18話-「たびびとよねむれ」
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「……………………… ………い……」
「………………………………おい!」
深い暗い深海の底、ゆらり堕ちていくわたしの手を引く力強い声が遠くチカイどこかから聞こえる。
「………………… 嬢!」
――ここはどこだっけ。
目を開けると、はらはらと大きな水がこぼれてきた。これはなんだろう。雨でも降ったのだろうか。夜半過ぎの群青色の空だった。月はそろそろ 西に傾く頃。わたしはどこかの落ち葉振る木の下、硬い寝袋にくるまって、目からいっぱい水をこぼしていた。
目の前には、ぼさぼさのたてがみを逆立てて必死でわたしを呼ぶ刀傷の大男。
誰だっけ。 こんなに荒らっぽそうな風貌なのに、なんだかとても暖かだな。どうしてこの人は刀傷だらけなんだろう…?
わたしは、ここは……。そうだった、わたしにはお母さんもいない、 お父さんも帰ってこない。親友どころか友達もいない。友達もいなくて、ずっとずっとひとりで…。ここはそうだ…トオイトオイ島。野営中の森の中。苔むした岩と岩の間。どこかでサァアと水の流れる音が聞こえる。
.:。+゜
「だ、大丈夫か?」
「ひどくうなされてたから…」
刀傷の男は山みたいな体を折り曲げ、わたしの顔をおろおろしながらのぞき込んでいる。兄とかってこんな感じなのかもしれないな。お母さん以外の家族がいたことがないからよくわからないけど…。
(……きっと今は…)
(……………… 今は冒険の仲間だから…… よくしてくれる…)
わたしはきっと、ずっとこれからもひとりぼっちで、このたてがみの人も、
――――きっといつかいなくなる誰か。
☆゜:。*。
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ぐらんぐらん。頭に鉛の塊が何個も何個も詰め込まれてるように起き上がれない。寝袋の中、しばらく体をねじる。寝袋からやっと少し体を起こせるようになっても、まだ目の付近から水がこぼれ続けていた。顔の前の前がぱんぱんに熱をもって腫れてるような感触があった。
大男は少し考えて、 寝袋の横にはずしてあったベルトの小さな革鞄から、少し汚れた布きれを出してきた。わたしの目のあたりをどう触ったもんか、手をうろうろさせたあと、最後はわたしに「拭け」と渡してきた。
「装備の手入れ用のだけど…」「…こんなんしかねぇから」真剣な顔。わたしはなんとなく断れず、そのまま使ってしまった。いっぱい水が付いた。
「起こしにきたらボロボロ泣いてたから…びっくりして」
布についた液体を見る。
「……………………泣いてません」
「…………………… …水です」
はいはいと少し安堵したような顔で「なんか飲むか?」とカップを取りに立とうとしてるチロタの大きな背中をみて、わたしはどういうわけか
「……………………………待っ……… ……!」
とっさにマントの裾をつかんでしまった。ぼろぼろに焼けた裾が少し千切れてしまったので、慌てて上の方をつかみ直してしまう。
「……?…………ど…どうした?」
チロタが、わたしの頭のはるか上空で不思議そうな顔をしているのが、気配で伝わる。
「………… わ… …わからない」
顔を見合わせふたりで頭のところに山ほどハテナマークを付けた。
「……?そうか」といって、もう一回立ち上がろうとするチロタの裾をわたしはまたつかみなおしてしまった。今度はグーでつかんでしまう。立ち上がろうとするたび、マントを引っ張る。どうしてこんな邪魔な事をしてしまうんだろう。
チロタは頭をばりばりかきながら、なんなんだよなぁ、まったく。みたいにぶつぶついっている。本当にそうだ、申し開きようがない。わたしは何をしてるんだろう…。
茫然としながら何回も何回も、裾をつかみなおすわたしに「大丈夫だ、ほんの焚き木の向こうのカップを取ってくるだけだ」と。悪戦苦闘の末、やっと、やっと水を汲んできてくれた。
.:。+゜
水を飲むと確かに少し落ち着いた。
「………… …ごめんなさい。」
子守は慣れてるからいいよ、といいながら。わたしのすぐ隣に寝袋を移動させて、「ついでに子守唄でも歌ってやろうか~?」ニッと笑って、寝袋をぽんぽんと叩いた。
「…………お… お願いします…。」
「!?………ど、うし……」
――何故だかそのまま正直にいってしまった。
チロタは目玉が5回ぐらい落ちて、また落とすだろうからもうそのまま目玉を手に持ってた方が早いような顔をしたあと、しょうがねぇなぁともそり呟き、ふふっと笑った。そうこうしてるうちに、目からまた大きな水がこぼれてくる。
.:。+゜
――森のどこかからトーポポルル。トーポポルル …ヤマセンドウたちの輪唱が聴こえる。
グース群島でもたまに聴ける声だけど、輪唱の状態は初めて聴いた。色彩の美しい島にしか生息しない不思議な鳥なのだけど、トオイトオイ島の色たちが、彩神さまとヤマセンドウに護られているのがよく分かる。
野営地のまあるい陣の木の下。遠くひらけた群青の空、漆黒の森が縁取っていた。頭上に大きく羽ペン座が瞬く。
*.
