17話‐「水面《みなも》は遠く」
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――ここはどこだ?
寝てた気がするんだけど、ここはどこだ、気づけばさかさまも天も地もない、柔らかい象牙色の空間に浮かんでいた。
遠くには藤紫のかすかな光が視える、月白の靄が藍緑と共に遠のき。近づいてはゆらめく。わたしは重力の安定のさせ方もわからず、なすがまま、ゆっくり、ふんわりと、浮かんでいた。
(この風景はどこかで…)
目を細めるたび光は屈折し、色が、世界が揺れる、ゆらら、りらら。まるで淡箔石の指輪の中にいるみたいだった。 小さなころお母さんにばれないように、戸棚からこっそり出して指にはめて遊んだっけ。
―――チカチカチカ。
象牙の靄の向こう側に黄色の点滅。
菜の花。蒲公英。山吹。藤黄。花葉色。まるで咲いたみたいに笑う、この瞬き。
懐かしい親友の”唄”だった。
「…ジルバ!」
優しい瞬きは、わたしの鼻先にとまったあと、くるくると私の周りを旋回した。
ザァ…ふいに前方から、わたしのうっとおしい前髪をわけて、 気持ちのいい風が吹いた。
髪がそよぐほどに視界は晴れ、わたしたちはいつの間にか、遠い紺碧の空。どこかの島の岬で海を見渡しながら、”赤い落葉”大きな大きな 木の下、澄んだ風に吹かれていた。
「…どこに行ってたの?探したんだよ」
―――チカチカチカ。
≪ちょっと”遠く”まで…≫
―――チカチカチカ。
≪ごめんね≫
わたしの心なしか疲弊した様子を察してか、すぐさまジルバは大きな海の色に光りわたしを包んでくれた。ああ、これだ、心が帰ってくる。そうだ、そうだよ、わたしは、ひとりぼっちなんかじゃなかった。
風が吹くたび頭上から、はらりはらり、緋色や山吹色に染まった、宝物みたいな葉が次々落ちてくるので、つい空中で軽く拾おうとしてしまう。
「やっとふたりで”赤い葉っぱの木”が観れたね」
―――チカチカチカ。≪きれいだねぇ…≫
顔を見合せて同時に笑う。夢がかなった瞬間。
「でもさ…”秋”って、もったいないね」
―――チカチカチカ。≪どうして?≫ 不思議そうに光る。
わたしはすかさず熱弁を振るう。
「だってこんな綺麗な葉っぱ、あの手この手で全部取っておきたくない?」
「箱にも入り切れないし、どこかに飾り付けるにしても、限界があるし…」
手の中にある一番色味が好きな落ち葉を選び、ポンチョの奥ポケットに入れて持って帰ろうとすると、すでにカラカラに色が変わった他の枯れ葉の粉らしきナニカがわっさわっさ出てきて、びっくりしてしまう。
「……あれっ…」
「……そうか、モカモイ島の落ち葉も拾ってたんだった…」
「………真っ黒だ…」
手の間から粉々になった葉が風に乗って星に還っていく。
「一番もったいない事をしてしまった…」
――― ―――――チカチカチカ。*.しばらくののち 弾けるような黄色の点滅。大笑いされてしまった。
「もうーー。わたしは真剣なんだよー」くるくると軽く追いかけまわす。結局二人で葉っぱに同時に謝って、顔をもう一回見合せ、寝転がって一緒に笑う。
思い出した、わたしはジルバには笑われても平気なんだった。そりゃあ軽く傷つくけれども…。わたしはジルバにだけは安心して文句が言えるし、伝わらなかったら喧嘩すればいい。そしていつだって最後は一緒になって笑うんだ。
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潮風を嗅ぎながら、見上げる木漏れ日の遠い彼方、流れる雲が視える。
「…ジルバがいなくなってから、色々なこと、あったよ」
わたしは、とつとつと話し始める。
今まで陸地を歩く時、ジルバに頼り切りだったこと。久しぶりにニンゲンと一緒に行動しないと行けなくて戸惑っていること。チロタが乳製品ばかり食べること。どう反応すればいいか分からないことが多くて、つい怒ってしまうこと。
ジルバはチカチカと黄色く瞬いて嬉しそうに笑いながら
≪大丈夫、大丈夫≫
―――誰かに言ってもらえると、ほっとするな…。
長らく忘れていた安らぎの瞬間。
(………)
わたしは、つい口に出して《確認》したくなった。
「ジルバ…」
「えっと、えっとね」
「しばらく大きいのも一緒になっちゃうけど」
「…この人は多分冒険が終わるまでだから」
「また。一緒に暮らせるんだよね…?」
――何故だか一斉にセカイ中が色あせたように感じた。まるで示し合わせたように。
(あれ…?)
――眼下に広がっていた輝く白鉱岩の岬が、土塊をぼてぼてと練り合わせたヘタな粘土細工に視える、カタチは変わってないみたいなのに、何回もまばたきして確かめてしまった。
ジルバは瞬きを返さない。
――空は、青いはずなのに、目を凝らしても わからない。雲も視えてる気がするけど、白ってこんな色だっけ?おかしいな、セカイってこんなだったかな?
