02 光の柱-1
「えーと、ここの配線をこっちに回して、っと。これはこっちだから……こうなるんだよ」
話し相手がいるわけではないのだが、無意識に言葉が漏れていた。
ケイティ艦内機動兵器格納庫。
エンジニアたちが意見を交わしながら右往左往する油臭いこの場所、壁際に立ち並ぶ試験用インペンド数体に薄い明かりが掛かっている。その中の一体、タグーはいつも授業が終わったと同時に真っ先に走ってきて整備に時間を費やした。
再試験まで、後一週間――。初試験に落ちたあの日から、一人、いろいろと構想を練ってきた。「次こそは」という強い意志が気持ちを前向きにさせていた。
前回の経験を踏まえて、彼なりに機体強化を図り、集中して作業に当たっていた、その時、突然ヒヤッと冷たい物が頬に触れ、驚いて振り返ると、そこには缶ジュースを手にいたずらっ子のような笑みを浮かべているアリスがいた。
「お、脅かさないでよー」
拗ねるように口を尖らして情けない声を出す、予想通りの反応にアリスは苦笑し、缶ジュースの蓋を開けて差し出した。タグーは「あ、……ありがとう」と、手袋を脱いで素直に受け取り、一口、二口と喉を潤す。作業に夢中になっていて気が付かなかったが、喉はカラカラに乾いていた。
「調子はどう?」
アリスが腰をかがめて整備中の部分をマジマジと見つめると、タグーは大きく息を吐いて、「うん、いいよ」と笑顔で答えた。
「アリスのパワーにショートしないように、ちょっといいコンデンサを使ったんだ。ケーブルも太いのに替えたし。あとね、ロックの操縦に堪えるように機動性をよくした。油圧システムをいじったんだよ。フットペダルのパワーコンプレッサーもリビルトもらってさ。でもクーリングが追いつくか心配なんだよね。ロックの操縦って荒いし。あと、胸部装甲も欲しかったんだけどなあ……、それはもらえなかったんだあ」
「へぇー……、すごいねぇ」
言ってることは何一つとしてわからないが、突っ込むことなく、アリスは素直に感心した。
「あ! そうそう!! コレ見てよコレ!」
床に缶ジュースを置くと、タグーは足下の工具箱から何かを取り出そうと探り出した。
アリスが首を傾げつつ、腰を下ろして覗き込むように身を乗り出すと、タグーは満面の笑みで、丁寧に個包された長方形のチップを彼女の目の前にかざした。
「先輩にもらったんだ! 最新型の知能チップ!! コレをマザーボックスに埋め込んで言語解読機をセットしたら会話ができるんだよ!!」
「へぇー……」
アリスは、嬉しそうに話すタグーの手のひらに置かれているチップを見つめた。
「こんな薄いのに、エライんだね?」
「そう!」
「インペンドに埋め込むの?」
「まさか!」
何気ない問いに、タグーは顔色を変えて大きく首を横に振った。
「そんなもったいないことしないよ!! ちゃんとした人型ロボットを作るんだ!! 今度は失敗しないぞー!!」
楽しそうにチップを眺めるタグーの無邪気さに、アリスはクスっと笑った。
「早くできるといいね。完成したら会話をさせてよ」
タグーはハッ……として、疑い深く細めた横目で彼女を窺った。
「変な言葉を覚えさせないでね?」
「“誰かさん”と一緒にしないでくれる?」
見抜いたセリフに、タグーは「ほ、ほんとだっ」と、早々にチップを工具箱の片隅に仕舞い込む。
「ねぇ、それより」
壁に背を付けて膝を抱えると、アリスは眉間にしわを寄せた。
「最近、おかしいのよね。感じない? 艦内の雰囲気。すごくピリピリしてるんだ」
「んー……。アリスはライフリンクだし、そういう力が強いからね。僕は何も感じないよ」
「そっかぁ」
「……あ、けど」
タグーは缶ジュースを手に取ると、アリスの横にペタンと胡座をかいて視線を上に向けた。
「教官たちは、なんかおかしいね」
「でしょっ?」
「なんだろう……。何か隠しごとしてるような……」
「でしょっ? 何かおかしいよねっ?」
訝しげに首を傾げる様子に、「やっぱりあたしだけじゃない!」と相槌を問う。タグーはジュースを一口飲むと、それを横に置き、腕を組んで足下を見つめた。
「そういえばさ、ここンとこ外に出てるパイロット、少ないね。機動兵器や小型機、修理して欲しいとか、そういう要望もないみたいでさ。先輩たちもちょっと退屈そうだった。……ってコトは、それだけ乗ってないってコトだよね。実技訓練で使うはずなのになぁ」
「何かあるわね。……襲撃にでも遭うのかな?」
「そんな!」
タグーは目を見開いてアリスを振り返り、思わず声を大きくした。
「逆に整備に追われるよ!?」
「そうか、……そうだね」
ペロっと舌を出して肩をすくめるアリスに、タグーは「怖いこと言わないでよ」と口を尖らし、視線を前方へと真っ直ぐ戻した。
「ここは宇宙一平和な艦隊だよ? 襲撃される覚えもなければすることもない。第一、フライがそんなの許さないよ」
アリスは同意するように頷いて、「……ふふっ」と思い出し笑いをした。その気配に気付いたタグーは顔をしかめ、クスクスと笑う彼女から少し身を引いた。
「なーに? 気持ち悪いなー」
「あたしね、試験に落ちた日にさ、フライにご飯誘われたんだ」
タグーはしばらく考えていたが、「ええー!!」と、驚きの声を上げて目を大きく見開いた。
「嘘!!」
「ホ・ン・ト。……楽しかったなあ」
「フライはマトモだと思ってたのに!!」
「……、どういう意味?」
アリスが怪訝げに問うと、身を引いたままのタグーはまるで「大切な人に裏切られた!」と拗ねるように、半分怒るように口を尖らした。
「だってクリスじゃあるまいし! 候補生の女子を相手にするなんて!!」
「何言ってンのっ?」
「まさかっ……、フライを騙したの!?」
「あたしが何を騙すのよ!?」
アリスは頬を膨らまして「このぉ!」と襲い掛かる。油断していたタグーは「うあー!!」と悲鳴を上げて頭を抱え、身体を丸めて縮まるが、上からポコポコとグーで叩かれ、「いててててっ」と情けない声を挙げた。
「お前らって、そういう関係だったわけ?」
ハッと振り返ると、コクピットのハッチにロックが腕を組んで訝しげに突っ立っている。アリスはタグーから離れると、ゴン! と、最後に一発、強烈なゲンコツを入れた。
ロックは、頭を押さえて不愉快げに拗ねるタグーの様子に苦笑しながら二人に近寄った。
「なんだ? 授業が終わった後の密会か?」
「……男子って、どうしてそうゆう想像しかできないの?」
軽蔑するようにじっとりと目を細めた後、アリスはツンとした表情でそっぽ向く。ロックは「ケケケッ」と笑うと、いつまでも頭を抑えているタグーを不敵な笑みで見下ろした。
「早くいっぱしの男になれよ」
タグーがすぐに頬を膨らまして反論しようとしたが、ロックはそんな彼を無視して整備途中のコクピット内をぐるりと見渡した。
「で、進んでンのか?」
監視官さながら、粗でも探すようにジロジロと見回すロックに、タグーは「もちろん」と、少し誇らしげに胸を張った。
ロックは笑顔で数回頷くと、操縦席へと足を向け、シートに座って操縦桿を握り締めた。
「いいねぇ、このフィット感。最近乗ってねぇから身体がウズいちまう」
まるで愛おしむよう。動かない操縦桿のグリップを確かめるロックに、タグーと顔を見合わせたアリスは疑問を呈した。
「ねぇ、なんで外に出ないの?」
ロックは操縦桿から彼女に目を移し、パチパチと瞬きさせてから首を傾げた。
「さあ?」
「さぁって……不思議にならなかった?」
「別にぃ。確かに前よりか実技が減ったけど、だからって不思議がる程のモノでも無いんじゃねぇの?」