――月はもう空から帰り支度をはじめているころだった。
顔がよく見える様にカンテラを枕元によせて、チロタはわたしの寝袋にもう一枚毛布を多めにかぶせてくれた。
――ねむれ↑まよ↓いご↑ 月に星に→…
彼は音程をとるのが若干。いや、だいぶ、いや、ひどく、苦手なようだった。ちょっと笑いそうになるのをこらえる、一生懸命歌ってくれてるのだから、命をかけてでも笑っちゃだめだ。
チロタは一節だけ歌ったあと、「あのな…」
「そ…そこは笑えよ!」「…いいから笑えよ!」
寝袋の向こう側、多分赤くなってるのだろう。熱気まで伝わる。恐る恐る寝袋から顔を出すと、まるで地獄の温泉のようだった。 もしかして笑いそうになってるのがばれてるのだろうか。
「俺はこーゆーとき笑ってもらった方がラクなんだよ!合わせろ!」
バサバサと鳥たちが木立の中逃げだす音が聞こえる。
どうしよう。こういう時どうすればいいんだろう。わたしだったら、笑われたら傷つくし、笑って下さいとこちらから話をしたとしても、一人になるとどうしても思い出して気分が悪くなる…。
「………………いえ…」「信条に…反しますので」
このやろ、みたいな感じで最後は頬を軽くつねられてしまった。申し訳なかった…。
――16面鳥も 町長さんも、よいこも兄さんも
リーリーリーコロ。トーポポルル…。秋の4重奏。どこかの王様でも来島するから夜通し演奏の練習でもしてるみたいな自然達の唄に、チロタの不思議な音階の子守唄が加わる。
どこかの故郷の子守唄。夜風にゆれて小さくはぜて消えていく。 ほんとは長調なのだろうけど、チロタが歌うと無駄に不安を煽るような悲しげな音階に聴こえる。
―― みんな海から還ってねむれ
音痴を気にしてるのに、それでも歌ってくれてるんだな。
――みちはつづくよ、ねむれよねむれ
笑いたい気持ちは、いつの間にか闇に紛れて飛んで行ってしまったみたいだ。
☆゜:。*。
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二人で空を仰ぎながら、とつとつとチロタは昔話をしはじめた。
「うちは、貧しくて」
裕福な家庭ではなく、学もなく、妹をいい学校に通わせるために傭兵に志願したこと。色々あって傭兵をやめたあと、旅をしながら体力仕事を転々としていただけで、特に叶えたい夢のない人生だったこと。
「妹にさ、羅針盤のペンダント、ほんとはあげたかったんだ」
「…舟守の」「どんぐりのやつ」「あれ、ちいさい子に人気あるだろ」
夜露で鼻先が冷たく湿気てる。
「はっは…世話ねぇよなぁ」
なんとなくチロタの様子が気になって、寝袋から顔を起こした。山みたいな背中がやけに小さく見えたような気がした。わたしは、どうしていいか分からず、思ったことをそのまま伝えることにした。
「…… ……事情 …よくわからないですけど」
「あなたは、多分…”生活”を…護ったんだと…」
「…思います」
わからないけど、そんな感じがした。チロタは背中をむけたまま、黙りこんで、黙りこんで…しばらくののち、そうだったらいいな。と低くぼそりと返した。
「余裕が出来たら、読み書きからやってみますか…?」
「わたし、教えきれるので」
チロタは、銀の空に目を向け、そのまま星空をふーっと払いのけるように、軽く笑った。「…いつかお願いしようかな」
なんだかヘンな手ごたえだ。わたしは何かおかしな事を言ってしまったんだろうか。こういう時どうすればよかったんだろう。
――チロタは何が目当てで智慧のカシを目指すのだろう。
「ありがとうな。その…」
上半身をおこし、目をそらしながら頭をかいて。
「…なんか、あんたがそんなに素直だと、調子狂っちまう」
――そういえば、そうだったな…。
「………じゃあ、元に戻します…」ふたたび殻にこもろうとするわたしを、チロタは慌てて大声で悲しげな子守唄を歌って阻止した。
☆゜:。*。
いつの間にかどんな夢を見ていたか、忘れてしまった。
なにか、大切な大切な、誰かの夢だったのは覚えてるのだけど、大怪我が応急処置でそのまま治った気がしてしまったような感じだ。「…なんだっけ…」思い出そうとすると、心の奥で何かがずくんと蠢く。鍵の壊れた、壊してしまった宝箱。
(仕事を完遂するまでは、考えない……)
わたしは起き上がってザックの中の薬瓶を確認する。何の変哲もない茶色の薬瓶、青のインキで、はがれかけのラベルにかすれて読めない護符が描いてある。振ると、中で少量の液体が揺れる感触があった。
――これを自分の力で届けないと――
――わたしは多分もう生きてる価値がないのだ――
何故だかそう思った。
明日は、島の外側東回りで孵ノ鉱窟の入口までが行軍だ。ルートの中に足場が悪い湿地帯がある、しっかり食べてからいかないと。
そういえば孵ノ鉱窟での行軍を、チロタはちゃんと把握してるのだろうか。出発前にだいぶ話して聞かせたのに、いまいち分かってなさそうだった。
――チロタの妹さんは、故郷で元気に暮らせているのだろうか。
眠りに落ちる前、ふと、そんなようなことが頭をかすめて、泡になって弾けて飛んだ。
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