12話‐「碧雁《へきがん》」
*.
ここはどこだ。
――気づけば、目の前に、板張りの三角の天井。
「……ああ…」
モカモイ島の宿屋の屋根裏部屋だった。
膿でぱんぱんになったような頭を起こす。生あくびと一緒に顔がばりばりとひきつって、もちあがる。
(……?)
気づけば目のあたりからいっぱい水がこぼれていた。きっと顔に雨漏りでもたれたんだろう。…まぁいいや。
ジルバ号の修繕費が予想外の出費だったため、安い宿に頼みこんで、雑用や調理。宿の飲み屋で給仕をする代わりに、寝床を貸してもらうことになった。わたしの人生はこんなのばっかりだ。
料理が出来てよかった。鍛えてきたスキルのおかげでなんどとなく助けられた。狭い宿の食事処。朝から飲んでる客もいる中、わたしは、樽で出来たテーブルの隙間をすりぬけ、焼けたパンやコハクモドキを運ぶ。
丈の長いエプロンと、ぼわっとした黒い長いスカートの制服。空いた胸のあたりはすかすかだったので、軽く縫い縮めてしまった。どうして性別を押し出さないとこういう仕事はさせてもらえないのだろう。
「………………………… ……………。………・…………… …… …………… ………………… …………………… ……… いらっ…しゃいませ……」
「な…なんだぁ?葬式でもやってんのか?」筋骨隆々の中年男性にさっそくどやされる。
「おい女、ホウホウ焼きが何時まで経ってもこねぇぞ」
「…………………… それは大変ですね……」
――――――――――客商売は、大の苦手だった。
「…… …… … お待たせしました………… 」
厨房に帰ると毎回、もっと愛想よくしろとどやされる。
舟守も客商売だけど、舟守がきっちりしていれば9割仕事が出来る人とみなされるのに対し、飲食店は、柔軟じゃないと仕事が出来る人にならない。これでは追い出されてしまう。厨房に入りっぱなしでいいならなんとかなるのに。どう対応すればいいか分からないからこうなってしまう。
「そこのシケた面ーー…タロギ5本!」
「…… …… それは … … 失礼いたしました…… … 」
(舟の修理があと18日ぐらい)
その他大勢である男どもに多少どやされたところで、困ったことに特に心に届かない…。
「あれ、お嬢ちゃん?」
「…………申し訳ございません………」
(出立の目標は急いでも3週間後…)
「俺だ!俺だよ!」
「…… …… はい。貴殿ですね…… 貴殿…。」
(明日はちょっと空くから、図書館に…)
……―…。――………―い―…――……―…。おい…―…。
「おい!」
気づくと私は店の中で派手に転んでいた。いつ転んだんだろう。店のどこかから、辛気臭せぇなぁ。みたいな野次が聞こえる。割れ物をもってなくてよかった。
「舟守ちゃん、何やってんの」
客の一人がぽかんとした顔をしながら助け起こしに来る。
――誰だろう。
手を払いながら、わたしは、少し目が覚めた。賃金をいただくのだから、少しはやる気を見せないとだめだろう…。
「…あ、あの…」
「……も、申し訳ありませんでした… 」
心をこめておじぎをする。何故かお客様たちは、わたしを見て一斉にわらいはじめた。よくわからないけど、どうやら挙動がおかしかったようだ。真剣に対応したことを笑われることが多く、毎回心のどこかにもやを抱える。面白いことを意図的にしてる人を笑えばいいのに…。
さっきの人が、満面の笑みでわたしの頭を触ろうとし出したので、お盆でガードし「失礼致します」と後にした。
この馴れ馴れしいぼさぼさの刀傷の大男はわたしが厨房から出てくるたびに「俺だよ俺」「冷たいなぁ」「毛布ありがとう」みたいなことを、毎回言ってくる。
(毛布…)
そういえば”大きな船”に乗ってた乗組員ABCあたりの人にこんな刀傷の人がいた気がする。
刀傷の乗組員Bあたりの人は、夜も来て、ねばってねばって”チロタ”とよれよれの字で書いた紙きれを渡して帰って行った。
(暇なんだろうな…)
名前だろうか、
(図体に似合わずえらく可愛い名前だな…)まぁBでいいやと思った。
*.
