第九十話「心の余裕」
前半がバーバラの一人称、後半が三人称です。
四月十二日。
私、バーバラ・ハーディングはザカライアス・ロックハート様からの面会のお申し出を受け、年甲斐もなくときめいています。
あの方への思慕の念は封印したつもりでしたが、やはりお会いすると湧き上がってしまいます。
まだ女性として枯れていないのだと安堵するのですが、いつまでも諦めきれない自分が情けなくもありました。
もっとも私の思いなどとは関係なく、ザカライアス様は侍女長としての私に用事があるだけでしょうが。
ザカライアス様は朝食後に侍女長の執務室に来られます。御舘様の朝食の給仕をした後、急いで部屋に戻りました。
鏡の前で身だしなみを整えたところで、ドアがノックされます。
「ザカライアス・ロックハートです」
間に合ったと安堵しながらも声は冷静に聞こえるようやや低く落とし、「どうぞ」と声を掛け、ドアを開けます。
そこには昨年より少し大人の男性になられたザカライアス様が立っておられました。
いつも通り黒一色のお召し物で、染み一つない白皙の肌、黄金色の髪にサファイアのような瞳が際立っています。思わず見惚れそうになりますが、精神力を総動員して平静を装います。
「お忙しいところ申し訳ございません」と頭を下げられました。
「いえ、御舘様と辺境伯家のことで重要なお話と伺いましたので問題ございませんわ」
我ながら堅い答え方だと少し凹みます。
応接用のソファに案内し、準備しておいたとっておきの紅茶を出します。
「ありがとうございます。よい香りですね。帝都のものですか?」と美食家としても有名になられただけのことはあり、紅茶にもお詳しいようです。
念のため、用意しておいてよかったと心の中で喜びをかみしめていました。
私が対面に座ると、ザカライアス様は徐に話を始められました。
「今日お伺いしたのは総督閣下のことです。お疲れといいますか、非常に張り詰めた感じでこのままではお体を壊されないかと心配になったのです」
「そのことでしたら、私も常々考えております。ですが、私ではお力になれず……」
ザカライアス様に指摘されたことは私の一番の懸念です。北部総督府軍が出征してから心労が重なり、御舘様がいつかお倒れになるのではないかと心配しておりました。
「バーバラ様にお願いがございます」とおっしゃり、まっすぐに私を見つめておられます。その視線を平静に受け止めようとしたのですが、頬が熱くなることを止めることができませんでした。
「どのようなことでしょうか」と何とかそれだけを口にします。
「総督閣下の支えとなっていただきたいのです」
そのお言葉に戸惑うしかありませんでした。
私は一介の侍女に過ぎず、政治のことはよく分かりません。お支えすると言われても困惑するしかありませんでした。
私の戸惑いに気づかれたのか、ザカライアス様はニコリと微笑まれ、
「難しく考えることはありません。閣下の愚痴を聞き、それに頷くだけでよいのです」
「本当にそれだけでよいのでしょうか?」
「はい。総督閣下は不安に苛まれておいでです。ですが、その不安の元は容易に取り除くことはできません。しかし、不安というのは心の持ちようで軽くも重くもなるのです。実際、総督閣下やオールダム男爵閣下がお悩みのことは時間が解決してくれるものです」
「そのようなものなのでしょうか……」
私の不躾な問いに「はい」と大きく頷かれ、更に明るい笑みを浮かべられる。
「では、例え話をしましょう」とおっしゃり、カップに口を付けられた。
「大切なお客様がたくさんお見えになる宴が開かれるとします。お客様の中には気難しい方もいらっしゃれば、酒癖の悪い方もいらっしゃいます。そんな状況を思い浮かべてください」
私はその通りに状況を思い浮かべました。思い浮かべるというより、実際にあったことを思い出すと言った方がよいでしょう。
私が思い浮かべていると、ザカライアス様は更に話を続けられました。
「宴会が始まる日に予定していたお酒が届かなかったとしましょう。代わりになる物は大急ぎで手配しましたが、何とかがんばれば宴会の三時間前に届くという連絡が来ました。そして三時間前になりましたがまだ届きません。更に時間だけが過ぎていき、一時間経ちました。このような場合、不安になるのではないでしょうか。もし届かなかったらと」
