」目頭がかぁっと熱くなった。逃げたのか、なんなのか、もう分からなかった。とにかく今は
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「わ、わからないというか」
「わかってると思ってたことが」
「…わかってなかったって」
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「”気づいた”のだと思います!」
「今いえるのは」
「どうしてここにいるって」
「”この分岐”を」
「”わたしが”選んだから」
―――せめて叫べ!
「あとは」
――声が枯れそうなほど叫んだ。
「後でわかればいいんだと思います!」
「以上です!」
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遠くの海渡たちは、次々と空に螺旋を描いては、一匹一匹、スィと雲に伸びていく。遥か遠くの海域に向かって出発しはじめたようだった。ヨーンヨーンと遠ざかる影、風が光った。空の一部、まだ薄桃色や紫苑色の絵具がこぼれたみたいに残っていた。
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チロタは聴き終ってゆっくりと拍手してくれた。智慧のカシは、いっそう大きな音を立て、ザンザと翠の歌を唄ってくれた。
「…嬢」チロタがしゃがんで「すげぇよかった」と一言伝えてくれた。
もう滅茶苦茶だった。文意もくそもなかった。――でも、多分これが今の答えなんだろう…。
――チロタにいうべき台詞が、色々あったのに、なんにも言えなかった。
心の片隅でズルいわたしが”泣いてわたしの想いを伝えたら、引き止められるんじゃないか?”とささやいた。だからとにかく泣かなかった。ダメだ。そういうのは卑怯っていうんだ。そう思った。
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とりあえずわたしは、深呼吸の後、人として言わなきゃいけないこと、そして必要最低限の伝達事項を伝えることにした。
「オガヤ・チロタさん」
ポンチョの裾をつまんで、正式な会釈をした。ポンチョがひらり、風に踊った。チロタの表情が固まったのが分かった。何かヘンな事を言ったんだろうか?しかし、これはわたしにとって最大限の敬意の示し方だった。
「道案内、ありがとうございました」
「ここまでこれたのは、ひとえにチロタのお陰だと思っています」
――言えた…!
――トオイトオイ島一日目では、言い方もわからなかった台詞が言えるようになっていた。
チロタはしゃがんだまま、いやまぁ、みたいなことを呟き、どういうわけか居住まいが悪そうだった。
「最初、邪険にして、申し訳なかったな、と思う」
「乗組員Bとか」
チロタなら笑うかな。と思っていたのに、わたしをじっと見て神妙な顔をするばかりだった。気まずいまま、黙って頭をぺこんと下げた。
午後の日差しがわたしたちを照らす。もうあと6沙後にはここを発って、また昨日の野営地まで戻らないといけない。
「希望の報酬を言い値で支払いたい、と、考えています」
チロタは、わたしをひたすら見つめる。しゃがんでても、ほんの少しわたしより目線が上だった。
「……ユ、ユーハルディアに」
「…か、か、帰ってしまうとのことで…」
(「読み書き教えに来てよ」とか、チロタから言ってくれたら…)
わたしから「教えます」だなんて、なんだか偉そうだし、ぽかんとされて傷つく展開ばかり頭に浮かんだ。こんなの誰だって言いだしっぺは勇気がいる。皆傷つきたくないのは同じなのに。自分にウンザリしながらなんだかもう訳が分からない。
「…じょ…嬢」
チロタがいつの間にかわたしの肩を掴んで、大きな手でさすっていた。温かさが伝わるたび、涙が出そうになる、困る…。
「出立の時期との兼ね合いを見て、決めていきましょう」
「……嬢」
もう目が見れない。つい伏せてしまう。”智慧のカシ”や森の木々の唄も、なんだか静かになった気がした。きっとわたしが今、この世界を聴く余裕がないんだろう。
「ぼ…冒険も…」
「もうおしまい」
ダメだダメだ。ここで泣いたら絶対ズルいわたしは泣かない。
「一緒に、ごはん食べたり」
「喧嘩したり」
チロタの大きな、フライパンみたいな手。震えながら続けるわたしの両肩を痛いほどつかんでいた。
ちゃんと、こういうのは、笑って言わないと。お母さん、みたいに、ちゃんと。
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「あ、ありが…」
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―――海からの風、チカチカとまたたく、ちいさな光ととも、わたしの短い黒髪がしゃら、と乱れた。
「ごめ、これ、泣い…、卑怯…」
煮えたぎったような涙かあふれる、気づけば堤防はぼろぼろと決壊していた。目からばらばらと”サミシイ”がこぼれて、はらい落とすのが間に合わない。わたしは…。
「わたし、チロタの」ひっくひっくと横隔膜が痙攣して、泣き止もうと思っても、もうダメだった。チロタの肩をさする手の力が強くなった。
「好きな花と”か”」「ぐ”も”と”か」鼻水が垂れてきた。見られたくないので、手をばたばたさせて、チロタを追っ払おうとしたけど、いつの間にか、掴まれて、がっしと握られ、動けなかった。
「も”っ”と”、も”っ”と”知”り”た”か”っ”た”よ”ぉ”お”お”お”」
声を上げて子どもみたいな嗚咽。もうダメだ…わたしは…。
「…嬢」
チロタは、わたしの頭を撫でたあと、すっくと立ち上がり、智慧のカシを指さして、こう叫んだ。
「おいジジイ!」智慧のカシというより、カシノギさんに向かって言ってるようだった。
「そこで茶飲んで、耳かっぽじいて、よく聞いとけ!」と地の果てから殴りつけるかのように怒鳴った。
ど、どうしたんだろう…。
わたしと同じように智慧のカシの真ん中辺りに向けて怒鳴った。
元々体も声も大きいのに、怒鳴るとまるで兵器のようだ。わたしはびっくりして、恐ろしすぎて涙がいったん引っ込んでしまった。
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