05話‐「凪の海」
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――わたしには、この”舟守”という仕事に就いてからというものの、”家”というモノがなかった。
子供のころ棲んでいた ”家”は、勉強代の足しに売り払ってしまった。祝福の試練はなにかと入用だったし、天涯孤独の身としては、家なんか、あってもなくても変わらない。
――めんどくさいから、投げ捨ててしまった。
――屑かごにまるめるように。
――吐き捨てるように。
荷物は、海語商工会に、半永久的に借りれる倉庫もあったし、どっちにせよ、舟守の仕事を真剣に取り組もうとすると、一番邪魔になるのは”帰る家”だったからだ。
商工会の倉庫は、安全地帯というわけでもなかったけど、どうせ金品は銀行だ。 倉庫には大したものは預けてない。盗難にあったところで、たかが知れていた。
いわば、わたしの”家”は、この波間を華麗にすり抜け、遠く誰かの大切な贈り物を届ける、わたしの誇り―「ジルバ号」―こいつだ。
わたしは、この持前のフットワークの軽さが禍して、この大切な”分岐”を、軽率に選択してしまったのかもしれない。
「………どうしよう…」
トオイトオイ島に進路をとってから、藤の航路までは、調子が良かった。ぐんぐん波を切り刻んで走る。色鮮やかに走る、わたしの”ジルバ号”
わたしは、この選択肢が正しかったのだと、胸躍らせていた。
――しかし。
――転。
――東の海は、凪ぎすぎていた。
「困った…」
――わたしは早速後悔しはじめていた。
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じりじりと、海が、陽が、照りつける。無風、無風。ひたすら無風。東の海、”滅紫の航路”は、どこまでも凪いでいた。ぼってりとした、澱んだ空気だまりがじわりと首を締めるように、ジルバ号のセカイの時間を停めていた。
次の中継地点、キザン諸島まで、あと900カロンぐらいの位置なはずだった。
足止めを喰らい、もう数日が過ぎようとしていた。
(朱の航路まであと、もう少しなのに…。)
だらんとした帆を尻目に、わたしは調子の悪い動力部を、なんとか修理できないか、頭を悩ませていた。
ジルバ号は、風が吹く時は帆。配達を急ぐ時なんかは種火を動力として、炎振を燃して進むことのできる、1人~3人乗り用に改良された小ぶりの”機帆船”の一種なのだけど、大きな凪で、炎振を痛めてしまい、補助炎振をセコくセコく回してるうちに、補給ポイントまで十分あるはずだった種火も怪しくなってきてしまったのだ。
わたしが、この5年必死で、貸し舟を駆使し、遠くの島国まで運んで運んで、積み立てて、貯金して。道端に落ちてる小銭もくすねて、食事は全部、干しパンで我慢して、我慢して…。
――やっとの思いで購入した、この”小さな舟”は、本当はもう少し装備を充実させないといけないぐらいの小規模な舟でもあった。
(こんな大がかりな”凪”ははじめてだ…)
わたしは、腰につけている小さな革袋の中の様子をたしかめる。
(なんとかしなきゃ…)
(翠じゃなくなってきた…)
――案の定ジルバが調子を崩してまったのだ。
革袋の底で、眠るジルバ。薄く水色に光る。昨日より少しだけ弱い光で。
水色の光。つまり、黄色が抜けてきたのだ。
――琥珀草のストックが、凪の蒸し暑い空気にあてられて、だいぶ傷んでしまった。かき集めても残りは4日分ぐらいしかない。琥珀草が痛む空気というのは、ジルバの調子にも確実に影響する。
炎振全開で、キザン諸島まで走らせたとして、はたして種火が持つだろうか?錨をどこかに下ろして、ボートで抜けだして琥珀草を買いに行けないか?舟は、あとでどうにでもなる。まずはジルバだ。早くどこかの陸地にたどり着いて、ダメになってしまった分の琥珀草を仕入れないと。
(わたしが、こんな依頼を受けたから……)
わたしは、じくじくと胸をいたぶる自己嫌悪に、崩れそうに、負けそうになりつつ、なんとかしゃんと立っていた。なるべくジルバに、溜息を聴かせないように。
(……考えてもはじまらない)
(わたしが決めた航路だもの)
(せめてしゃんとしておこう…)
そうはいっても、劇的な解決策は待てど暮らせどうかばなかった。
――風はいつまでも、届けようとしなかった。帆はいつまでも、ふいに見つけだそうとしなかった。波はいつまでも、走り出しては、くれなかった。
(どうしよう…)
ジルバは最近ずっと寝てる。色は確実に褪せていた。
わたしは、どうにか炎振の調整を終えた。
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最近しくしくと痛む胃を、ジルバに気づかれないようにそっとさすった。
ぎりぎりまでキザン諸島の近くまで乗り付けて、ボートで琥珀草を買いに行こう。ジルバ号にはしばらく錨と一緒に沖で待っててもらう。ちょっと心配なぐらいだ。また回収できる。大丈夫だ。
(だって、もうそれしか、手だてが…。)
日に日に色が薄くなっていくジルバにおなかいっぱい太陽みたいな黄色を食べさせてやらないと。早く。手遅れになる前に全力で炎振を回そう。