50話‐「大きな智慧の木の下で」
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トートーピョウルル…キョキョキョ…キョキョキョ…どこかから鳥のさえずりが聴こえた。
ザンザと、樹々の葉擦れの音。
森の香りが吹き抜けていく。ここは…?わたしはたしか、護りの森を抜け、可愛いタヌキに案内されて…ええと……。薬瓶を配達して……寝ぼけた頭でぼんやりとめぐらしていくと、全部夢だった気もする。ほんとだった気もする。なんだったっけ?ってなる。
容積の魔法みたいな術を使って、所狭しと本が積まれた樹上の家…。手作りのガタガタのテーブルセット。不思議な発明品からうっとりするような音楽が流れ、朗らかで素敵な老紳士の給仕。異国のお茶と、真っ黒焦げのクッキーを笑いながら食べた…。
子どもの頃から一回でいいから出席してみたかったようなお茶会だった。というかここはどこなんだろう…。なにをやってたんだっけ…。
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「…ん」わたしは、軽く痛みの残る頭をもたげ、だるい中目を開けた。紅葉した枯葉がどこかから落ちてくる。何故かふんわりと体中が暖かかった。なんだろう?やわらかいものに包まれてるみたいだ。
「!!」
眼前、鼻の先、すぐそこに無精ひげがうっすら生えた、チロタの寝顔があった。常緑樹の木漏れ日がまぶしい。どうやら常緑樹と落葉樹が、仲良く暮らす森のようだ。
お昼を少し過ぎたあたりの時刻みたいだ。頬に陽光が躍っていた。梢の間から覗く高く澄んだ紺碧。
んごー。ごーがー。チロタは豪快ないびきの途中、ガクッとさらに下を向いて、またうつらうつらと同じ事を繰り返していた。
下からの大アップだった、チロタの高い鼻がぶつかりそうだ…。どうしても顔が赤くなる。さっきまでだるかったのが一気に吹き飛んでしまった。わたしは、いまどういう状況でどこにいるんだろう…。
混乱しながらも、まじまじと顔を見る。
(この人まつ毛、こんなに長いんだ…)刀傷だらけの頬や腕、歴戦の英雄のようだった。
「ん?」
起き上がろうとしたら、身動きがとれなかった。それもそのはずだった。わたしは毛布にぐるぐるに包まれて、大きな木の下、赤ん坊のおくるみ状態で、チロタの膝に寝かされていた。
「チ、チロタ」
「…んあ」
至近距離で目があった。特に変な間もなくチロタは「起きたか」とふっと微笑んだ。また心臓をぎゅっとつかまれたみたいになってしまった。どうやら気を失ってるわたしを介抱してる間に、チロタも寝てしまったみたいだった。
なんだか兄というより、お母さんみたいでもある。
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いつの間にか裸足だった。何でかわからないけど、少し離れたザックのところにチロタの靴と並べてひっくり返して置いてあった。久しぶりに足が楽だ。
「ここは…?」毛布をほどきながら起きた。
フユジロリンドウ咲き乱れる丘を下った少し向こう側、青い水平線がひゅっと一本結ばれていた。樹上の家でのお茶会の記憶がもう一度蘇る。
チロタは「見りゃすぐわかる」と顎で後ろの”樹”の方を指した。
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――仰いだ瞬間、遠く、とおい、古に吸い込まれた。
ザンザ、ザンザ、ザンザカザ。巨大な幹の先、空を抱くように手のひらを広げ、翠奏でる葉擦れの唄が、幹から、木漏れ日のそこかしこから、響いていた。
木の葉が大気を奏で、舞っていた。風を招き、空に、福音を放つように、その樹は、ゆうらりと”沙”を湛え、そこに居た。
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叡智の象徴。この星の大賢者と呼ばれる”智慧のカシ”
────この冒険の目的地だった────
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何クムロンあるのだろう?樹冠まで上れば、きっと月も手にとれることだろう。
幹が捩じれて枝分かれしてる辺り、――向こうの世界では樹上の家が建っていた付近は、こちらのセカイでは小鳥の大家族が棲んでいるみたいだった。
幹の太さは、大人が何十人と束になって手を広げてつないでも囲えないぐらいの規模。目を見張った。ここだけ巨人の国にでも来たみたいだ。前に立つとわたしたちが指人形みたいに見える。
ザンザカザ、ザンザザザ。秋とは思えない温かい南東の風が頬の産毛をさらり、撫でていく。
岬の向こうには、天色、刺さるような紺青の、結び目のない水平線。皆、ここから出発して、還ってきて、そしてまた始まる。家路ノ黄島――すべての海が見渡せる島。
足元を這う根、地表ごとねじれて盛り上がった大地ととも、美しい苔に覆われ、ザンザカザ、祝福の唄ととも、星の花達が揺れていた。
少し遠くからでも幹の中を、ごうんごうんと、水が通ってるのを感じる。太古の地球からの血管が、今でも繋がっている、まごう事なき大地の一部だった。
この樹の前に立ち、葉擦れの音にただ、たゆたっているだけで、心に波立つささくれが、ふさがって、浄化され、赦されて、地球に還っていくようだ。