あっさりと肩をすくめるロックに、アリスは呆れてため息を吐いた。
「それって、どういうこと?」
「何が起こるかわからないのが宇宙だろ? そんなことでいちいち不思議がってても仕方ねぇじゃん。それに、俺たちは生徒の身分なんだし。上の奴らに従うしかねぇよ。反発した所で外にゃ出してもらえねぇんだから」
その言葉にピンと来たアリスは「ハハーン」と、探るように目を細めた。
「ダグラス教官に外に出せって言ったわね?」
「俺はパイロットだ。当然だろ」
「やっぱり不思議だったんじゃないのよーっ!」
眉をつり上げるも、ロックはツーンとそっぽ向くだけで相手にする様子はない。
「ねぇ、ダグラス教官はなんて言ってた?」
タグーが真顔で問い掛けると、ロックは軽く首を振った。
「よく教えてくれないんだよな。敵襲とかじゃないらしいんだ。隕石群でもやってくるのかっていうと、そうでもないらしい。じゃあなんなんだって訊くと、ゴチャゴチャうるせぇってゲンコツ落とされた」
と、頭のてっぺんを撫でるロックに、タグーは不安げな表情で視線を斜め下に置いた。
「教官たちはいったい何を隠してるんだろう……?」
三人は「うーん」とそれぞれ考え込んでいたが、艦内スピーカーから聞き慣れたチャイムが鳴り、すぐに冷静になって耳を傾けた。
《ライフリンク、及びライフリンク候補生に告ぐ。繰り返す。ライフリンク、及びライフリンク候補生に告ぐ。直ちにケイティ艦二階、第三スタッフルームに集合せよ》
突然の艦内放送に顔を上げたロックとタグーは、不可解げな表情をしているアリスを振り返った。
「コトの説明じゃねぇの?」
ロックが身を乗り出すが、当のアリスは何も答えることなく首を傾げて立ち上がった。
「わかったら教えろよ」
アリスはロックに小さく頷くと、タグーに「整備がんばってね」と笑顔で励ましてコクピットから出ていった。
彼女の背中を見送った後、ロックは顔をしかめてタグーを振り返った。
「お前ら……ひょっとしてデキてる?」
タグーは「そんなことばっかり!」と、素早く革手袋をロックの顔面目掛けて投げ付けた。
――ケイティ艦・開発研究スタッフルームに続々と見慣れた顔が集まってくる。主が女性であるため、待ち構えていたダグラスのような大男は一際存在感がある。彼はいつもと同じ、貫禄たっぷりに腕を組み、壁際で仁王立ちしている。親しく話しかける女性と言えば、精々セシルとアーニーぐらいだ。そんなダグラスとは正反対に、白衣のまま、隣に立つ医務官のクリスへは女性たちが笑顔で一声掛けていく。クリスがフライスに負けない愛想のいい微笑みで挨拶返しをすると、彼女たちは心の中で「今のは私にしてくれた!」と思い込む。彼らの他にももちろん男性教官や上官、各艦長、フライスの姿も見られたが、相反するこの二人が肩を並べていると、その周囲が異様な空気に包まれた。
正式メンバー、候補生、それぞれが決められた隊列で立ち並ぶ中、アリスはみんなの真ん中の位置でそれぞれを窺った。さすがにこれだけライフリンクがいると強い圧迫感があって窮屈だが、しかし、なぜかそれ以上に“別のモノ”が感じられた。どう言葉に表したらいいのかわからないのだが、とにかく……面倒なことが起こりそうだ。
フライスはライフリンクを見回して、まずは敬礼をした。ライフリンクも揃って敬礼をし、「直れ」というダグラスの掛け声で敬礼姿勢を解いた。
「よく集まってくれた。突然の集令で、感のいい君たちは何か察しているとは思うが」
フライスは一つ息を吐いて再び言葉を続けた。
「率直に言おう。君たちには悪いが、しばらくの間、サブレットの一区画にて居住して欲しい」
その言葉に、ライフリンクたちは間近な仲間と視線を交わした。
サブレットとは、フライ艦隊群内の小型軍艦だ。小型とは言え、戦闘機材など豊富に揃えられて、艦内は常に警戒態勢が取られている。いつ何時、戦が始まるともわからない。その時真っ先に先陣を切る特攻軍艦としての役割を担っているのだ。強靱に造られた艦だからこそである。
「とある事情で、ひょっとしたら君たちの身に危険が迫るかも知れない」
フライスはそう言うと、予め手に持っていた数枚の用紙へと目を向けた。
「わたしたちの間では君たちはライフリンクという名の下、いちクルーとして活躍しているが、他艦隊に置いては君たちのような素質を持った人たちを特別視してはいない。そこで見落としていたことが、ある事件に繋がっているかも知れないんだ」
フライスは紙からライフリンクへと目を戻した。
「数年前から、パイロットが突然姿を消す、という事件が起こっている。つい三ヶ月前も、三体の機動兵器とそのパイロットが姿を消した。その時のパイロットたちは、全員、不思議な力を持っていたらしい」
ライフリンクたちの表情が変わり、互いに目を見合わせてザワつきだした。
「今まで何もわからなかったのは……君たちのような不思議な力を持った者は未だ蔑視される。そのため、その事実を隠し続けている者も多いんだ。……三ヶ月前、同時に三体の機動兵器とパイロットが消えてしまった事件についてこちらから情報提供を願いたいと申し出た所、相手方の艦長が親身になって再度身辺調査してわかったことだ。消えたパイロットたちはみんな不思議な力を持っていたと、知人、友人の証言があったらしい。……実際、わたしの知人で君たちのように不思議な力を持った者も一人、姿を消している」
ライフリンクたちがざわめく中、フライスは話を続けた。
「君たちが今まで狙われなかったのは、単独のパイロットとして宇宙に飛び出すことがなかったからかも知れない……。君たちの傍には必ずパイロットとエンジニアが付いた。だから狙われずに済んだのかも知れないんだ」
「じゃあ、一区画でみんなで固まっていたら逆に狙われるんじゃないでしょうか?」
ライフリンクの一人が手を挙げて口を開くと、フライスは首を振った。
「この三ヶ月間、何もなさ過ぎた。この広大な宇宙ではパイロットの消息が途絶えるのはそう珍しいことではない。何百という艦隊、何千という兵器が潜んでいる。一ヶ月に数名の行方不明者が出ても、それは事故として処理されるのが現状だ。しかし……この三ヶ月間は誰一人として消息を絶った者がいない。……ひょっとしたら、パイロットやエンジニアを巻き込んで君たちもろとも消息を断つ、そんな準備が整えられているのかも知れない。艦隊ごと消してしまう準備が進んでいるのかも知れない。……今回の手段で君たちの身を守れるかはわからないが、しかし……特殊バリアを張り巡らしたサブレットに身を潜めることが、今唯一の保護手段なんだ」
「誰の仕業なんです? どうして対策を練らないんですか?」
「宇宙警察は何をしているんですか?」
「世界政府の対応はどうなっているんですか? 知らないんですか?」
口々に意見を言うライフリンクにダグラスが「静かに!」と注意すると、すぐにざわつきが一掃された。
フライスは少し視線を下に置き、ゆっくりみんなを見回した。
「……どこの誰の仕業か全然わからない。まったくと言っていい程なんの手掛かりもないまま……突然人が消えてしまうんだ。宇宙警察も世界政府も状況は把握している。このことを研究している艦隊も他にいる。でも、ここはその中でも進んでいる方で……。なのにどうすることもできないんだよ。暗闇の中を手探りで歩いているような状況なんだ」
フライスの悲しげな言葉にライフリンクたちは息を飲む。彼が嘘を吐くことなく真実を語っているということは、彼女らに充分伝わっていた。
「……それじゃ、囮を使ってはどうでしょうか?」