わたしは少し焦りながら続けた。
「…そうだった」「あ、あのね」 「わたし、うっかりしてて」
「…先に謝ってからだよね」
「もう一回あえたら、わ、わたし、ずっと謝りたくて」
――雲が遠くでちぎれて、千切れて。うぞうぞとそのまま渦を巻き始めた。崩れそうな色で。
「わ、わたし、あ、あの時、怒鳴ったりして、ごめんね」
「嵐で、しょうがなくて…」
「そもそもわたしが、軽はずみにこんな依頼受けたから…」
心のもやも渦を巻いて鉛の結晶に形をかえ、矢継ぎ早、胸をせいてでてくる。こんなこと言いたかったわけじゃないのに、次々と言い訳が始まった。
「そもそも、ほんとに、カシの木って枯れそうなのかな?!」
「嘘だったんじゃないかなって、今更」
「しかもこんなに遅れちゃって…」
「でも、頑張ってこれだったから…」
もつれながら、澱みを吐く。腹から上がってきたカタマリが口を開く都度、臭気を放ち、ごとり、ごとりと。おかしいな。目の前のジルバがまるで空洞に見える。北西の方角からわたしを煽るように強めの風。いつの間にか足が震えてきて、たまらなくなって小瓶のペンダントを握る。
「こんなことなら」
「ジルバを一番に想って、こんな依頼、断ればよかったって…」
「こ、後悔してる」
「ごめん、ごめんね」
ジルバはずっと黙っている。ズボンの内側で後ろ腿に汗がつたって落ちているのが分かる。
「ここに、ジルバの家を作ったんだよ」
「いつでも帰っておいでよ」
―――赦してくれるなら。
「ま、また一緒に、二人で笑って暮らそうよ」
ザァーー。突風で髪が乱れ、翠色のポンチョが風に踊り、丈夫な山用の皮靴が覗いた。
「風が出てきたね」
ざんざと風が樹を囃す。 生暖かい独特のしけった風が鼻先に届く。この風はまずい、――雨雲を連れている…!しかも大量に…!
いつも腰につけてたジルバのベッドの革袋が探っても探っても見つからないので、大至急でジルバの家の入口のコルクを抜く。
「ジルバ!」「入って!」
――動かない。
「体に障るから早く入って!」
「早く!」
わたしは、またイライラとした声で叫ぶ。
ふいにジルバが風上の方に駆け出す、だめだ、そっちは岬だ。そっちは海だ。そっちにいったら黄を吸われてしまう。そっちには、嵐がいるんだ、待って、待ってよ。あなたがそっちにいったら、またわたしは…。
「だめだ、そっちは…」
向い風が吹くたびに翠の光が散って、枯れていく。
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突如として荒れた波しぶきが頭上を覆う。いつの間にかここは嵐の夜。ゴース・ゴーズの鱗だまり。わたしは煙墨竜との一騎打ち、禍の塊みたいな暴風雨に煽られ、舵にしがみつき。恐怖で気がふれそうになっていた。
ジルバが、この嵐の中大きく青翠に光ったあと粉々に砕けてわたしの周りを舞ってるのが目を開けなくても視える。
――そうだ、この粉を一片でも助けることが出来れば…。
(………………………っ…!…?)
おかしいな、声が出ない。
――気づけば、 口が釘と針金で乱雑に縫い縮められていた。
混乱が襲い掛かる。刹那、突風は闇となって、甲板の釘や板、木っ端とともにわたしのほそっこい体を巻き上げ、はるか上空におしあげ、海面に叩きつけた。
沈む寸でのこと、わたしは、小さな小さな粉々のひとつの”光”を握り込んだ。今度こそ決して離さないよう、握り込んだまま、海底へと沈んでいった。
(今度こそ…護る…)
落ちる、落ちる。沈む…。無数の気泡を纏い。わたしは沈む、希望の種を体ごと抱え込んで、握りしめ。
わたしがここで、手足をばたつかせ、自分だけ助かろうと、もがいてしまったら、もう二度とジルバは戻ってこない。絶対絶対もがくものか。
そうだ大切なものは、この身をかけて護るんだ。
壊れないよう、踏み荒らされないよう、力の限り、守って護って。
やっと信じ続けることが出来るのだから――
このまま沈んでしまって、沈んだあとに考えよう。わたしはきっと大丈夫。沈む…沈む…。海面から離れるごと、水温はじわり、体温を奪い始める。
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泡の中、異国の少女からの依頼。 耳の奥で封をされた、疼くように魅力的な報酬の話が聴こえる。
≪ 報酬は、小さいようで、大きい…≫
今度は耳の奥、どこかから、言い訳じみた独白が聴こえる。
*―わたしには、カシの木に、薬瓶を届ける、大きな任務があったのだ―*
これは、そうだ、鉛の独白。エゴ。利己。綺麗事。
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――この依頼をのんだら枯れそうだ。――
――”《わかっていた》”のに出発した。――
気づけば、水面ははるか頭上。そうだ、今は”信じる”を護る途中だ。気を散らしてる場合じゃない。
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早く水面に戻らなきゃ。 こんなでどうやったら、ジルバを”殺さずに”済むのだろう。これじゃあ依怙地になってるだけじゃないか、
殺さずに――――― ―。
船底からはがれる澱になって。ゆらゆらり。体の輪郭がはがれて海底に降り積もる
少しずつはがれて、そがれて。すっかり白い澱みに溶けてしまったわたしは、気づけば”手のひら”なんか消えてなくなっていた。
殺さずに―――――― ―― ―?
冷たい海の底。碧く、暗く。もう何の跡形も見当たらない。仰ぐと遠い空に浮かぶ水面。ゆらりゆら、水底にひらめいては堕ちる。水面は遠く、遠かった。
――――――― わたしが、殺した。
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