「はい。そう考えると思います」
「ですが、よく考えてみてください。一番早くて三時間前ということは、遅れる可能性は充分にあったのです。それにまだ二時間あるのですから、心配する必要はありません。しかし、このような場合、人はあと二時間しかないと考えてしまいます。今の北部域がまさにその状況なのです」
ザカライアス様の例え話はとても分かりやすく、すぐに理解できました。
私も侍女長になってすぐ、宴席を取り仕切ったのですが、同じような状況になったことがございます。その時は私の確認不足が原因だったのですが、胃がキリキリと痛んだことを今でも思い出します。
その時はオールダム男爵閣下が「心配せずともよい。もし、心配ならもしものことを考え、別の方法で手を打っておきなさい。そうすれば悪い方向に考えずにすむ」とおっしゃられ、気が楽になりました。
「今の総督閣下は長期に渡る不安定な状況に相当参っておいでですが、状況はそれほど悪くはありません。いわゆる疑心暗鬼に陥っているという感じでしょうか」
ザカライアス様がそうおっしゃるのであれば、全く問題はないのでしょう。でしたら、私は御舘様のお気持ちを楽にすることだけを考えればよいのです。
「とてもよく分かりました。私には政治のことは分かりませんが、御舘様が悪い方向にお考えになっておられるということはよく分かりました。私がお話を聞くことで少しでもお気持ちが軽くなるのでしたら、誠心誠意努めさせていただきます」
その後、三十分ほどご領地や帝都でのお話を聞かせていただきました。
ドワーフ・フェスティバル、アルスでの鍛冶師の皆さんとの宴会、シーウェル侯爵様のお屋敷での晩餐会、シーウェル領でのワイン探し……そのいずれもが楽しげで、ご一緒させていただけたらと心から思いました。
ですが、私にはその資格がございません。
楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。
ザカライアス様は「長々とお邪魔し、申し訳ありません」と頭を下げられました。
「では、総督閣下のこと、よろしくお願いします」
「お任せください。大したことはできませんが、精一杯努めさせていただきます」
ザカライアス様が部屋を去られた後、私は御舘様の執務室に向かいました。
これはいつものことであり、特に変わったことではありません。
ですが、私の表情がいつもと違ったのでしょう。御舘様が私の顔を見られ、
「何かよいことでもあったのかな、バーバラ」
更にオールダム男爵閣下も「いつもより明るいように見えるが」とおっしゃいました。
「はい。先ほどまでザカライアス卿とお話をさせていただき、この状況がそれほど続かないと教えていただきました。それで心が軽くなり、顔に出たのではないかと思います」
「ほう。だが、それだけではないような気がするが」と御舘様は笑みを浮かべておられます。
久しく笑顔を見ていなかったと心の中で思いましたが、それを口にはしません。
「面白いお話をたくさん聞かせていただきました。御舘様も男爵閣下もザカライアス様からお聞きになられた方がよいと思います。特にドワーフ・フェスティバルの話は笑いを堪えるのにとても苦労しましたから」
「フフフ……そうか……それはぜひとも聞かねばな。のう、フェルディナンド」
「はい。侍女長が我を忘れるような話はぜひとも……ククク……」
私の表情がそれほどおかしかったのでしょうか。御舘様と男爵閣下が笑いを堪えておられます。
私はなぜそれほどおかしいのか理解できませんでしたが、お二人に笑顔が戻ったことはよいことだと気にしないことにしました。
■■■
バーバラ・ハーディングが執務室を出ていった後、ヒューバート・ラズウェル辺境伯とフェルディナンド・オールダム男爵は二人で顔を見合わせる。
「久しぶりにバーバラの笑顔を見た気がするな。これは儂らも同じかもしれぬ」
「左様でございますな。確かにこれほど笑ったのは久しぶり、いえ、一年ぶりではないかと」
二人は自分たちがいかに張り詰めていたのかに気付いた。
「儂らが険しい顔をしておっては部下も厳しかろう。反省せねばならん」
オールダム男爵がそれに頷くと、辺境伯は更に言葉を続けた。