ライフリンクの中から挙手と同時に声が挙がった。
「スパイを送り込むようにワザと捕まるんです」
「それは危険過ぎるわ」
大人しく窺っていたセシルが首を振った。
「相手が何者かもわからない。どうなってしまうかもわからないのよ?」
「私たちは普通の人間じゃないんです。情報は認識しました。武器と通信手段があればなんとかなります。それに、危険を覚悟の上で私たちはこうしてこの宇宙にいるんです。私たちは立派な戦士です。それとも、私たちじゃ力になれないんですか?」
堂々としたライフリンクの視線に射抜かれ、セシルは言葉を失くした。――彼女たちの覚悟が痛い程伝わってくる。戦士としてのプライドも。だが、簡単に「それじゃあお願いね」とは言えない。いや、言いたくはなかった。
視線を落として戸惑うセシルを横目で窺い、フライスは肩の力を抜いて小さく首を振った。
「わたしもその意見には反対だ。セシル教官の言うとおり、何者が仕組んだことなのかもわからない、総てが謎のまま、そんな所に君たちを送れない。命を無下にはできない」
「私たちは特殊人間ですっ、簡単にはやられません!」
「力になりたいんです!」
口々に叫き立てるライフリンクたちにフライスは俯いて目を閉じた。動じることも口を開くこともない姿勢にダグラスは何かを察したのか、「静かにせんか!」と大きな声を上げた。だが、大勢の甲高い女性たちの声に今度は簡単に掻き消されてしまう。
そんな中、アリスは軽い頭痛に襲われながらもフライスの様子に注目していた。
……そういうコトだったんだ。だからロックたちも外に出してもらえなかったのね。けど、どうして特殊能力のある人間を……――
フライスは目を開けて顔を上げると、大きな声で告げた。
「とにかく、君たちは今からサブレット軍艦に移ってもらう。しばらくの間、外部との接触は不可能。もちろん他言無用。君たちを解放すると同時に、他のクルーには直々にわたしから説明をする」
ライフリンクたちの“口撃”が止まない。それでも教官や上官たちは半ば強引に「こっちへ!」とドアを開けてみんなを誘導していく。
騒々しさに伴って頭痛が激しくなり、アリスは顔を歪め、額をグッと押さえた。
誘導する教官たちに反発しながらも流されていく仲間たちの中、アリスは身体を押されながら必死で顔を上げた。すがるような視線に気が付いたセシルは、苦しそうな表情を見て、急いでライフリンクたちを掻き分け彼女の元へと寄った。
「大丈夫?」
肩に手を置いて顔を覗き込むと、アリスは額に大粒の汗を浮かび上がらせ眉を寄せた。
「あ、頭が……すごく痛いんです……。みんなが……」
「気をしっかり保ちなさい」
セシルは強めに言うと、アリスの肩を抱いて引き摺るようにその場から離れようとした、が……
「どうしてアリスだけそっちに連れて行くの!」
同僚たちだろう。不愉快な視線を二人に向けている。
「アリスだけ特別扱い!?」
セシルは大きくため息を吐くと、候補生たちを宥めるように、優しく口を開いた。
「この子はあなたたち以上に能力値が高いのよ。こんな騒ぎの渦中にいてあなたたちの感情を直に受けているの。あなたたちにもわかるでしょ?」
「あたしたちは感じないわ! アリスはワザとそうして閉じ込められないようにって逃げてるだけだよ!」
「仮病でしょ!?」
険しい表情で口々に文句を言う。
……痛い!!
アリスがひどく顔を歪めたその時、正式なライフリンクのメンバーたちがそんな候補生たちへと目を向けた。
「あなたたち、この状況に何も感じないようだったらライフリンクとして失格よ」
そう冷たい言葉を吐き捨てると、候補生たちは口を閉じ、グッと言葉を飲んだ。だが、表情が怒りに満ち、今にも先輩に盾突こうとするかのよう。しかし、そんな“小娘”たちの睨みに怖じ気づくライフリンクではない。その中の一人が静かにセシルに近寄って申し出た。
「私、ライフリンクのメリッサ・ギルバートです、セシル教官。……私たちが傍に付いていてあげましょうか? このままだと……ヤバイと思うから」
アリスの身体を支えていたセシルは少し躊躇ったが、場の雰囲気を考えると、その提案に従った方が賢明だ。
「……どう?」
セシルが小さく問い掛けると、アリスは虚ろな目でメリッサを見上げた。目が合った彼女は、軽くカールした金色の髪を揺らし、小さく斜めに顔を傾けて優しく微笑んだ。濃いブルーの瞳には、アリスの歪んだ顔が映っている――。
アリスは生唾を飲み、辛そうな笑顔をセシルに向けた。
「……大丈夫です。先輩に……傍にいてもらいます……」
アリス自らが腕を離れると、セシルは「……それじゃ、よろしくね」と、戸惑うような笑みでメリッサに全てを託した。
メリッサは強く頷くと、フラつくアリスの肩に腕を回してその身体を支え持った。その瞬間、アリスは更に顔を歪めた。
「大丈夫か?」
様子を遠くで見ていて気になったのか、クリスが近寄ってきてアリスの肩に手を置き、顔を覗き込んだ。
「俺は時々そっちの様子を見に行くから。何かあったら遠慮なく声を掛けるんだぞ」
クリスと目を合わすことなく、アリスはただ頷いた。身体を支えているメリッサは、「……それじゃ行きます。任せてください」とみんなと共に、流れに逆らうことなくアリスを連れて行く。セシルは不安げな表情で、それでも静かに見送ったが、しかし、どこか落ち着かない様子にクリスは「ポンポン」と宥めるように肩を叩いた。
――大勢のライフリンクが数台のシャトルにわかれて乗り、ケイティ艦から少し離れたサブレット軍艦へと移動を開始し、その数時間後、手荷物も何もない、ただ誘導されるがままにやってきた彼女たちは解放されぬままに部屋割りをされた。
ライフリンクや候補生たちの不満の表情は消えないが、しかし、自分たちの身を案じての配慮だ。誰一人、もう口答えをする者はいなかった。
アリスは、彼女を支えてきたメリッサの、「私たちが傍に付いてあげないと同僚にいじめられますよ」という申し出で候補生たちから離れることになった。彼女たちを誘導した一部の人間はシャトルでケイティに戻り、残された者はそれぞれ、これから生活していく上での身支度をする。与えられた服に着替える者、寝床を協力して用意する者。グループ割りして、生活に乱れのないようにと決まりごとを作る者。
そんな中……
「ここで休むといいわ」
アリスは頭を押さえながら壁際の長椅子に横になった。25号室と書かれたこの部屋は、元はクルーの個人部屋だったのだろう。男臭さが残っているが、それでもまだ快適だ。
「これからよろしくね、アリス・バートン」
長椅子の傍に腰を下ろし、柔らかい言葉を掛けながら、メリッサは怯えるような表情で目を泳がすアリスの頭を数回撫でた。
「……あなた、強い力を持ってるわね? 私もそう。だから……あなたが今何を感じているのかがわかるの」
横たわったまま、身動きできないアリスはゴク……と唾を飲む。
メリッサは次の言葉を続けようとしたが、室内のドアが開いて女性が現れると、アリスの頭から手を除けて振り返った。
「へぇ、ここ、いい部屋だね。あたしのトコはすごく散らかってて、もうサイアク」
嫌そうに肩をすくめる彼女にメリッサはゆっくりと立ち上がりつつ苦笑した。
「片付けなら手伝うわよ?」
「後でね。その前に……」
チラ、と、窺うようにアリスを見るその視線に気付いたメリッサは、嫌々そうに小さく息を吐いた。
「ここ、二人部屋だし。申し出た以上、仕方ないからね」
「代わってあげてもいいよ? ……楽しくなりそう」
