第三十二話「祝宴:準備」
がっかりされるかもしれませんが、コメディ要素は一切入っておりません。
トリア暦三〇一七年七月二十日午後三時。
兄の婚姻の式典は滞りなく進行し、兄たちは市内でパレードを行っている。庭園でアクシデントがあったが、それ以外は特に何事もなく、時が過ぎていく。
午後三時半。
俺はある場所に向かっていた。
行き先は大ホールの横にある配膳室。祝宴で出す酒について、最後の調整を行うためだ。
既に打合せは一昨日に終えており、俺としては必要無いと思っている。だが、給仕長のファーガス・バートリーから最終的なチェックに立ち会ってほしいと懇願されてしまったのだ。多くの賓客を相手にする帝国屈指の大貴族の給仕長といえども、この大きなイベントで発泡ワインや蒸留酒といった初めての飲み物を扱うということに不安を感じているようだ。
その原因は俺にもあったようだ。いや、あったそうだ。
一昨日の夜、打合せを兼ねて、発泡ワインの開け方の講習を行ったのだが、その際に少し熱くなりすぎたようなのだ。
俺にその意識はなかった。
だが、一緒にいたリディに後でこう指摘された。
「あれは無いわ。だって、栓の開け方、グラスへの注ぎ方、ボトルの口から垂れたワインの拭き取り方……それだけじゃないわ。注ぐ前のグラスの埃のチェックまでなんて……一つ一つあんなに細かく指示を出すんだもの。給仕たちの顔が引き攣っていたわよ……」
更に俺の声音を真似て、
「音を立ててはいけません! ボトルの口から滴を垂らさないで下さい! あっ、そこ! 腕の角度はこうやって美しく見せて! ああ、背筋は伸ばさないと!……あれは引くと思うわ……」
そう言われると何となくそんな気もしてきた。だが、俺なりに彼らには敬意を払っていたつもりだったので一応反論を試みる。
「そうか? そんな難しいことは言っていないんだが? 第一、言葉遣いには注意したつもりなんだが……」
リディは吹き出しそうな表情で頷く。
「ええ、ちゃんと丁寧な言葉遣いだったわよ。そうね……お客様相手のとても丁寧な口調だったわ。でも、それが余計に恐ろしかったんじゃないの?」
笑いを抑えながら、そう言ってからかってくる。
全く意識していなかった俺は苦笑するしかなかった。
客相手の仕事の指導で怒鳴りつけるようなことはあり得ない。俺としては普通に優しく丁寧に指導したつもりだったのだが、知らないうちに熱が入っていたようなのだ。
帰り際にチラリと見た給仕長ファーガスの姿が思い出される。肩が落ち気味でやや涙目だったような気もしなくも無い。
「あなたは自覚が足りないわ。あのドワーフが、酒には妥協しないと全世界に宣言するあのドワーフの鍛冶師たちが、“お酒ではあなたには敵わない”って言っているのよ。そんな人が拘りのお酒を出してきたの。それは緊張もするわよ」
リディはあえて“あの”の部分を強調して説明する。
そこまで言われると給仕長が不安に思っている理由が何となく理解できる。だが、それでも俺にそんな意識はなかった。
俺がその時のことを思い出していると、リディも何か思い出したようで、突然すねたような表情になる。
「それに侍女長のバーバラって娘に色目を使ったでしょ?」
その急な展開に戸惑う。
「何のことだ?」
「あの娘にかなり気を使っていたでしょう。それも侍女としてじゃなくて、“女”として」
何を言いたいのか判らず、その時のことを思い出していく。
侍女長のバーバラ・ハーディング男爵令嬢は二十代後半くらいの落ち着いた雰囲気のある凛とした感じの美しい女性だ。だが、俺の好みではなく、女性として意識はしていない。
こういうことに比較的おおらかなリディにしては、かなり気にしているようだが、その時の俺にそんなつもりはなかった。当然、今もだ。
ただ、思い当ることがないわけではなかった。
「ああ……確かに……だが、あれはあのメンバーの中で最も重要な人物だから敬意を持って接しただけだ。まあ、女性として応対したことは間違いないが……」
侍女とは言え、相手は男爵令嬢だ。
身分制度から言えば、騎士階級の次男である俺より上位にあることは間違いない。更に言えば、この地域の権力者、カエルム帝国北部総督の居城の侍女長ともなれば、普通の屋敷の侍女とは意味合いが全く違う。辺境伯家の奥向きを預かる重要な役職であり、俺が最上級の敬意を払ったことは間違っていないはずだ。
「いきなり片膝をついて、手の甲に口付けをしなくてもいいんじゃないの。周りの人がビックリしていたわよ」
正直なところ、俺にはそれのどこがおかしいのか全く判らなかった。
「あれは学院で習った貴婦人への挨拶だろ? 間違っていないと思うんだが……」
俺がいたティリア魔術学院は宮廷魔術師を多く輩出する学校ということもあり、礼儀作法の授業もあった。その中には王族への挨拶の仕方など儀礼に関するものもあった。