―――神の慈愛。この圧倒的な畏怖の念。
つい口をついて出た。
「……カシノギさん」敬意が自然とこみ上げてきた。
胸ポケットをさぐると、流れるような達筆でmasamichi・kashinogiとサインされた、受取伝票が入ってた。あった。夢じゃなかった。
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太陽の円卓に着いて、急に森の雰囲気がガラッと家の台所みたいに変わったことに関して、ふと彩ちゃんが最初に言ってた言葉を思い出す。
≪おじいがフンイキスイッチを調整したんじゃ≫
≪おきゃくがキンチョーせんようになー≫
チロタは髪を風で乱しながら、くっくっくと困ったように笑って、首をすくめた。
「あのジジイ、こんなヤツだったのかよってな」
「思わず土足やべぇって、靴脱いじまったよ」
片眉をあげ、台所箒みたいに大きな足先をひらひらさせた。裸足だったのはそういうことか。わたしもついひらひらさせて、目を見合わせて笑った。
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トオイトオイ空の彼方、端っこの方に少しピンクと紫が溜まっていた。チコダヌキ…彩ちゃんが困りながら筆を立てて構図を取ってた不思議な空と同じ色だった。
岬に向かって。風見鶏が付いた三角屋根の百葉箱がぽつんと一基だけ建っていた。不思議なお茶会が開かれていた方のセカイに山ほど建ってたものと同じものだった。
——幾度も繰り返す。カシノギさんの言葉。
「ミカダ君は、皆には視えないもの、あやふやなものを、信じ ”ここ” までやってきた」
「それはなかなか出来ないことだ」
「大切になさい」
夢じゃなかった。これも夢じゃなかったんだ。わたしの心の中、幸福感が満ちた。
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木の葉舞う風。髪が躍っていた。お茶会の途中、カシノギさんは薬瓶をわたしに託しながらこう言った。
───「君たちは、この島のどこかで、ひとつの問いを投げかけられたと思う」「それをでかい木の方のボクに答えに来て欲しい」
智慧のカシを仰ぎながらぽそりと呟く。
「…鉱窟の問答。ここで答えればいいのかな?」
それにしても、大きいと話には聞いていた智慧のカシだったけど、予想以上だった。このカシの前でならこの大男が赤い帽子をかぶって「小人です」といっても、あちこちの小人に謝って回らなくても済みそうだ。
───チロタは返答、もう決まっているんだろうか…。
チロタが鼻をごしごしやりながら「………わかんねぇけど」
「俺は、なんかわかんなくなっちまった」
「あ、朝までは、何言うか決まってたんだけどよ…」言うなり顔が赤くなった。
「朝までは、なんだったの?」見上げて聞き返す。
「…いや、その、アレだ」
「その…わかんねぇ」ばりばりと恥ずかしそうに頭をかいて、そっぽを向いてしまった。
わたしも、何を言うか決めきれてない。わからない、わからないけど、どうすればいいんだろう…?
チロタは、空を見上げて、しばらく黙った後、
そうだな…と
「…俺は、ひとまず、故郷に帰る」
「………―――」
目の前が真っ暗になった。ユーハルディア諸島、辺鄙な東金珠海域…。帰っちゃう、故郷に。チロタがもといたセカイ。チロタが今まで培ってきた暮らし。わたしがかかわることが出来なかった、もといた毎日に。
「10年もほっつき歩いちまった」
「いい加減墓参りしねぇと」
――――何か一つ楽になったような表情だった。
「…あとは……」
「字が読めるようになりてぇな」岬の彼方。水平線を見やった。まるで1000カロン先の果てを眺めてるみたいな表情。読み書きならわたしが教えるなんて、到底言い出せそうになかった。
でも、それじゃあ…。手が震えてきた。じゃあわたしは、なにをしたいんだろう…?どうすればいいんだろう…。
風が、一瞬凪いで、せらり、囁きが響いた。
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***あなたは、どうしてここへ?***
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わたしとチロタは顔を見合わせて、何も決まってない。という顔をした。わたしは無数の”どうしよう”を抱え、混乱して、何故か一歩前に出た。
わたしは、どうしてここにいて、何をしたくて、どうなりたいんだろう?今分かることは、チロタが故郷に帰ってしまう前に、「ありがとう」ともう一つ、伝えなくてはいけないことがあること。
「わ、わたしから行きます!」
ひっくり返ったような声が智慧のカシの前、轟いた。それを確認したかのように、ザンザと風が戻ってきた。わたしは裸足で、もう一歩前に出た。午後の光に照らされた草を踏むと、風がスィ、陽ごとさらって海に還っていった。
どこまでも果てしなく伸びる水平線を背に、わたしは勢いに任せて大きく大きく、息を吸った。
「―――わたしは!」
ノープランの冒頭が鳴り響く。
チロタが神妙な顔をして、わたしの横顔を、じっと見ていた。
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