32話-「灰の回廊」
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***side”ミカダ”***
(…お母さんは、)
(花を…かばって)
――ぶわり、景色滲む中。はたはたと、零れた水が沁みた路面。南風に吹かれ、滴の円が薄く渇いていく風景を視たのは覚えている。
次の瞬間、冷え切ったどこかの真っ暗闇の穴倉で、ひとりぼっちで顔を伏せて座っていた。ごつごつした岩の上。少し遠く風だまりがコォオ…と木霊する。
どうも洞窟のようなところにいるみたいだ。
頭に大量のもやが詰まってるかのように重たい。わたしは、どこから来て。どんな経緯で、ここはいったいどこだろう…。
――疲れた…。
顔を起こす気にもならない。
かすかに何かを燃したあとの湿気た匂いがした。消えた灯、焚き火?松明…。再び燃す気力は、なかった。
どうしてこんな寒くて暗いとこにいるのだろう。わからない、けど。とにかく、このまま、いなくなりたかった。
伏せた顔からは、大量の水がこぼれてて、ひざや襟をぐしゃぐしゃに濡らしていた。轟―――堤防は決壊した。
これは水じゃない。―――”涙”だった。
わたしは、負けたのだ。
――お母さんは、しょうがなかったんだ。
――これは事故だ。
――立派な死だった。
幾度となくいいきかせ続けて、そのうち記憶に封をした。多分”この思いつき”は、違っているから。わたしはお母さんを責めたくなかった。
(…お母さん…)
お母さんは、わたしと野の花を天秤にかけて、花を選んだわけじゃない。これは事故だ。お母さんはそんな人じゃない。
(ジルバ…)
わたしは、大切に出来てると、思ってた。わからない。どう考えて整理すればいいか、まだ見当がついてない、ついてない、つかないけど、きっとこのことも、苦しくて、また封をしてしまうんだろう。お母さんの思い出みたいに。
わたしは、何がしたくて。どうなりたくて。何が欲しくて、どこに行きたかったんだろう…。
(…ロクな事が起こらない人生だった)
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――わたしは、舟守…向いてなかった。
――お母さんは、花の方が、大切だったんだ。
――ジルバはわたしが、殺した。
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ぐるぐると頭の中。灰の思考の回廊を、脱出する気もなく、敗北感に浸っていた。
(がんばった、つもり、だった、ん、
だけ、ど…な…)
教室の片隅、ひとりぼっち。石を投げられた、みじめな思い出。
(わたしは、ほんとは…)
横隔膜がひくひくとえづいて、つぶされてぎぃぎぃ軋んだ心が、水底から汲み上げられ、せりあがって、せりあがって。喉から目から、ぱんぱんに腫れた膿が湧きだすような涙。子どものような嗚咽だった。
(…ニンゲンの、友達、も、)
(憧れてて…。)
――舟守を雇うような、お客様には、家族や大切な人が、かならずいて…。
(本当は、わたしも)
(大切な人から…手紙とか)
(……一回でいいから…。)
どうして、なんで、ここにいる。
ここまで歩いてきたことに、大した意味なんかなかった気がする。
(…わたしは、ほんとは…)
(…いていいって)
(…必要だよって…)
頬を伝う、劣等感。
(誰かに…)
(……言われたか、っただけ…)
情けないことばかりぐるぐると考えてしまう。まるで回廊の中に閉じ込められた、チィネズミのようだった。
真っ暗闇の中、切り裂くような孤独――。
――それにしても寒かった。
(…このまま凍えて…)
(それも…いいか…)
しんしんと冷えた土、冷めたい星の気配が直接体に上がってきて、体の力が抜けていくのが分かる。
こんな時誰かが、よりそって温めてくれたら…。
それは、焦がれる羨望。わたしなんかには起こりえない、絵空事に思えた。灯色が、ゆらゆらと、遠くに遠くにかすんで視えた。
考えれば考えるほど、惨めで惨めで、この世界の壁を隔てた向こう側。わたしは、ひたすら、ひとりぼっちだった。
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――気づけば遠くから、何か生き物の声のようなものが聞こえた。
≪ぽ?≫
殺されるのだろうか、それもいいかも。
≪ぽ、ぽ、ぽ?≫
なにかの…。
≪ぽぽー≫
なんだろう、この声…。どこかで聴いた…。鳥の…。
いつの間にか、ふるる、ふるると、声を震わす気配が懐らへんにあった。なんだか胸のあたりが少しだけ温まった気がする。
全てがどうでもよくて、なにもかもがどうでもよかった。きっと気のせいだろう。すこしずつ気が遠くなってきた。
かすかな意識の外、細胞の一声みたいな、耳の奥、内耳の遠く向こう側から、微かな声のようなものが、聴こえた気がした。
――声ではなかった。多分それは何かの”意思”のようなものだった。
――耳を傾け、凝らすと
≪我は……の遣い≫
≪右に剣、左に盾≫
≪一度だけ選べる≫
意味が分からなくて、わたしは、そのまま考えを放棄した。
もういい、わたしは…。眠たい…。疲れた…。
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***side”チロタ”***
真っ青青の空の下、16歳”新品の俺”と傭兵どもは、マコール海軍の帆船に詰め込まれ、駒として戦うしかなかった。
少し離れた位置で、おっさんの俺はゆらゆらしながら眺めていたが、新品の俺を見ていて、首根っこをひっつかみたくなるも、こっちの世界のものは触れねぇみてぇで、イライラするあまり、寝てしまった。
――夢の中の夢。