「それにしてもあのバーバラが自分の言い間違いに気づいておらぬとはな」
「そうでございますな。常ならば“ザカライアス卿”としか言わぬところを、“ザカライアス様”と……さすがは全方位のハーレム王子ということですかな」
その言葉に辺境伯は僅かに顔を歪める。
「バーバラを連れていかれると困るのだが……まあ、年齢的にはないと思うが……」
「それは分かりませんぞ」と男爵は言い、
「ベアトリス殿と侍女長は同い歳だったはずです。ないとは言いきれませんぞ」
辺境伯は「確かに」と言って沈黙する。
「といいましても、侍女長は残るでしょう。もし、ザカライアス殿の下に行く気があるなら、一年半前に手を上げたはずです」
辺境伯はそれに頷くと、再び真剣な表情になる。
「ザカライアスがなぜバーバラに会いにいったのかが気になる。フェルディナンド、卿はどう考える」
「私たちのことを考えてのことでしょう。昨夜、デズモンドがザカライアス殿の部屋にいっております。詳細は聞いておりませんが、恐らく、自分では策を献じられぬと相談にいったのではないかと。聡明な彼ならば、我々に余裕がないことはその前から分かっていたはず。それを危惧したのではないかと」
男爵は使用人を通じ、デズモンド・ゲートスケル准男爵がザカライアスの部屋を訪れたことを知っていた。
「ありうるな。デズモンドと何を話したのか……いや、ロドリックのことと合わせて、彼にも残ってくれと言ったのだろう」
「それが最もありそうなことかと。確かにザカライアス殿に残ってもらえれば、私としても安心できます。あれほどの逸材が助言してくれるとなれば、肩の荷の大半は下りるでしょう」
「そうだな。しかし、ザカライアスを残すことはできん。そのことはデズモンドも分かっておるはずだ」
「だからではないでしょうか。ザカライアス殿はデズモンドの思い詰めた顔を見て、侍女長に話をしにいかれた。具体的な政策の話はしておらぬでしょうが、侍女長が安心できるくらいの話をしておるのでしょう。そして、彼女の姿を我々に見せる。それが彼の策ではないかと」
辺境伯は大きく頷くと、
「では、儂らにできることをせねばな。昨日のザカライアスの策を実行する。近隣にいる指揮官クラスを明日中に集めてくれんか。マサイアスらを含め、今一度協議をしたい」
「御意にございます」と男爵は答えて部屋を出ようとしたが、何か思いついたのか立ち止まり、「私から一つ提案がございます」と付け加えた。
「何かな」
「本日、ザカライアス殿は鍛冶師ギルドの依頼で蒸留所建設予定地の視察に向かわれるとのこと。我らも同行させてもらってはいかがでしょうか」
そこで辺境伯は男爵の意図に気づく。
「なるほど。領内の治安のことで頭が一杯だった儂らが蒸留所の建設予定地を見にいく。喫緊のことでもない案件に顔を出せるほどよい知らせがあったと皆に思わせるのだな」
「その通りでございます。更に鍛冶師ギルドの宴会にも顔を出させてもらえれば、ウェルバーン中によい噂が流れることでしょう」
「それはよい。では、何か差し入れを考えた方がよいな。アレクシス殿はエザリントン名物になる料理を差し入れたと聞く。ならば、儂も同じように新たなウェルバーン名物になりうる料理を差し入れよう」
「それはよろしいですね。早速、料理長に話して参りましょう」
そう言い、歩き始めたところで男爵は足を止めた。
「どうしたのだ?」と辺境伯が聞くと、男爵は笑みを浮かべて理由を説明する。
「料理長は目を丸くし、頭を抱えるでしょう。それに……ククク……」
突然笑いが込み上げ、それを堪える。
「どうしたのだ、急に?」
「いえ、ふと頭に浮かんだのですよ。エザリントン家の料理人も同じように頭を抱えたのだろうと。ザカライアス殿が絡むと料理人は大変だと、そう気づいてしまったのです」
「確かにそうだな。ハハハ! では、料理長には私から直々に依頼しよう。恐らくアレクシス殿も同じようにしたはずだからな」
「それはかわいそうですよ、御舘様」というものの、
「分かりました。今から料理長を呼んで参ります」と言って部屋を出ていった。
二人は三十分前には考えられないほど明るい表情になっていた。
久しぶりにバーバラさんの一人称を書くとほっこりします(笑)。