リディはちらりと俺を見た後、小さく息を吐く。
「分かったわ。本当に意味はなかったのね……でも、相手はどう思ったのかしら。少なくとも周りにいた人はあなたと違う印象を持ったはずよ」
そう言われれば、確かに侍女長の印象が変わった気がする。それまで直接話したことはなかったが、少し冷たい感じがすると思っていた。だが、あの時は女性らしい可愛げのある人だと感じてはいた。
(辺境伯家の侍女長なんていう気苦労の多い仕事を、若いのによくやっているなとは思っていたが……)
リディにそのことを言うと、ただ首を振るだけでそれ以上何も言わなかった。
ちなみにリディがその場にいたのは、練習用に開けた発泡ワインを飲むためだった。もちろん、ベアトリスも一緒だ。
不覚にも最初はその理由に気付けなかった。そのため、一緒に配膳室に向かう二人に「何で一緒に来るんだ?」と尋ねてしまったのだ。
俺の問いに対して、二人は揃って「開けたら飲まないと勿体無い」と答えてきた。
その時、侍女長たちに呼ばれたとしか言っていなかったのだが、二人には俺が何をしに行くのか、しっかり判っていたのだ。
(それにしても、よく判ったよな。随分前に練習用に少し貰うとしか言っていなかったはずなんだが……リディたちもドワーフ並みの嗅覚を持ち始めているんじゃないのか?……いや、そんなことはないよな……)
一瞬、リディとベアトリスの姿がドワーフたちの姿と被って見えた。小さく頭を振ってその考えを振り払う。
その時、練習用に開けた発泡ワインはレギュラーボトル五本。コルクの開栓と注ぎ方の練習は空のボトルに魔法で作った炭酸水を詰めたもので行っている。
更に言えば、開けた発泡ワインもすべて飲むつもりはなかった。最初は味見用の一本を除き、リコルク――古いコルクを新しいコルクに代えること――ではないが、もう一度栓をするつもりだったのだ。開けた後も時間の進行を遅らせた収納魔法に保管すれば劣化は防げるし、個人的に飲む分にはほとんど影響はない。いや、影響が出る前に「おいしくなくなるから早く飲まないと」とリディが言ってくると思っていたのだ。
練習であるため、開け方が悪く泡が溢れるような事態も考えられる。そういった場合は、給仕たちだけでなく、料理人たちにも味を覚えてもらうため、飲ませるつもりだった。
だが、気付くと失敗していないボトルまでいつの間にか無くなっていた。犯人はもちろん決まっている。二人しか考えられない。
全く油断も隙もない。
どうしてもドワーフたちの姿と被ってしまう。
いや、この言い方はドワーフに失礼だ。彼らは心底飲みたそうな顔はするが、俺の許可なく飲むことはない。
まあ、今ある発泡ワインは元々リディの物だから俺の許可は必要ないのだが。
そして今、配膳室に来ている。
俺の目の前にいる給仕たちの姿勢がおかしい。いや、おかしくは無いのだが……
給仕長以下五人の給仕がビシッと背筋を伸ばし、左腕に真っ白なナプキンを掛け直立不動の姿勢で待っていたのだ。
更に侍女長バーバラ・ハーディング以下、十五人の侍女たちも紺色の侍女服に真っ白なエプロンを着け、美しい立ち姿で並んでいた。
俺が驚いていると、給仕長は緊張した面持ちで一礼し、すぐに今日の段取りを説明していく。
「……乾杯用には銀の脚付きゴブレットで赤ワインを。お館様のご挨拶後、乾杯が終わり次第、発泡ワインを一斉に抜栓。グラスを配る者は手早く、だが、優雅に所定の位置に置くこと。但し、お客様への説明はきちんと行うこと……祝宴が佳境に入ったら蒸留酒を準備する。ストレート、オン・ザ・ロック、水割り。どれにするかお客様が悩まれる場合は、少しずつお出ししてもよい。ストレートはザカライアス様のご用意された小さめのグラスで。オン・ザ・ロックは伯爵以上の高貴なお方には同じくザカライアス様のご指示のものを、それ以外の方には、銀のゴブレットで……」
段取りは完璧で、給仕や侍女から一切、質問や確認はなかった。
今回、フルート型のシャンパングラス――クリスタルガラス製の脚が長く、ボディ部分は細い形のワイングラス――を約二百脚、小型のテイスティンググラス――通常のガラス製で脚付きの口が細いワイングラスのような形のもの――を約百五十脚用意してある。
更に先日の宴会で辺境伯に見せたクリスタルガラス製のロックグラス――やや太目の脚なしのもの――も二十個ほど用意した。
それらはすべてここに預けてある。
グラス類は兄たちへの結婚祝いを兼ねて、ラズウェル家に進呈しているからだ。
そのグラスだが、給仕たちの横にあるワゴンの上にはきれいに並べられていた。
俺は何の気なしにその一つを手に取る。
そして、壁についている灯りの魔道具の光に透かしてみた。
(完璧だ。シャンパングラスは注ぐ直前にも磨いた方がいい。恐らく、数分前にすべて磨いたんだろうな。指示通りだ……)