ニヤリと不敵に笑う表情を、アリスは見なかった。……いや、見なくても感じ取ることが充分にでき、洋服を握りしめる手が震えた。
「それより、みんなのトコに行こうよ」
メリッサは笑顔で二人の間に立つと、誘うように同僚の身体を押して背を向けさせ、ドアへと軽く押す。強引さに同僚の女性は残念がって口を尖らし、顔を背けているアリスにチラチラと目を向けた。
「だったら連れて行こう、そいつ」
「いーじゃない、後で。時間はたくさんあるんだし」
「えーっ」
「ほら、行こう」
メリッサに押されるまま、二人はそこを後にした。その隙に、アリスは頭を押さえフラつきながらも部屋を出ると、壁を伝い、人目を避け、薄暗い部屋へと忍び込んだ。
……鉄臭い異臭が漂っている。武器庫か機材置き場か――。
ここがどこかを深く考えることなく、大きなコンテナの背後に回ると崩れるように俯せに倒れた。身体をなんとか横に向けると冷たくて堅い床が頬に密着するが、汚さも、鼻を突く臭いも今のアリスには問題じゃない。彼女の額には大粒の汗が浮かび、伝っている。
――何をされるかわからない。
アリスは背中を丸め、両手の震えをなんとか押さえようと組み合わせて力を入れた。
セシルからメリッサに移った時、感じた。……憎憎しいものを。彼女の周りにいた先輩たちも――。
アリスの目にじわりと涙が浮かんできた。段々と息が詰まり、鼻の奥がツンと痛くなってくる。
これ以上みんなにいじめられたくないからメリッサに付いて来た。あの時、メリッサに付いて行かなかったらコトは余計に大きくなっていた。
……我慢すればいい。しばらくの間、我慢すればいいんだ。あたしさえ、我慢すれば……――
「……なんだって?」
「いないんだよ! どこにも!」
翌日、実習訓練艦・デルガのシャトル発着所――。
他の候補生たちと一緒に雑談をしながらやってきたロックを捕まえたタグーは、彼を壁際に引っ張り、険しい表情で首を振った。
「ライフリンクがみんな! 昨日のあの放送以降、みんな姿を消しちゃったんだ!」
「……、は? なんだそれっ?」
「授業の前にインペンドの調整をちょっとだけやろうと思ってケイティに行ったら先輩に言われたんだ! ライフリンクはいなくなったから、試験なんてできないって!」
「……はあっ?」
「ホントにいないんだよ! アリスとも連絡が取れなくなっちゃってるんだ! もうすぐ試験なんだよ!? このままだと……!」
慌てふためくタグーの様子で状況が理解できたのか、ロックは顔を上げるなりダッと駆け出した。行き先がわからないまま、タグーもすぐに彼を追う。
「教官!!」
ダグラスの個人教官室。突然ロックとタグーが入ってきて、ダグラスは飲んでいたコーヒーを「ゴフッ」と吹き出し、右手の甲で顎を拭いながら眉を上げた。
「お、お前らぁ!!」
「アリスはどこに行った!? ライフリンクはどこに行ったんだ!?」
険しい表情で詰め寄るロックを横目に、ダグラスはコーヒーカップを置いてティッシュで口元を、そしてデスクを拭った。
「気の早いヤツだな……」
冷静な様子にロックは苛立ち、バンッ! とデスクの片隅を力一杯叩いて、ティッシュをダストボックスに投げ捨てるダグラスを睨み付けた。
「どこに行ったんだよ!! 知ってンだろ!!」
「ああ、授業の前に報告するつもりだ……ったのに」
ダグラスは素早く二人にゲンコツを喰らわした。
「気が早いにも程があるぞ!! しかもなんだ!? ドアベルも敬礼も無しに入ってくるたぁいい度胸してるじゃねぇか!!」
「うるせぇクソオヤジ!! アリスはどこだ!!」
「ライフリンクは特殊任務でいない! しばらく戻ってこんぞ!!」
吐き捨てるような答えに、ロックは頭の痛みを放ってしばらくその言葉の意味を考えていた。
いない? って、こと、は……――
「試験は!?」
愕然とするロックに、ダグラスは落ち着き払った視線でため息を吐いた。
「できるわけないだろう。バカモンが」
「できないって……!」
「お前らだけじゃない。みんなそうだ。諦めろ」
「冗談だろ!?」
「試験は逃げはせん。また次がある。その時まで」
「なんの特殊任務なんですか?」
ゲンコツを喰らった頭が痛いのか、うっすらと涙を浮かべながらタグーが口を挟んだ。
「パイロットが宇宙に出られないのと、何か関係があるんですか?」
「余計な詮索はするな」
ギロリと睨まれて、タグーは一瞬にして硬直する。
ダグラスは端から相手にする気はないのか、面倒臭そうに二人をドアの方へと強引に押しやった。
「おらおら、もうすぐ授業が始まるぞ。タグー、お前のトコはザックから説明があるだろ。聞きたいことがあるならそこで訊け。ワシはこのバカを相手するので手一杯だ」
ロックとタグーはまだ訊き足りないという顔で振り返ったが、ダグラスが二度目のゲンコツを喰らわそうと拳を握り締めたのを見て逃げるようにそこから出ていった。
その後、ダグラスの言葉通り、各候補性たちには教官からの説明があった。しかし、説明と言っても“特殊任務”ということだけ。当然みんな不思議がり、質問を投げ掛けたが、艦隊機密なので今は口外できないの一点張りだ。
結局、謎は謎のまま――。
憶測が憶測を呼んで、「ライフリンク透明実験失敗事件」という噂まで流れている。
壁にぶつかったまま身動きが取れず、終業時間後もみんながスバルに帰ることなく話し込んでいた。もちろん、ロックとタグーもだ。
「……どうなってんだよ、一体」
ザワザワとうるさい通路を肩を並べ歩きながら、ロックは訝しげに腕を組んだ。
「俺たちみんなに隠さなくちゃいけないことなのか? そんなにすげえことしてるのか?」
「ライフリンクだからね……」
視線を落としながら、タグーは肩をすくめた。
「アリスたちの力を合わせて何かやるつもりなのかなあ」
「シャイニングブレス以外にか? 透明人間になったとか聞いたけど、そんな実験できンのか?」
「現実的じゃないね、そんなの。……本気で言ってると笑われるから、言わない方がいいよ?」
「じゃあ他に何があるんだ?」
「だから、それがわからないんでしょ?」
ガックリと項垂れるロックにタグーは小さくため息を吐いたが、視界に何かが映って「……ん?」と眉をひそめた。
遠くの曲がり角を、見慣れた姿が足早に通り過ぎていった――。
「……、おかしくない?」
「ん? なにが?」
ロックが顔を上げると、タグーは通路の先を顎で差した。
「見なかった? さっき、セシル教官がいたよ」
「だからなんだよ?」
「何って……セシル教官も、一応ライフリンクじゃん」
二人は足を止めてじっと互いを見ていたが、ダッと走るなりセシルの後を追った。
セシルは声を掛けてくるクルーや候補生には見向きもせず、サッサと足早に歩き続け、そして、一室に入った。こっそりと跡をつけてきたロックとタグーはドアの前に立ち、プレートを見上げた。クリス医務官がいる、軽医療室だ。
二人はドアに耳を付けて話し声を聞き取ろうとしたが、やはり、聞こえてくるはずはない。
ロックは舌を打ち、「こうなったら強行突破だ!」と言わんばかりにドアベルを鳴らそうとしたが、タグーに袖を引っ張られ、足をもつれさせながらそこから離れた。
「アリスが見当たらないわ……」
セシルは狭い室内を右往左往しながら、困惑げに爪を噛んだ。
「探したんだけどどこにもいないの。気を探っても感じ取れなくて……」
「結構広いからねぇ」
デスクで資料を片付けながら呑気に笑うクリスを、セシルはピタッと足を止めて睨み付けた。
「あんたね、あの子にもしものコトがあったらどーすんのよ?」
「考え過ぎでしょーに」
セシルの睨みを物ともせず、クリスは苦笑した。