暗闇の中、俺はずっと手を洗っていた。洗っても洗っても、血が取れねぇ。俺は夢の中、また寝てしまった。寝りゃぁたいがいの問題は解決してるもんだ。手を洗う、とれねぇ。また寝る。
いくつの夢をまたいだ頃だろうか。俺はやおら小刀を取り出し、右腕を切り離してしまった。
―――こりゃまいったな。
左腕を、誰か、ちょんぎってはくれねぇか。もう一本、残ってんだよ。ついでにちんこも頼むわ。こんなんがあるから俺は…。
―――俺は、延々、逃げるしか、なかった。
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起きたら、なんだこりゃ、だいぶ時間が進んでるみてぇだ。
「チロタぁ。次の陸の日、さ…」マコールの虎の傭兵仲間の一人が、デッキブラシで甲板の血を落とす途中、俺に向かって”小指”を立てて、ニッと笑う。
「”買い”に行こうぜ」
「あー…」新品の俺は、テキトーに調子を合わせて、空を見上げていた。
もう”新品”とはとてもいえねぇぐらい、体中刀傷だらけになっていた。中古品か。
―――中古っていうか、”欠陥品の俺”は――
―――荒れていた。
そうだ。俺はマコール虎どもの壁役に徹することにした。何人も、海に叩き込んだ。きっと、命があれば、泳いで、逃げてくれるだろう。
俺は直接殺してない。仲間を護らないと、死んでしまうんだ。だから悪くない、悪くないんだ。そう言い聞かせるしかなかった。
―――南半球の果ての空は、すべてがめんどくせぇような気持ちとは裏腹に、スコンと、今日も晴れていた。
同僚どもは陸地に戻っては、町のオンナや娼婦を漁る。愛しい人は、みな、故郷に置いてきたからだ。
そして俺たちは――オスだった。
俺は最初抵抗があったものの、同僚どもにそそのかされるまま、いつのまにか娼婦を買うようになってしまった。オンナの肌や、匂い。やわらかさは、センソウの疲れに傷薬みてぇに染みた。
好きでもねぇオンナを抱く為だけに金で買う。俺は、その行為を軽蔑していた。していたが、次第次第、流されてしまった。俺もオスだった。
娼婦を抱いてて思うことは(愛する人が欲しい)だった。ひでぇ男だ。「それでもいいからまた買って」「一緒にいて」なんて泣かれたりもした。
俺は、戦役中、傷つけてしまったヤツらの事は、なるべく考えないようにしていた。海に戻ったら、また人が死んでいくのだ。全部抱え込んだら耐えられねぇ。家族のため、二年堪えねぇといけねんだ。俺は俺以外のヤツのことなんか考えてなかった。
大義名分をまとったゲスだ。
きっと、ゲスって自分でいっときゃ。わかってますよって顔が出来るから、ゲスだのひでぇ男だの自分で言ってるんだろう。
どこから考えれば俺は「俺が悪くなくなるのか」さっぱりわからなくなってくるんで、途中で放棄したりした。
――それだというのに、俺は何故かよく娼婦にすがりつかれた。
俺の腕をつかみ、娼婦たちはそろって「あんたが好きなの」と喚く。
(…これは”違う”)
俺は、テキトーに流しながら海に戻る。こいつらは別に俺でなくても、相手をしてくれそうな男ならなんでもいいんだとも思った。
――夜風吹きわたる甲板の上、おっさんの方の俺は”欠陥品の俺”の不実ってヤツを、まともに視ることが出来なくなっていた。
寝よう…。寝ればきっと覚める…。この悪い夢から。耳の内側で、どこかから、俺を責める俺の声。
――何、他人みてぇな面してすましてやがる。
――こいつは”俺”だろう…。
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欠陥品の俺が、 遠くに吹かれ暗い海を眺める。ぼそりと
「…愛しい人が…」「欲しーな…」
と一言呟き、小さな羅針盤で、ユーハルディアの方角を探し、目を拭った。
「家族は…」
「…マチルカは……」
「…達者でやってるかなぁ…」涙をためているみてぇだった。
――心が潮風にさらされ、ひりひりと沁みた。
――俺は、何になりたいんだろう。
貧乏で忙しすぎて、自分がやりたい事なんかなかった。働いて、汗水たらして、夢は”ラクな生活”だけだった。
俺は事あるごとにこういい聞かせた。
(しょうがない)
きっと故郷に帰れば、こんな俺でも愛しい誰かに心の底から優しく出来るはずだ。
何度か寝た娼婦が、俺が海に帰った後、自殺未遂を何度か繰り返して、行方知れずになったとあとから聞いた。それは俺が直接の原因じゃないのだ、と言い聞かせて、考えないようにした。
ハディーナ軍の鮫どもは何人、何百人、故郷に帰れず、海に沈んだことだろう。が、それは俺が直接の原因じゃないのだ、と言い聞かせて、考えないようにした。
――戦役よ早く終われ。
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――どこかの真っ暗闇の中、俺は気づけばひどく汗をかいていた。
気づけば、俺は、ごつごつと岩だらけ、真っ暗暗と絶望を押し込めたような、洞窟の中一人、突っ伏して寝てるようだった。ここはどこだ? 思い出せねぇ。何せ真っ暗だ。
そうこうしてるうち、視線の少し先、視覚えのある、スリット付きのドレス、愛嬌のあるそばかすの女が青い炎の中、ゆらり、立っていた。
(…お前は……)
遠い港町で、少しだけ心を分けてしまった娼婦だった。首にわっかの痣が何本も、絡みついていた。
――張り付いたような笑顔。
≪捨てるなら、最初から、優しくしないで≫
娼婦は、仮面のような笑顔のまま、涙を流し、俺に向かって一言吐き捨てた。
≪…偽善者。≫
俺は、でけぇ体を折りたたんで、耳を塞ぎ、声を絞り出す。
「もう勘弁してくれ…」
「お、俺は…」
――良く生きよう。
――努力だけは…したんだ…。
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