39話‐「降りしきる青、大地を、翠を、空を育み」
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わたしはいつの間にか、暖かな象牙色の空間に浮かんだひとつの泡の中、ゆっくり、くるくると、包まれていた。白花色の靄の中。遠くには淡紅藤。近くに藍緑の霧がふわり、うかんで視える。
子どもの頃、お母さんの引きだしから、こっそり借りて付けて遊んだ、淡箔石の指輪の中みたいだった。あの指輪は、どこにやったっけ…。
チカチカチカ…。
翠の光は、わたしを包む気泡のまわりを、うれしそうにくるくると旋回したかと思えば、泡の表面をぐぐ…と押し、ぽよん。と”入室”してきた。
翠の光が映りこむ泡の中、大家族用のココ麦パンぐらいのサイズの小さな雲が、わたしの頭の上あたりにかかり、青い雨がサァサァと振りだした。青は足元に少しずつ溜まり、小さな珠状の”青い部屋”を作りはじめた。
≪相変わらずだね…≫
ジルバはわたしの鼻先をくすぐるように、黄色く点滅して、楽しそうにしてくれた。ジルバの様子を見て、なんだかたまらなくなってしまった。
徐々に雨足を強め、珠に満ちた。象牙の空間に透き通ったとひとつの”水の珠”が浮かんだ。両手を広げると割れそうなぐらいの大きさだった。
ジルバが笑うたび、青に黄色が反射して、幼いころの記憶。”魔法の庭”で太陽が鉢の上で弾けて作った一番美しいあの”翠”になって 心を撫ぜた。
「わたし、わたし…」
鼻がつんと熱くはじけた。
「わたし、ずっと、ジルバに、会いたくって」
わたしはたまらなくなって、ぼろぼろと涙をこぼしてしまった。ここは夢だって、わかっているのに、懐かしくて、ぎゅうと胸が締め付けられた。
「わたし、わたし、なんか、わからなくって」
「ごめんね、ごめんね」
想いが溢れて、目からこぼれた。
ジルバはしばらく海色に光って包んで撫でてわたしが落ち着くのを待ってくれたあと、チカチカチカ…。黄色く光って笑いながら
≪少し素直になったね?≫と嬉しそうに点滅した。
「そ、そう…?」と首をかしげるわたしを見て、もっと黄色く点滅した。
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降り注ぐ雨は、暖かくて、心が潤った。わたしは、ジルバに伝えたいことが山ほどあったのに、なんとなく切り出せずに、ぷかぷかと浮かびながら、なんでもないような話を続けた。
初めて食べた星ポンヌは急に口にほおり込まれて味が分からなかったこと。悔しいことにチロタが地図を読むのがうまいこと。
トオイトオイ島でみた、金色に輝く朝露がどこの島よりも美しかったこと、ヤマセンドウの旦那を交え、3人で食べた朝食が最高においしかったこと。嵐の晩の話からは、逃げてしまっていた。鉱窟での話も出来ないでいた。
ジルバはひとしきり笑いながら聞いてくれたあと、何の前触れもなくこう言った。
≪その男の人≫
≪気になる?≫
わたしは急に話題振られて、思わずむせてしまった。「べ、べっ、べべ、別に!?」げっほごっほ。
ジルバは今世紀最大に嬉しそうに点滅した。
≪ふーん≫チカチカチカ…。
だめだ…顔が赤くなる…。ジルバには隠せない…。わたしは、じゃぼん…と力なく沈んだ。泡の外のさまざまな色たちの靄が水中に透け、紫苑。菫。香色…分光して揺れた。
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「……うん」
潜ってても普通に息が出来た。
「ど、どうして、こんなによくしてくれるのかなって」
顔から火が噴き出すというのは、こういう事を言うんだと思った。汗が球の中、溶けて青に吸収されるそば、珊瑚色になって滲んだ。こんな話題は、生まれて初めてのことだった。
≪……鈍…≫
「えっ…なんでそこで引くの」思わずざばぁ!と音を立てて水面に顔を出してしまう。気泡は振動を受け、ぷるり、大きく揺れた。
≪…さすがっていうか≫
「ちょっとちょっとジルバ、なにがだよー」
しばらく軽いケンカになった。雨は一定量泡の中に満ちると、ぽよんと一部を切り離し、水の珠を象牙の空間に次々生み出していった。
水珠たちは、舞っては浮かんで、象牙の空間はまるで夕立ちの途中、沙を止めた空のようになっていった。わたしは、しばらくののち思い切って、こう切り出した。
「わたし」
「…最近わからなくって」
「前は、男の人は」
「…みんなみんな敵だって思ってて」
抑え込んでた記憶が弾けて、早速わたしに惨めさを突きつけにやってきた。今度は冷汗が吹きだすそばから優しい青に吸われていく。きっと普通の空間でこの話をするより、だいぶ楽なんだろう。
「わた、しは、ほんとうは…」
「意地張ってた…けど」
頭の奥底、灰の火花の瞬きの向こう、忌まわしい記憶が繰り返し浮かんでは体中を蹂躙し、なぶった。
「お、男の人は…」
色の消えた祭壇。
「…こ、怖くて…」意味が分からない涙が零れた。泣き顔を見られたくなくて、水珠に音もなく沈んだ。
あの時むしられた前ボタンはどこに行ったのだろう。忘れ物の国で、まだぽつんとひとり、泣いてるんじゃないだろうか。気丈なふりばかりうまくなった、空っぽのわたしみたいに。
ジルバがすぐに、光で包んで、だいじょうぶ、だいじょうぶ、こわかったね。ここにはこないよ。もうだいじょうぶだよ。あなたはなんにも悪くないよ。と震えと動悸をなだめてくれた。