――その様子を静かに天井裏から覗き込む二人組。
整備ダクトの図面を見たことのあるタグーの案に従ったロックは、細かい鉄格子から見下ろして、聞き耳を立てた。
「アリスに過保護だよ。他の子たちがヤキモチを焼くはずだね」
肩をすくめられてセシルはムッとしたが、再び歩き出し、苛立ちを露わにした。
「わからないからそんなこと言えるのよっ。……わからないから……!」
悔しげな声を荒立てる彼女に、クリスは見ていた資料をデスクに置いて顔を上げると、思い出すような遠い目で壁を見つめた。
「それ……ケイティの時にも言ってたな……」
セシルはその言葉に反応して足を止め掛けたが、それでもまたペースを取り戻してウロウロと歩いた。
「ケイティと一緒だわ。……似てる。ええ、そうよ。アリスは似てるの。だから余計に心配なのよ」
「けど、あの子は消えないよ。そうだろ?」
椅子ごと振り返って微笑むクリスに、セシルは足を止め、視線を落として吐息混じりに首を振った。
「……ケイティだって……いなくなるとは思ってなかったわ……」
ぽつりと呟いて悲しげに俯く姿に、クリスはしばらく間を置いて腰を上げ、彼女の肩を叩いた。
「じゃあ、探しに行くか? 俺も一緒に探してやるから」
笑顔で顔を覗き込むが、疑い深く目を細められ、その鋭い視線に首を傾げた。
「なに、その目は?」
「……あんたはできるだけ、うちの生徒と関わらせたくないのよね……」
「……。犯罪は犯さないって」
否定はしないが苦笑して首を振る。そんなクリスを睨みつつ、セシルはため息を吐いた。
「……わかった。じゃあ、ちょっと協力してちょうだい」
「りょーかい」
肩を並べて部屋を出て行く、二人を見下ろしていたロックとタグーは顔を見合わせた。
「……どういうことだ?」
「つまり……、よくわかんないけど、アリスがいないってことっぽいね?」
二人はじっと顔を見合わせて、慌てて整備ダクトから出るべく低姿勢で動き出した。
「なんなんだ一体っ、すっげー腹立つよな!」
「静かにっ」
苛立つロックを引き連れながら、タグーは「シーッ」と彼を制した。
「見つかったら怒られるよっ」
「お前、アリス探知機は作れないのか?」
「無茶言わないで」
タグーは顔をしかめながら足音を忍ばせて進み、人の気配を確認して通路に出ると、制服に付いただろう埃を払いながら、後から下りてきたロックを見上げた。
「デルガじゃないだろうから……シャトルか小型機でどこかに行くだろうね」
「じゃあ、ポートか?」
「跡をつけよう」
頷き合い、急いでシャトルポートへと向かうが、突然、隣を走っていたロックの足がもつれ、跪くようにドサッと床に倒れた。タグーは「ん?」と足を止めて振り返り、「何コケてんの?」と笑い飛ばそうとしたが……様子がおかしい。受け身を取って俯せに倒れたままピクリとも動かなかったが、横向きになるなりグッと身体を丸めて縮まるロックに、「……ロック!?」と声を掛けて驚いてすぐに腰を下ろし、頭を抱えて背中を丸める身体に手を置いて揺さぶった。
「ロックっ? どうしたのっ?」
狼狽えながらも、様子を見ようと覗き込むが、ガクガクと震えていたロックはグッと全身を強張らせ、次の瞬間、
「!! ってェェーッ!!」
と、大声を上げ、足をバタつかせてのたうち回り出した。
何事かわからず、タグーは戸惑いながらも、「イテェ!! イテエェェ!!」と叫きながら転げ回るロックの身体を押さえようと、彼の腕を掴み取った。
「ロ、ロック!? どっ、どうしたの!!」
「くそぉ!! 痛ぇ!! くそオォ!!」
「……。血が出てるよ!!」
ロックの身体を探っていたタグーはギョッ! と目を見開いた。ロックが抱え込んでいる頭、腕の隙間から、服や顔に血が飛び散っている。
「た、大変だ!!」
「いてぇー!!」
「おい! どうした!!」
騒々しさに気付いたクルーたちが走ってくると、タグーはもがき暴れるロックを押さえながら彼らを見上げた。
「急に怪我しちゃって……!! 医療班を呼んでください!!」
「わかった!」
クルーの一人がすぐに緊急用のベルを鳴らそうと、一定間隔で壁に備え付けられている緊急ベルに駆け寄った。そして、すぐベルボタンを押そうと手を伸ばしたが、その前にベルが「ジリリリリッ!」と鳴り響き、みんな、「えっ? ……ええ!?」と、狼狽えた。数秒後にベルが鳴り止むと、改めてベルのボタンを押し、緊急を知らせたが――。
……その後、ロックはクルーたちの手によって軽医務室へと運ばれたのだが、あまりの痛さのせいか、彼は途中で気を失ってしまった。
――無性に腹立たしく感じる時って、どんな時だろう。限られた時間内での作業を邪魔された時。一生懸命さをわかってもらえずに馬鹿にされた時。ゲンコツを落とされた時……。考えればたくさんありすぎて上げ続けることは出来ないが、間違いなく、今の“この現状”もそのひとつだ。
あれからどれくらいの時間が過ぎたか――
意識を取り戻したロックは、何がなんだかわからないまま、ベッドの上でしばらくの間ボー……と天井を見つめていた。
あれはなんだったのだろう? 突然、奇妙な感覚に襲われた。一言で言うなら、“恐怖”。全身がゾクッとするような恐怖感に襲われ、咄嗟に、なぜか「逃げなくちゃ!」と思った。けれど、思うように足が進まず、もつれて倒れ、その後だ。――頭に激痛が走った。
ロックは誰に言うわけでもなく「……クソ」と呟いて重い身体を起こしたが、頭に違和感を感じて顔をしかめ、ペタペタと触った。左耳を覆うように、ぐるりと何かが頭に巻き付いている。「オーバーに包帯なんか巻きやがって」と苛立ちを露わにしながら改めて辺りを見回すと、ここが馴染みのある場所だとわかった。ヤンチャして怪我をした時はお世話になる、軽医療室だ。
ロックはため息を吐きながら、ゆっくりとした動きで布団を捲って、ふらつきながらもベッドから降りて立ち上がった。
「おいクリスぅ、もう帰っていいのかぁ?」
気怠さを隠すことなく仕切りのカーテンをのんびりと開け、デスクへと目を向けたが、パチパチと瞬きしてキョトンとした。
そこにいるのはクリスじゃない。フライスだ。しかもなぜか頭に包帯を巻いている。
フライスはいつもクリスがいるデスクの椅子に座って何か用紙を見ていたが、ポカンと立ち尽くすだけのロックに気付くと苦笑して紙を机に伏せた。
「平気か?」
問い掛けに答えることなく、ロックは顔をしかめた。
――なぜフライがいる? クリスはどこに行った? フライが包帯を巻いたのか? いやいや、なんでフライも包帯を巻いてるんだ?
ロックはなぜかゆっくりとカーテンを閉めて、もう一度、ベッドに横になった。
……俺はどうしたんだっけ?
天井を見つめながら何かを思い出そうとしていると、しばらくしてカーテンがシャッと開いた。
「まだ麻酔が効いてるから、身体が重いだろ?」
フライスは笑顔でロックを見下ろした。
……フライだ。……。
ロックは再びパチパチと瞬きをしていたが、突然、何かに気が付いたのか、ガバッ! と勢いよくベッドから跳ね起き、床に立って敬礼をした。だが、途端に目眩がして、尻餅を付くようにバスンッとベッドに逆戻り。
驚いて身を引いたフライスは、額を抑えて唸るロックに「プッ……」と吹き出した。
「ハハハッ! ダグラスから噂は聞いていたけど、本当にそのまんまだなぁっ!」
お腹を押さえて大笑いされながらも、頭を押さえながら呆然と見上げていたロックは段々とその顔色を焦りに変えた。
なっ、なんでフライがこんなトコにいるんだ!? ここはクリスの軽医療室だろ!?