****
宿の給仕がひと段落して、へとへとになりながらの散策。藍の夜風がガチガチになっていた頭と体を優しく包んでくれた。
(潮の匂いはこっちの方…)
坂の下に海岸林、楕円の樹影がつらなって見える。エンノポプラだろうか。町を抜け、閑散とした角に看板が立ってる。「南塩ヶ海」。あと1カロンぐらいのところだ。
モカモイ島の浜辺は、プロポーズに使われることも多い、美しい名所だと、どこかで聞いたような気がして、一度は見に行っておこうと思っていたのだ。
(今日はだめだったな…)
頭の中で、反省会が始まる。修理代を捻出する前に追い出されては本も子もない。こういう仕事は持ち回りですぐ噂が広がる。ひとつの職場を追い出されたら、次拾って下さる職場はもっと限られてしまう。なにより、賃金が発生してるのだ、出来うる限り丁寧に対応しなくてはいけなかった。
舟守も給仕も同じだ。 そういうのが”仕事”というやつだ。
(……明日からせめて)
(…大きな声を出そう…)
青褐の空、白磁の小さな月。一面粉砂糖みたいに星空がまぶっていた。
≪あなたになら、この薬瓶を託せそう≫
思い起こしすぎてすっかり頭にこびりついた、異国の少女の声が耳の奥に響く。
(…わたしは、どうして…)
(…こんなとこまで来ちゃったんだろう…)
心のどこかに瞬く、”その時は魅力的だと思っていた報酬”。もう思い出せない出立動機。同時にチカチカと目の裏に蘇る、暖かな翠――。
言い聞かせるように声に出す。
「し、仕事で来た…んでしょう」
助けを求める様に、風を嗅ぐ。この辺の風は本当にすらりとしている。
空の匂い、潮の瞬き。自然を感じるときだけは、わたしは、ひとりぼっちじゃなかった。砂の混ざった下り坂、水平線が見える。濃藍の海岸線が眼下に広がる、坂と浜の境界線をいつの間にか超え、もうそこは海だった。
(…潮風を嗅ぐと落ち着くな…)
スン、と潮を鼻先でよっていく。風を読み、頭の中で、特に向かう予定のない航路を空想し、即座に進行を組み立てる。今日は南西周りの方が、早く帆が走りそうだ。舟守たちは今日何通、大切な家族への小包や、ラブレターを届けたのだろう。
「……あ」
風向きが変わり、海からの風がわたしのほほを撫ぜる。立ち止まり、しばし目を瞑る。雲間の月を感じて。
チカチカチカ…。
ふいにまぶたの上に『翠の瞬き』を感じて、ハッと目を開ける。この青翠…!瞬きは即座に耳の横をすりぬけ、後ろに流れて逃げている途中だった。
チカチカチカ…。
この光り方は……。
「ジルバ!?」
月明かりの浜の中、視線の先。 小さな碧い風が走る。…碧…青翠の返事。これは……≪そうだよ≫だ!
「ジルバ!」「ジルバーーー!」
心のなかがぐんぐん琥珀で満たされるようだ。胸いっぱいの黄色の光。胸に小瓶のペンダントがきらり、揺れる。握りしめて走る。なんだ、どこかに隠れてたんだ。
「心配したんだよ!?」「どこにいたんだよーー!」
わたしだよ。待って。わたしだよ。まるでひんやりと冷たい洞窟の中、誰かに手を差し伸べられた気持ち。走る。走る。慌ててあとを追いかける。砂に足をとられて蹴散らしながら追う。砂ははじけ、足元で砕けていく。
「おーーい!ジルバー――!?こっち。こっちー」
小さな風とともにわたしも走る。なんだ、枯れてなかったんだ。よかった。どこにいたんだろう?とにかく捕まえなきゃ。
チカチカチカ…。
追えば追うほどどんどん走る、逃げる、島の内側へ。どうしたんだろう、わたしのこと、忘れちゃったのかな…。
「ジル…」
ぶぉり。後ろから首筋を蹴るような突風。
チカチカチカ…。
チカチカチカ…。
チカチカチカ…。
突如大量の瞬きがわたしを包む。まるで碧い銀河の渦の中だった。
「………あ……」
チ…カチ…カチカ…。
チカチ…カチ…カ…。
チ…カチカ…。
大風とともにたくさんの碧い光がわたしの横顔を弾むようにすり抜け、島の方角、闇の中、吸い込まれていく。
(……これ…)
これは…。
囃すような、光の大群。わたしは、よたり、走るのをやめた。
*******************************
”――モカモイ島には、月夜に出現する”名物”があった。――”
―南塩ヶ海の砂に含まれる細かな鉱物。碧雁が風に乗って、月光に反射するため、月の夜の海からの風は碧く光るそうだ。
*******************************
光の演舞は、遠くの浜辺の恋人たちを、どこまでも祝福していた。
「……………… …………………… そ……………そうだよね」
「……………… わ……わたし……」
――妙に月との距離を感じる夜だった。
「…ムシがいいなぁ…。」
ははは。乾いた笑い。
――セカイとわたしには、もともと分厚い壁があった。
「………………… …………………」
――「――ミカダさんちの娘さんは大丈夫か」
あたまのとこでくるくるというジェスチャー。
「…………… … …………………」
――そういえば、子供のころから壁を隔てた”向こう側”にいたんだっけ。
そんなことを今更思い出していた。
(…目の前の責務を果たそう……)
わたしは、心をどこかに埋めて、視えないところに押し込んだ。空洞の心を何重にもくるんで、しばらく取り出さなくていいように、荒れた花壇に埋めてしまった。
もしかしたら、「ジルバ」なんて親友、わたしにはもともと…―――。
月は遠く、遠すぎて、手を伸ばしたところで、わたしの手が届くわけが、なかった。
****
*.