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ジルバの深い光が照らすと、あたりはまるで始祖の海のようだった。鉱窟で視てきた記憶の旅を、ジルバは全部分かって聞いてくれてるみたいだった。
ジルバは≪無理しなくていいよ≫とずっと撫でてくれたけど、わたしは、止め切れず、続けてしまった。
「お、お母さんが苦労したのも…」
「…お父さんが……悪くって」
鉱窟での旅の途中でも、一度も出てこなかった、父親の姿。やり場のない悔しさであふれかえった。
≪それを口に出せるようになったなんて≫チカチカチカ…。
≪がんばったんだね≫
ジルバは途中から白くゆっくり光りだした。一緒に泣いてくれたのが分かった。
―――お父さんがいたらどんな感じなんだろう。
いたことがないから、想像できなかった。次の言葉を絞り出すのにしばらくの沙を要した。
「なのに、チロタは…」
「…嫌じゃないんだ」
「…そ、それどころか」
禊の時感じた、今まで感じた事のなかった、蠢き。顔に熱が昇って、また涙がこぼれた。涙の意味はわからなかった。
わたしの中の”不浄の生き物”が這い回るのをなんとかしないといけない。早速もう一人のわたしが、責め始めた「気持ち悪い」「恥をしれ」と、喚く。
「…恥ずかしい」顔を見られたくなくて、潜ってごぼごぼと髪を乱した。死にたくなる。
ジルバは
≪何が恥ずかしいか、さっぱりわかんない≫と笑った。
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「?だ、だって…」思いがけない返答に困惑していると、ジルバはほっとしたように大きめに光って。こう続けた。
チカチカチカ…。≪よかった≫
チカチカチカ…。≪これで安心して“旅”に出れる≫
ジルバはわたしのまわりを5回旋回したあと、
≪”お母さん”にあったら、もう大丈夫ですって、伝えておくね≫
「待って!」「ジルバ!」
まだ、わたしは、嵐の晩のことを、話せてない。
――ばしゃん!――
大声に驚いたように、泡は割れ、わたしは空中に放りだされた。青は大きくはじけ、ざぁざぁと象牙の空間全体に降りはじめた。
「待って!」
「わたし…ジルバに…」
雨は海となり空や山を縁取り、水平線を描いた。何時の間にか象牙の空間に”地”が生まれた。途端に重力を感じるようになった。
いつの間にかわたしはちいさな家ぐらいの大きさの小島の上に立っていた。遠くの方で、チカチカ…とジルバは手を振った。安らかな蒲公英色。
「…まだ、伝え終わってないよ!」
ジルバが遠くで笑うたび、雨に当たって弾けて、足元から次々と、翠の双葉が生まれた。種子がはじけて、根を張りながら雫を吸いつづけ、一人用みたいなささやかな森が生まれ、島になって、海に浮かんだ。
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≪……ワタシ … の役割は、もうここまで… ≫
降るたび、島を潤し、めまぐるしく成長し、小鳥を呼び、皆で恵みを歓迎した。
≪… … ………… ミ… …… …ラ … … ≫
遠く近く撫でる、心地よい声。仰ぐと月が上っていた。セカイに夜が生まれたようだった。
≪…今まで… 一緒にいれて………… …≫
≪楽し… … … …かったね …… …… … …… ≫
「―――ジルバ、どこ」
≪…さい…ご…に…影踏…み…ド…ンドン、………た…かったな≫
どこにいるのか、見えなかったけど、黄色く点滅して笑ってるのがわかった。
いつの間にか雨は止み、今度はわたしの目からドウと雨があふれた。”サミシイ”の雫だった。静かな森の天に、日が昇り満月から新月へ、早回しのごとく空が変化していった。
≪琥珀、の…光…いつ…も集めてくれた≫
≪特……別お…いしかった…≫
心の奥底、何とはなしにわかっていた。
―――ジルバの本当の旅立ちの時がやってきたのだと。
「待っ…」胸が詰んで、言葉が出ない。
≪ …… … ワタシは”知ってて”…この旅に…ついてきた… ん…だよ≫
――ジルバ!
≪だから……気に……… し……な いで… … ≫
気づけば藍を仰ぎ、わたしは顔をぐしゃぐしゃにしながら、雲間の二日月に手を伸ばし、握っていた。チカイチカイ山、山頂の夜。
寝袋から跳ね起きた。遠くの闇の中、翠の点滅がまだ視えていたからだ。
「ジルバ…!待って!」
サンダルも履かずに枝を踏んで駆けだした。刺すような空気が足先から上る。
≪ …… … … ありが…と… … …… …う…≫
―――さいごに大きな青翠で光って、光って…光って…。闇にスゥ…と滲んで…――
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ざぁあ、ざんざ、大きな風が雲を払い、弧を描き、まるで白界に還っていくような星々。
銀の帯たちは遠く緩やかに登っていった。
白い息を弾ませ、わたしはひとり立ち尽くしていた。
広大な”サミシイ”を抱えて────
青い雨のような暖かい涙が頬を伝った。
(…また、いつか…)
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ふと後ろの方から絞り出すような声。
「…いく…な…」
「親…父…お…ふく…ろ…」
「…マ…チ…ルカ…」
「…俺は……」
チロタが魘されてる声だった。