4.天国への階段
──静まり返る部屋の中、何事もなかったかのように御神様が言い放つ。
「高科、ツィゴネルワイゼンで春コンに一人追加だ。一ヶ月でこの通りに完成させろ。出来なければ退学だ」
「え? 彼女を? いきなり? しかも最高難易度だよ?」
高科は驚いた顔で、彼女と御神の顔を交互で見る。
「春コン?」
何ですか? それ?
一ヶ月で先程の神と同じ演奏?
いや絶対無理でしょう? ド素人凡人ですよ?
「高科こいつ譜読み出来ない。持ち方から姿勢、ボーイング全ての基礎を二週間で叩き込め。楽譜通り正確に仕上げた後に、今のを再現させろ」
「は?」
「え?」
部屋の皆が静まり返った。
「毎日レッスン風景を動画で俺に送ること。あとでカリキュラムを高科に送る。それまで貸しておいてやるよ」
「え? えええ?」
──トントントン
「御神先生、お時間がもう。早く!」
少し若い気の良い感じの男性が、急ぎながら部屋に入って来た。
「待たせとけよ。あ、俺の名刺。それと明後日の席一枚」
「無理ですよ完売ですし。無茶言わないで下さいって」
男は泣きそうな顔をしながら一生懸命、小さくなって謝っている。
「あけろ。あ、財布貸して」
「へ? え?」
突然、御神様はその男性の鞄を開け、中から財布を取り出した。
「とりあえずはこれで。足りなければ由紀に請求しろ。他は高科に何でも相談するといい」
え? ええええ? 足りなければってそれ……
三十枚ぐらい? が束になった、一万円札の束を渡された。
「え? こんなに? 頂けません」
「誰がタダでやると言った? 1ヶ月でモノにならなければ全額回収する」
「ぇ?」
「先生。もう本当にお時間が、リハ始まってしまいますって!」
名刺の裏にサラサラと数字を書いて手渡された。
「連絡先だ。登録したら必ず処分しとけ。あとは高科の言う通りにしろ。高科あとは頼んだぞ? 後でメニュー送るから」
「え? は? ええええええ?」
あまりもの突然の内容に拒否することすら忘れていた男は、口をポカンと開けたままだった。
「帰国するまで高科教室に入れる。レッスン室は俺の部屋使うように。別メニュー組むから枠だけ確保してくれ」
「あ! あの、御神様。お願いがあります!!」
「あ? まだ何かあるのか?」
眉間に皺を寄せ、明らかに不快な顔を一瞬見せた。
その顔に少しだけ躊躇したが、今しかない! と思う気持ちが強く言葉にしていた。
「も、もう一枚あの記念に、お名刺頂いても? サ、サインとか頂いても?」
「……」
「き、君! いきなり何てことを! 先生本当にもうお時間が」
やっぱり厚かましいですよね。うん。すいません。
だってもう二度と会えないかもなんだもん。
あの御神 貴志が目の前にいるんだもん。記念に欲しいんだもん。
御神様がツカツカとピアノに向かって歩いて行く。
譜面台にあった楽譜を無言で取り上げ、内ポケットから万年筆を取り出したかと思うと、楽譜に何やら記号のような物を書き込んでいる。
ボーイング? アップとダウン記号?
「あ、あの世界の御神が……ボーイングを手書きでスコアに……」
その姿に、一同が驚愕していた。
「先生。早く」
「残りは高科に教えてもらって自分で書き込め」
タイトルの横に彼が自分の名前を書き入れる。
見慣れたサインではなく「御神 貴志」と書き入れた横に見慣れたサイン「T.Mikami」と書き入れた。
え? これって世界で一枚しかない?
「有り難う御座います! 先生!」
名刺を取り出し、裏に名前を書き入れて渡された。
「しっかり練習しとけよ? 佐々木、一ヶ月後の日本のエア取っておけ」
それだけ言って神が去ろうとした瞬間、私は居てもたっても居られない気持ちで、気づいたらバイオリンを手にしていた。
低い哀愁から始り一気に駆け上がる──
「は?」
「一度聴いただけで?」
──パンッ
はっ! 私ったら神の前で!
御神様の叩いた両手の音で我に戻った私は、恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちだった。
「とりあえず、今は一から基礎を身体に叩き込め。正しい奏法をちゃんと身につけてからだ。いいな?」
神が優しい目で私に諭すように言う。その甘い声に私は目眩がしそうになり、無言で頷くだけが精一杯だった。
「……」
「先生、早く!!」
「煩いなぁ。ったく行けば良いんだろうよ行けば。じゃあな。ちゃんと毎日送れよ?」
神が優しく微笑まれ、去って行った。
それは、眩しいぐらいの柔らかな笑顔だった。
◇
「桜井さん? 取り敢えず入学手続きをしましょうか、高科先生もご一緒して頂いても? あと、これね。貴志のプレゼント」
由紀お姉様が、愚民に微笑まれる。
う、美しすぎる……
確か、もう40歳近いはずよねぇ? 御神様とかなり歳が離れていたはず。
そのお歳でこれは……
やはり妖精さんは歳をとらないのかしら。
御神 由紀──その容姿から現役時代は男女ともにファンが多く「天使」や「妖精」と言われていたが、その音色は艶があり、華奢な身体からは想像が出来ないぐらいダイナミックな演奏家として世界に知られていた。
現在は自らの公演を開くことは殆どなく、後世を育てることに心血を注いでいた。
彼女から受け取った先程の録音CDを手にしながら、私は口元が自然に緩み、ずっと笑っていた。
「ちょっと? さ、桜井さん? 大丈夫?」
閉めようと思っても、嬉し過ぎて緩み開いてしまう口元に、微妙な空気が漂っていたことは、言う間でもなかった。
◆◆おまけ◆◆
ボーイング(運弓)記号:アップ=弓先側から上げ弓Vの字を音符の上に書いていきます。ダウン=下げ弓 箱型記号手元側から
一般的にはクレッシェンド(段々強く)する場合アップ記号、その逆がダウンとなります。
ただし、演奏者の解釈次第で全く違う風になることもあります。




