第二話 腕
徐の道案内は無論、途中までの約束だったが、曇天の下、茂る林木と蝉の声に囲われて、進むごとに馬飼いの顔は汗ばみ、不安の色が濃くなっていく。
「どうもおかしい……一旦引き返しましょう」
いつもの標にたどり着かないらしい。しかし下ってみたが、今度は行けども視界は開けず、里の見えてくる様子がなかった。
「戻れません、こんなことは初めてです」声を震わせる若者へ、
「仕方ありません、進みましょう。おそらく向こうも警戒しているのです」
仔骨は穏やかな声で応じる。徐は心強く思ったが、しかしその鋭くもどこか冷えた眼に、どういうわけか、寒気のようなものも同じく感じた。
やがて登った先に開けた場所が現れ、
「ここで待ってみましょう」
と、仔骨が背の物を下ろすと、やむなく徐も従い、下山を急ぐためであった馬を、近くの桑木につないだ。
空には変わらず濃い雲が垂れ込め、薄暗い山林のなか、焚火を起こし、これを挟んで二人は腰を落ち着けた。
仔骨は剣を抜き身にすると、燃え盛る炎の側へ三本とも突き立てる。いつしか蝉の声も失せ、しんとした空気に、徐は不安で堪らなくなった。
「やはりもう一度山を下り……」
思わず言いかけたが、愛馬のいななきがこれを掻き消した。途端、冷たい風が来て、辺りを見る間に闇が覆い、炎と木々が斜めにゆれ始めた。
暴暴と力増していく風に、徐が顔を隠しながら首を向けると、馬は悲痛な声を上げ、その身はすでに、後ろの何者かに半ばまで呑み込まれている。やがて鼻先をも見えなくなると、恐ろしさに、徐は歯の根を打ち鳴らし、叫ぶことすら出来ない。
「風上で火を守り、そこから動かぬよう」
落ち着いた声に、徐が跳び上がって従うと、仔骨は剣を二本取り、これを左右の手に構えた。
木々の間より長いものが伸びてくる。灰色の太い腕が二本、一つの先には人のような手、もう一方には鋭い爪の獣の足がある。仔骨は踏み込み、獣足の方を斬り上げた。
オオオオオオオオオッ……
複数、重なったような咆哮が、林の向こうより響いてきた。闇の中、冬瓜ほどの光が六つ、爛々と輝いている。
灰色の手が、断たれた方の腕を拾い上げ、元にくっつけるかのような仕草をする。
「無理だ。熱した鉄で斬られては、戻しようがあるまい――」
言い放つと、仔骨は更に踏み入り、今度は人の手の方を斬りはねる。
再び咆える声がして、これには強い怒りが含まれていた。四方の闇より、人と獣と禽の指を生やした八本の腕が、一度に襲い来た。
仔骨は舞うようにしてこれらをかわすと、一足に跳び、頭上遥か高い桑の枝へ、赤烏の如く乗り着ける。
「こっちだ」
挑発の声に、向かってきた二本の腕を、枝より落下する中途で切断し、更に着地に四本を素早く断つ。そして振りかぶり、双剣を六つの光へ投げつけると、凄まじい苦痛の声が上がった。地を蹴り、火の近くを駆け抜けざま、仔骨は最後の剣を抜く。
走る正面から来た二本の腕を、下げた姿勢でかわし、一振りでこれらを断ち切ると、剣を光の中心へ飛ばす。
雷轟のような悲鳴が一帯を裂き、徐は耳を押さえ地へ伏せた。
それから、どれくらい時が経ったか、気が付くと、荒れ響いていた風は止み、辺りには茜の色が落ちている。伏せたまま、暮れゆく空を見上げると、日に陰った仔骨の顔が覗いた。
「終わりました」
「化物は……?」
ふらつきながら徐が立ち上がると、仔骨は招くように林の方へ行く。その先に、見たこともない形が転がっていた。
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