僅かな曇りもなく、きれいに磨かれており、埃も全くついていない。
その時、俺の後ろでゴクリと息を呑む音が聞こえた。
いつの間にか給仕長の話が止まっており、その場にいる全員が俺を注視していたのだ。
「な、何か不都合でも……」
給仕長が絞り出すような掠れた声でそう聞いてきた。
俺は誤解を与えたかなと思い、笑顔で問題ないことを伝える。
「いや、きれいに磨き上げられていますし、埃もありません。完璧ですよ」
その直後、給仕たちが一斉に息を吐く。強張った顔が僅かに緩んでいた。
(俺のチェックで緊張していたのか? そこまで気にしなくてもいいと思うんだが……)
俺には彼らが緊張している理由が判らなかった。
給仕長の説明が再開される。
「……発泡ワインに合わせる料理だが、クラッカーの上にチーズとピクルスを載せたものだ。これは手で摘まんで食べるので、そのことを事前にお伝えしておくように……デザートに出すケーキだが、蒸留酒を使ってあるから出す際には簡単に説明すること。特に小さなお子様に出す時には一言注意するように……その後の歓談の時にはチーズなどの簡単なつまみがあることをお伝えすること……特に今回は飲み過ぎるお客様が多数出ることが予想されるので、従者の方がどこにいるか、もう一度確認しておいてほしい……」
さすがに大貴族の居城であり、大規模な宴会には慣れているようだが、ここまで細かい打合せは行ったことがないそうだ。侍女長や給仕長のその時々の指示と、給仕たちの経験でやっていたため、打ち合わせる必要がなかったそうだ。もちろん、マニュアルも存在しない。
給仕長の説明が終わると、侍女長が頷き、
「ザカライアス様。何か付け加えることはございませんか?」
俺が頭を振り、「ありません」というと、料理長のウィリアムが一歩前に出る。
「では、料理の確認をお願いしたいのですが……」
俺は全く想定していなかったので、「えっ?」と疑問の声を挙げてしまった。
(さすがにそれは必要ないだろう……文官のトップ、オールダム男爵ならともかく、俺は一招待客なんだが……)
「是非ともお願いします。せめて発泡ワインと蒸留酒に合わせる料理だけでもお願いします」
そう言って頭を下げてくる。
侍女長からも「お願いしますわ」と笑顔で言われ、仕方なく了承する。
クラッカーの上に具材を載せたカナッペやピンチョス――小さく切ったパンやクラッカーの上に料理を載せるフィンガーフード――のような前菜は二種類用意されていた。
一つはカマンベールかブリーのような白カビのチーズと小さく切ったパプリカのような色合いのきれいな野菜のピクルス――酢は弱め――が載せられた物。もう一つはカモのレバーを蒸してスライスしたものに香辛料とベリーのソースを数滴垂らした物だ。どちらも見た目も美しいし、一口で食べられる大きさに作られており、俺の要求通りだ。味の方もピクルスとチーズのバランスが抜群で、フォアグラもどきもベリーのソースの酸味と香りが発泡ワインに合うはずだ。
「おいしいですね。これなら十分にご満足いただけると思います」
俺の言葉に料理長と後ろにいる料理人から安堵の息が漏れる。
「上に乗せる具材は直前まで保冷庫で冷やしておいてください」
ここでいう保冷庫なのだが、急遽、俺が作ったものだ。
理由はオン・ザ・ロック用の氷が必要になるが、招待客の一人である俺が作りにいくわけにはいかないからだ。
配膳室の奥の倉庫に土属性魔法で石室のような枠を作り、更に分厚い木の板で扉を作ってある。大きさは高さ二m、幅二m、奥行き一mほど。冷却には塩を掛けた氷を使う。今回、冷却用の氷は騎士団の水属性魔法が使える魔術師たちが作っている。
但し、ロック用の丸い氷はすべて俺が作ったものだ。ここの魔術師たちではきれいな球形の物が作れなかったことと、氷の味がまちまちだったからだ。
味が違うことを不思議に思い、理由を聞いてみると、「味のことなど考えたことがありません」という真っ当な答えが苦笑とともに帰ってきた。
逆に味のことまで考えていることに「ザカライアス卿は攻撃魔法でも味に拘るのですか?」と呆れられてしまった。彼らは攻撃魔法である氷の礫を使って氷を作っていたから、言いたいことは良く判る。
その後、蒸留酒に合わせる豚肉のテリーヌも確認したが、僅かにリンゴ酒を利かせており、十分に満足いくものだった。
俺がそれを伝えると、料理人たちはようやく笑顔を見せる。
(とりあえず、問題無さそうだし、戻るとするか……)
「それでは皆さん、よろしくお願いします」
俺は頭を下げてその場を後にした。
やはり“彼ら”がいないと、コメディにはならないですね。
極々真面目な宴の準備の話です……
次話は今回の話の別視点の予定です。もちろんシリアスですよ!
二日早いですが、おいしいお酒とともに楽しいクリスマスを。メリークリスマス!