フライスは、何か言葉にしようと口を開閉するロックの様子を察して、笑顔で横に腰掛けた。
「クリスはちょっと他のトコにいてね。君の手術は別の医務官がやったよ」
「……手術!?」
そんなオーバーな!! と言わんばかりの声を上げると、フライスは苦笑して左耳を顎で差した。
「今はまだ麻酔が効いているからどうってことないんだ。麻酔が切れたら地獄だぞ?」
笑顔で肩をすくめられ、ロックはだらしなくポカンと口を開けた。
……憧れてた男が隣にいる。いつものように優しい笑みで。しかも同じように包帯巻いて。……って――
「なんで包帯、巻いてるンスか?」
顔をしかめたロックの鈍い疑問に、フライスは小さく笑って包帯の上から隠れている自分の左耳を撫でた。
「切ったんだよ。君と同じ所をね」
ロックは更に顔をしかめた。「かまいたちでも流行してるのか?」なんてくだらないことを考えながら。
「わたしたちの他にも、あと一人、同じ所を怪我して手術した者がいる。ライフリンク候補生、Aクラスのアリス・バートンだ」
ロックは大きく目を見開くと、フライスに身体を向けて彼の腕を掴んだ。
「なんだって!?」
「大丈夫。わたしたちと同じ怪我だから大したことはないさ」
「ち、ちょっと待ってくれよっ。な、なんでフライがそんなこと知ってるンだっ? あいつ、今どっかにっ……」
戸惑いを露わにするロックにフライスは優しい笑みを向け、自分の腕を掴む手を握り離すと、彼の顔を覗き込んで肩を叩いた。
「アリス・バートンと同じ怪我をした。……なぜだ?」
「な、なぜって……」
「わたしは艦長としてだろうな。しかし……君は?」
意味不明な問い掛けにロックは眉間にしわを寄せ、困惑げに目を泳がせた。
フライスは一息吐くと、微笑み、腰を上げた。
「わたしは仕事があるから失礼するよ。君はしばらく療養するといい。ダグラス教官には、あまりゲンコツを与えないように言っておこう。頭に響くからね」
「……な、なんで知ってるんだっ?」
驚き身動ぐロックに、フライスはニッコリ笑ってみせた。
「わたしもあいつが嫌いだったんだ」
ロックはキョトンとした表情で、軽医療室を出て行くフライスを背中を見送り、間を置いて、ぐったりと背中を丸めてベッドに深く座った。
――フライスとアリス、そして自分が同じ怪我をした。
なぜ? ……そりゃあこっちのセリフだぜ。
投げやりな気持ちになりながら、ロックは「……はあ」とため息を吐いて俯き、足下を見つめた。
いろいろ考えると気が重くなってくる。だが、そんな雰囲気も次の場面で一掃された。
「今っ……! 今フライが来てなかった!?」
軽医務室に入って来るなり興奮気味に声を上げて覗き込んでくるタグーに、ロックはがっくりと頭を落とした。
「……ああ、いたぞ」
「なに! なんで!? なんでいたの!?」
「……さあな」
無愛想に返事をしながらベッドの上に乗って胡座をかき、そっぽ向いて何も答えない。そんな彼にタグーは「チェッ」と軽く拗ねながらも、頭の包帯にチラリと目を向け、ベッドの隅に腰を下ろした。
「調子はどう?」
「最悪だ」
気遣うタグーに対してろくな返事もせず、ロックはムスッと頬を膨らませた。
「……こんな怪我、早く治せってんだ。医療もチッタァ進歩してるだろ」
「進歩って言ったって……。機械と違って生身の人間だから難しーんじゃん」
宥めるように苦笑するが、ロックの機嫌は直らない。
「こんな傷ひとつ治せねぇなんて……ヤブ医者揃いかここは」
不満を通り越して質の悪いクレーマーだ。
「わがまま言わないの、ロック」
「お前に言われたかぁねーんだよ」
と、ロックは横目で睨み、またそっぽ向く。
タグーは少々呆れ気味になりながらも、「あ……」と、思い出して顔を上げた。
「そういえば、さっきフライを見たけど同じように包帯巻いてたよ? あの最初の緊急ベル、フライだったんだね」
「……みたいだな」
「同じように包帯巻いて、なーんか変だね。で、なんで怪我したかわかった?」
――なぜか無性に気に障ったが、彼に罪はない。
無邪気なタグーに、ロックはそっぽ向いたまま視線を斜め下に向けた。
「……さあな。……俺にはなんもわかんね」
さらりと流されたタグーは目をパチクリとさせ、首を傾げた。
「どうかしたの?」
らしくないというのはロックもわかっていた。しかし、本当に“何もわからない”し、ジタバタと暴れる気分にもなれないのだ。
心配そうな顔で覗き込んでくるタグーにロックは戸惑い視線を逸らすと、間を置いてため息を吐いた。
「……フライが、俺と同じ所を怪我したって」
呟くような小声にタグーはキョトンとし、間を置いて「ええ!?」と目を見開いた。
「もひとつ言うと……アリスも同じ所を怪我したらしい」
「……、えぇー!!」
オーバーな驚き方だが、タグーがやると嫌みじゃない。
「ちょっ、ちょっと待ってよ! ……なんで三人で同じ所を怪我するのさ!?」
「わかんねーよ」
ロックはふて腐れて背中を丸めた。視線を下に向けて口を閉ざしている彼を窺っていたタグーは、深く息を吐くと、同じように磨かれた床へと目を移した。
「アリス、大丈夫かな……」
囁くような言葉にロックは何も応えることなく目を細めた。
しばらくの間、互いに言葉を掛け合うこともなく黙し、タグーはじっと床の一点を見ていたが、ふと、思い出すように顔を上げてロックを見た。
「そういえば、クリスは? どこ?」
「……さぁな」
「ケガの状態、クリスに聞いてないの?」
「ああ。治療したの、クリスじゃなかったみたいだからな。あいつはずっといな、い……け、ど……」
ロックは言葉尻を曖昧に顔をしかめ、そのまま、怪訝そうなタグーをゆっくりと見た。
この医務室の担当医であるクリスがロックという怪我人を放ったらかして長時間も留守にするというのは余程のこと。
その“余程のこと”とは、つまり……?
ロックはバムッと布団を叩いた。
「そうか! クリスがアリスのトコに行ってるからここにゃいないんだな!!」
タグーは「うん!」と笑顔で大きく頷いた。
「クリスに訊けばアリスの居場所もわかるはずだよっ!」
「クリスのヤツ、早く帰ってこいよ!」
「帰ってきてもなんのことだかわからないけどねぇ?」
デスク付近からの聞き慣れた声に、二人は素早く顔を向けた。
「クリス!!」
白衣を脱いでいるクリスはデスクに束ねた書類と電子帳を置き、軽くデスクに腰を下ろしてロックに苦笑した。
「聞いたぞ。どうだ、傷の方は?」
「アリスは!?」
「なんのこと?」
笑顔で首を傾げる、しらじらしい態度にロックはムッと口を尖らした。
タグーはベッドから降りると、訴えるような目でクリスを見上げながら近寄った。
「居場所がどこかなんて訊かないから、せめて元気なのか教えてよ」
クリスは笑顔のままで更に首を傾げた。
「なんのこと?」
「とぼけるなよ!」
ロックはベッドから降りて詰め寄ろうとしたが、傷が痛むのか、「ててっ……」と顔を歪め、ベッドへと後退して座り込んだ。
クリスは、「やれやれ……」と、ため息混じりに腕を組んで苦笑した。
「お前たちは何を言ってるんだ? 俺はトードに行ってただけだぞ?」
「嘘吐けっ」
ロックは頭を押さえながら睨み上げた。
「フライが言ってたんだっ、俺とフライとアリスが同じ所を怪我したってっ。どうせクリスはアリスの治療に行ってたんだろっ?」
クリスはニコニコと笑いながら、その裏で、「あのバカはなんでそういうことをコイツに教えたんだ」と握り拳を作ったが、それを隠して首を振った。
「俺は何も知らないって。……アリスって誰だったっけなあ。女の子の知り合いはたくさんいるからなあ」
目線を上に向けてとぼけ通す、ふざけたクリスに苛立ちを向けたところで通用しないとわかっていても、感情を抑えることが出来ず、ロックは身を乗り出して睨んだ。
「フライは艦長として怪我したんだろ!? 俺は! ……俺はっ……、……」
勢い付いて言ったものの、わからない“答え”にぶつかり、ロックは言葉を失って目を泳がせた。何度も瞬きをして戸惑う彼を振り返ったタグーは顔をしかめた。
――フライは艦長として怪我した? ……ロックは?
