青い月の夜に青色のカクテルを君に捧げる
こんなはずではなかったんだ…。
一週間前、僕たちは本当につまらないことでケンカをしてしまった。悪いのはきっと僕の方なんだ。いつもそうだ。彼女には何も悪い所なんかないんだ。そして、僕はただ一人のかけがえのない人を失った。
僕たちはいつものように一緒に食事をしていた。彼女は幸せそうに目の前に置かれた料理を頬張っている。僕はそんな彼女の顔をただ眺めている。そんな僕に気付いて彼女が言った。
「トシさんは食べないんですか?」
「みぃこと一緒に居られるだけで僕は幸せだよ」
「答えになってないよ」
「幸せな気分でいるときはお腹なんか空かないんだよ」
「便利なお腹ね。私は幸せでもお腹が空くの。ねえ、これも頼んでいい?」
そう言って彼女はメニューの写真を指差して甘えるように僕の方を見た。こんな顔を見せられたら、料理の一つや二つなんということも無い。なんなら、月だって掴まえてくるよ。
「いいよ。好きなものを好きなだけ頼めばいいよ」
「やった!」
こんな時、彼女はまるで子供の様な笑顔を僕にくれる。これでまた僕のお腹がふくれる。
店を出ると雨だった。目の前にコンビニがあった。
「ちょっと待ってて。傘を買ってくるよ」
駆け出そうとした僕の腕を彼女が掴んだ。
「もったいないから駅まで走りましょう」
そう言って彼女は僕の腕を引っ張って走り出した。ほんの数十秒、彼女のきれいな長い髪が雨に濡れた。電車に乗ると彼女は僕にもたれかかって上目遣いで僕を見る。僕は彼女をそっと抱き寄せた。濡れた髪から雨の臭いとシャンプーの香りが漂ってきた。
「お腹いっぱいで眠くなったかな?」
「うん、ちょっと」
「着いたらタクシーで帰ろう。家まで送るよ」
いつの間にか彼女は眼を閉じていた。
電車を降りた時、雨は既に止んでいた。僕がタクシー乗り場の方へ向かおうとすると、彼女は再び僕の腕を掴んだ。
「歩いて行こう」
「疲れてない?」
「大丈夫」
僕たちは歩いた。歩きながら色んな話をした。そして、あっという間に彼女のマンションに着いた。
「今日はご馳走様でした」
「僕の方こそ、みぃこと居られて嬉しかったよ」
「トシさんはいつもそう言うのね」
「本当にそう思うから…。ねえ、お休みのキス…」
「ごめんなさい…。誰かに見られたらいやだから」
彼女は申し訳なさそうに俯いた。でも、僕はそんな彼女を引きよせた。
「ダメ…」
僕はかまわずに彼女にキスをした。彼女は僕を突き放した。
「ごめんなさい。今日はありがとうございました。お休みなさい」
そう言って彼女はマンションのエントランスへ駆け込んだ。残された僕はキスの余韻に浸るどころか、激しい罪悪感に体が震えた。
翌日、僕はメールで昨夜のことを謝った。けれど、彼女からの返信はなかった。電話を掛けても彼女は出てくれなかった。
その次の日、駅から出て来た彼女を見かけた。僕は思わず足を速めて彼女に近づこうとした。けれど、すぐに足を止めて僕は物陰に身を隠した。彼女が僕ではない別の男と一緒に居たからだ。何を話しているのか判らないけれど、彼女は楽しそうに笑っていた。こんなことはしたくなかったのだけれど、僕は二人の後を追った。二人は彼女のマンションへ入って行った。僕の中に失意と怒りがこみ上げて来た。気が付いた時には僕は彼女宛てにメールを飛ばしていた。
『部屋に呼ぶような男がいるのに今まで僕にかまってくれてありがとう。どうかお幸せに』
なんてひどい内容なんだろう。でも、飛ばした文字はもう戻っては来ない。きっと彼女も…。
仕事のトラブルで休日出勤をした僕はへとへとになって帰って来た。何の楽しみも無い部屋に戻ってただ眠るだけの時間が恨めしかった。僕は俯いてただ歩いた。
「こんばんは」
そんな声が聞こえた。ふと顔をあげると彼女が居た。
「お仕事だったんですか?」
「さやかさんはデートの帰りですか?」
つい、口を付いて出た言葉がこれか…。自分でもうんざりした。さっさとこの場を離れたい。僕は逃げるように彼女のそばを離れようとした。すると、彼女は僕を追って来て僕の腕を掴んだ。彼女は笑っている。残念だけど、その笑顔は相変わらず可愛らしい。けれど、今の僕には残酷な笑顔だった。
「ねえ、月がとてもきれいよ」
彼女はそんな僕にかまわず言った。僕は彼女に促されるように空を見上げた。本当にきれいな月だった。
「兄が結婚するの」
「えっ?」
「結婚式で流すスライド映像に使うからってアルバムを取りに来たの。子供の頃のアルバムは私が全部持って来ちゃったから」
「じゃあ…」
「そうよ」
勘違いも甚だしい。僕が見たのは彼女のお兄さんだった。それを僕は勝手に彼氏だと思い込んでいた。そして、あんなメールを…。
「あっ!」
「どうしたの?」
「ごめん、あんなメールしちゃって。ごめん…」
「あら、どうして謝るの?トシさんのメールの通りなのに」
「えっ?」
「だって、部屋に呼ぶ男の人も居るし、幸せになるし。まあ、相手はその男の人ではないですけどね。兄だし」
「じゃあ、誰?」
「何を言ってるんだか。私の目の前に居る人よ」
うろたえる僕に彼女は飛びついて来た。そして、そっと唇を重ねた。そんな二人を青く輝く月が照らしていた。
彼女が初めて僕の部屋に来た。ブルームンの夜に僕は彼女と仲直りすることが出来た。この先きっとまたケンカをすることがあるかもしれない。けれど、僕はもう彼女を一生離さない。
シェイカーにドライジンとヴァイオレットリキュール、レモンジュースを注いでシェイクする。カクテルグラスに注がれた青いカクテルの名は“ブルームーン”そのカクテルには『叶わぬ恋』という意味がある。そして、正反対の『完全な愛』と言う意味も併せ持つ。
僕は彼女の前にその悩ましい液体が入ったカクテルグラスを差し出した。
「わあ!きれいな色…」
彼女はそのカクテルの意味を知ってか知らずかグラスを掲げてしばらく眺めていた。そして、唐突に僕の顔を見つめて言った。
「ねえ、前から聞こうと思っていたんだけど、トシさんはどうして私のことをみぃこと呼ぶの?私の名前はさやかなのに」
「子猫みたいに可愛いから」
「子猫なの?」
「そうだよ。みぃこは本当に可愛いもの」
「ふーん…」
納得したのかどうかは判らない。そして、彼女はカクテルグラスを口に運んだ。
そう。確かに彼女は子猫みたいに可愛い。でも、それだけじゃない。いい加減な僕が僕なりに決めていることが一つだけある。それが女の子のことを呼ぶときのルールだ。みぃこと呼ぶのは世界でいちばん好きな女の子ただ一人。それが君なんだ。