ロックの言葉を頭の中で数回繰り返していたが、何かに気が付いたのか、不意に顔を上げてクリスを訝しげに見上げた。
「アリスの……力?」
クリスは心の中で「うっ……。コイツはなかなか鋭いかも」と思いながらもそれを表には出さず、ただニコニコと首を傾げた。だが、その態度で返って核心を突いたのか、タグーは目を見開いてロックに詰め寄った。
「アリスに何か言ったんじゃないっ?」
「……何か、って……?」
「その怪我、アリスが根源だったら話が合うよ! アリスは力が強いから、何かあって無意識のうちに誰かに助けを求めたのかもしれない! フライはアリスと付き合ってるから力の影響があるとしてっ」
――……付き合ってる? と、クリスは不可解そうに眉間にしわを寄せて瞬きをした。
「ロックはっ? アリスに何か言ったんじゃないの!? 助けるとか何か……アリスのためになるようなこと!」
ロックは急かすようなタグーを見つめながらボー……と考えていたが、ゆっくりと俯きながら「……ああ」と言葉を漏らした。
「そういやー……言ったな。……うん。言った……」
呟くような言葉に、タグーはパッと笑みをこぼした。
「アリスは自分の状況をフライとロックに伝えたんだよ!」
「……、ちょっと待てよ。ってことは……」
笑顔のタグーから、ロックは頬を引きつらせているクリスを睨み付けた。
「アイツ、何か、事故に遭ったってコトか?」
タグーもハッとしてクリスを振り返った。当のクリスはとぼけるように彼らから視線を逸らしたが、しかし、心の中では焦っていた。
どうしたらいい!? バレていいのか!? こいつらにバレたら……大変なことになるんじゃないのか!?
「クリス」
タグーはクリスの目の前まで歩み寄って彼を見上げた。
「僕たち、試験のためにずっとがんばってきたんだよ? ……大切な仲間なんだ。なのに何もわからないままこんなコトになっちゃってる。……心配なんだよ」
悲しく訴える、そんなタグーの言葉と視線に、クリスは困った様子で眉間にしわを寄せた。
……しかし、フライがアリスのことを教えたっていうことは、必要以上に隠すこともないってコトなのか?
「クリス」
ウンともスンとも言わないクリスに業を煮やしたのか、タグーは冷静な表情で一歩、ピッタリと寄り添うように近寄った。
「知ってるよ。エンジニアBクラスの女子、口説いて二人でどっか行ったの」
クリスは視線を上に向けた。
そうだ、必要以上に隠すこともないんだな、きっと。うん。
「はいはい。アリス・バートンの手術をしてきたぞ」
肩をすくめて簡単に居直られ、ロックとタグーは「やっぱり!」と、文句を言いたげな表情で身を乗り出したが、クリスはため息混じりに苦笑してそれを制した。
「そんなにひどい怪我じゃない。タグーの言うとおり、彼女の力が二人に影響した、そういうことだろ」
「……事故?」
タグーが不安げに問うと、クリスは腕を組んで深く息を吐き、軽く首を振った。
「さぁなぁ……。当人たちは事故だって言ってたけど」
「当人たちって?」
「ンあんまり訊いてくるなよ。一応、機密事項なんだぞ?」
「いーじゃん、僕たち友だちだろ?」
「いつからだ?」
あっけらかんとしたタグーの言葉に苦笑したが、どちらにしてもここまでしゃべったら続きを言うしかない。観念したクリスは真顔で顎を触った。
「俺が行ったとき……、アリス・バートンはすでに医務室に運ばれていて、その傍に一人、ライフリンクがいた。運んでくれたのは彼女だろうが……どーも怪しかったなあ。けど、その子もアリスも、ちょっとした事故だって言うし。今はそれを信じるしかない」
タグーは少し目を細めて視線を落とし、考え、そしてゆっくりと目を上げた。
「……、いじめられた?」
――漠然とした噂で誰もが聞いたことはある。ライフリンクで“一番力の強い女子”がいじめに遭っているということは。理由は、“その女子”が生意気だから、ということだったのだが……。
タグーの質問にクリスは答えなかった。実際見たわけではないが(見たかったがセシルに追い出された)彼女の身体には無数のアザがあったのは事実だし、それを見てもいじめだということは見て取れる。しかし、当のアリスが何も言わないのだ。
クリスは肩をすくめて首を振った。
「とにかく、アリス・バートンの命には別状はないし、お前らが深く考え込む程のことでもない」
「……なんとかアリスと話ができないのかな?」
タグーがすがるように見上げると、クリスは優しく微笑んで彼の頭を撫でた。
「そのうち戻ってくるんだ。大人しく待ってろ」
「だって、……今もまだいじめられてたら?」
「大丈夫だよ。セシル教官が傍にいるから」
宥めるように答えてはみたが、それがいけなかった。
「セシル教官が傍にいる? ……数時間前にはデルガにいたよね? 僕たち見たよ?」
クリスはハッとして慌てふためいた。
「あっ、いやっ、そのっ……」
「そうか。クリスも教官もデルガからすぐにアリスの所に行けるんだ。ってことは……アリスたちがいるのって遠くない所?」
「い、いや、その」
「教官が簡単に行き来できる場所って言ったら……艦隊群の中?」
一人でアレコレと考えるタグーに、「コイツは鋭いぞ!」と、クリスは焦りながら彼の肩を叩いた。
「ち、ちょっと待て。さっきも言った通り機密事項だ。だから」
「なんの機密事項?」
探偵気取りで目を細めると、クリスは「うっ……」と息を詰まらせた。
タグーはじっ……と睨み付けていたが、埒が明かない状況に見切りを付けようと、「ふぅ」と、一息吐いて試すように方眉を上げた。
「いいよ。何も教えないんなら、僕、偵察機を作るから。クリスの動きをずっと監視するから」
「……。デートの最中も?」
「もちろん」
胸を張って自信たっぷりに頷かれ、クリスはフラ~……と、部屋の片隅に行った。そして、二人に背を向けて小さな声で誰かと話をし出した。
「なんでロックに教えたんだっ?」
というふて腐れた言葉が微かに聞こえる。相手はフライスのようだ。ロックとタグーは顔を見合わせた。
「……ロック」
クリスは耳にはめている通信機を押さえながらロックを振り返った。
「わかったか?」
「……なにが?」
「お前がアリス・バートンと同じ所を怪我した理由」
ロックは顔をしかめていたが、俯いて考え込み、静かに口を開いた。
「……俺、あいつに……その……アリスとタグー、バカにするようなヤツは許さねーって言った……から……だから……」
段々と声のトーンを落としていくロックをタグーは「……え?」と振り返った。
クリスはそのままの言葉を相手に伝える。そしてしばらくの間会話が続き、交信を切ろうとして、最後に「お前、いつからアリスと付き合ってるんだ?」と顔をしかめながら訊いていた。――そのまましばらく会話が続き、クリスは交信を切ってロックを見た。
「はずれ」
「……は?」
「お前がアリス・バートンと同じ怪我した理由、お前の答えはハズレだと、そう言ってたぞ」
ロックは顔をしかめた。……ワケわかんねぇよ。
「はずれたから褒美はあげないそうだ」
いたずらっぽく笑われて、ロックはムカッ! と眉をつり上げた。
「なんだよそれ!!」
「ふざけるな!」と言わんばかりにロックは声を上げたが、また「いてて」と頭を押さえてベッドに深く座り込む。
「その代わり、一度だけ交信させてやるよ。それなら文句はないだろ?」
「ホントに!?」
タグーが嬉しそうな声を上げて身を乗り出すが、クリスはすかさずニッコリと笑った。
「逆探知はさせないけどね」
タグーは「チッ」と心の中で舌を打った。
「地球時間の明日午後六時。デルガの管制塔に来い。アリス・バートンにも同じコトを伝えるから」
ロックは額から手を離すと、渋々「……わかった」と返事をした。
「これでもう諦めるんだぞ? アリスたちはちゃんと戻ってくるんだからな」
「わかったよ。ちゃんと無事なのか、元気なのか、それさえ確認できればいいよ」
タグーの言葉にクリスは安堵のため息をもらしながら「よし」と頷いた。そして、思い出したように言う。
「アリス・バートンとフライは付き合ってないぞ」
タグーはキョトンとした顔でクリスを見た。
「……へ?」
「けど、それもおもしろいかもな、ってさ。さーて、あいつが本気で狙うなら、俺も本気で奪わないとなー」
クリスがいやらしく笑うと、ロックは目を据わらせ、タグーは「二人の趣味ってわからない……」と首を振った。
――フライ艦隊郡内、サブレット軍艦、管制塔。
深夜何時ぐらいだろう。かなり遅い時間帯だということはわかっている。通路を歩いていても誰一人としてすれ違わず、通り過ぎる個室からは談笑する声も聞こえなかった。
艦内は気味が悪いくらい静まり返っていて、たまにコンピューターの作動音が微かに耳に入るが、そうとわかっていれば驚くこともない。
看病疲れだろうか……。医療室で、セシルは椅子に座ったままベッドに顔を伏せて眠ってしまった。初めて見る寝顔に、教官としてではなく“一人の友人”に対して感謝の気持ちを心の中で呟き、起こさないようにそっと毛布を掛け、アリスは傷の痛みに耐えながらここまでやってきた。
コンピューターデスクやモニターがずらりと並ぶ、その奥の向こう、壁一面が強化ガラスになっている場所にペタンと座ると、目の前の宇宙空間を、何を考えるわけでもなくただじっと見つめた。一定の波があるのか、時々傷が痛みを増すが、それを声に出すことも顔に出すこともない。
肌にベットリと付いていた血痕は、その後セシルの手伝いもあって綺麗にお湯で拭き取り、服も新しく着替えた。ただ、頭に巻かれた包帯だけが痛々しい雰囲気を残している。
『星に何かを刻もうか。一つ一つ……。そしたら、忘れそうなことも、星を見上げれば思い出すことができる』
フライスが以前言っていた言葉――。
アリスは虚ろな瞳で星に手を伸ばした。服の裾から見える腕には青いアザが浮き出ている。
……星に何を刻もう? 刻めるモノが……ない……――
もう、涙は枯れてしまった。ここに来て泣かない夜はなかった。一部の先輩たちによる暴力で――。
『あんたがたかが訓練でインペンドを壊していってるせいであたしたちまで迷惑してんの』
『力が強いことをアピールでもしてるの?』
『この子、男癖も悪そうよ。クリスに親しそうに声掛けられてたし』
『嘘! ショック!!』
『最悪ね』
『こういう時しかあんたにお目見えできないからね。うるさいセシルもたまにしか来ないし』
『ねぇ、あんたを宇宙に放り出してあげようか? 消えちゃうかな?』
『あはははは!』
アリスはゆっくりと手を下ろして体育座りをすると、膝の中に顔を埋めた。
……いつからだっただろう? 確か……地球にいた頃からだ。力を使えるのが普通だと思っていた。みんなが使えるものだと思っていた。けれどそれを友だちに言うと、「証拠を見せろ」と笑われ、ペンをいとも簡単に動かした途端、それは噂として大きく広まり、みんなの興味を引き、そして最後には気味悪がられた。力のことがバレる度に転校し、それが何度となく繰り返されると親にまで愛してもらえなくなった。フライ艦隊群に来れば同じような人たちと巡り会い、今まで辛かった分、きっと楽しい日々を迎えることができると信じていた。……そう信じていた。
どうしてみんなと一緒になれないのかがわからない。愛されない理由がわからない。
アリスはゆっくりと顔を上げた。目の前には暗闇が広がり、一人だけポツンと取り残されている気になる。
……これから先、どうしたらいいんだろう。どうしたら……。
強化ガラスに映る自分の姿を見て悲しみで息が詰まり、目が熱くなり、鼻の奥がツンと痛くなった。
今日の怪我も、追い掛けられ、躓いた所を捕まって、頭を堅い靴底で踏まれた。
もう、何もかもを諦めた。心を無くしそうだった。だが……
アリスは、奥歯を噛み締め、ギュッと山にした足を抱いて感情を抑えた。――その時、遠く、そう本当に遠く、一筋の光の柱が見えた。右斜め上に真っ直ぐ伸び、一瞬で消えた。
視界の片隅でそれを捉えたアリスは顔を上げ、目を細めた。
またどこかで戦争が始まった……。どうして傷付くことばかりするんだろう。きっと、そんなの誰も望んでいないはずなのに……。
絶望にも似た、重い空気を身体で感じながら深く息を吐いた。
レーザービームか、そこら辺の攻撃法だろう。もうすぐしたら無数の光の玉が見えるはずだ。ここまで危害はないだろうが……おそらく戦死者は出るはず。そう思って目の前の空間を見つめていた。が、いつまで経っても予想していた事態が起こらない。
アリスは小さく首を傾げた。
そういえば艦隊らしき影がどこにも見えない。じゃあ今の光は? 隕石? ……違う。確かに“光の柱”だった。真っ直ぐに伸び……て……。待って。あんな光の形って、今まで見たことない。……なんだったんだろう。
アリスはゆっくり立ち上がると、背後に並ぶコンピューターの一つ、動作パネルに近寄り、艦外感知システムを起動させて今の情報がないかを確かめた。だが、コンピューターは何も感知していない。
訝しげに再び宇宙空間に目をやった。
遠かったけど、あたしの目で見て取れる距離だから何も感知していないのはおかしい。あれだけの光の柱、何かのエネルギー砲みたいだったし。……どうしてコンピューターは感知してないんだろう。
首を傾げながらパネルの前の椅子に腰掛けた。オペレーターとしての知識はないが、少しぐらいならコンピューターに問い掛けることはできる。
アリスは、コンピューターの自動制御を支障のない程度一部解除して、母艦に気付かれない時間制限20分の手動に切り替え、タッチパネルのキーボードを呼び出すとそこに質問をした。
【現時間から逆算、五分の間にエネルギー放射反応、またはレーザー放射反応は?】
ENTERキーを押すとしばらくして【NO】という表示が出る。
アリスは首を傾げて再び質問をした。
【換算距離50キロメートル以内にエネルギー放射反応、またはレーザー放射反応は?】
【NO】
【換算距離100キロメートル以内にエネルギー放射反応、またはレーザー放射反応は?】
【NO】
アリスは顔をしかめた。それ以上離れていることは絶対にあり得ない。それ以上距離があったとしたらフライ艦隊群を丸々飲み込んでしまうだけの問題じゃなくなる。近隣惑星の衛星をも飲み込んでしまう程の巨大な光の柱になってしまう。
アリスはしばらく考えた。放射性物質じゃなく……時空性のもの? けど、あれは誰かの手によって発射されたものとしか……。
自分が得ている知識を深く掘り起こしながら、もう一度質問した。
【現時間から逆算、十分以内にエネルギー放射反応、レーザー放射反応は? または時空の歪み、ダークマター、ガンマレイバースト、レディオギャラクシー】
そこまで質問して手を止めた。
けど、やっぱり宇宙物質が生み出したものではない気がする……。
アリスは大きく息を吐いた。
コンピューターに何も感知されていないんだったら……きっと目の錯覚だろう。
そんなことを考えながら、アリスは手を付いて立ち上がると医務室に戻るために歩き出した。あまり長居をするとセシルが目を覚まして心配してしまう。少し気に留めながらも管制塔から出るその時、アリスは気が付かなかったがコンピューターが何かを弾き出していた。先程、立ち上がる際に手を付いた時、指先が軽くENTERキーを押してしまっていたのだ。コンピューターが質問に答えている。
モニターには、
【YES.GAMMA・RAY.90%.erg.MEASUREMENT.ERROR.】
という赤い文字が刻まれていた……。




