コメは本当に主食なのか?百姓は訝しんだ
日本の主食とは米であり、日本人は昔からもっぱらコメを食っていた……という、謎のイメージが当たり前のように定着してしまっている現在、それは違うよ!とは大変言いづらい。言いづらいのだが言わねばならぬと思うので言う。
日本人にとって、コメは唯一の主食などではなかった。せいぜい第二次世界大戦のあと、あらゆる混乱が収まってから、国家の主食はコメであると定め、その増産の機運のなかでようやく、庶民が毎日コメを食べられる条件が整っただけなのだ。
ここ最近、日本人のコメ離れ、などとマスメディアは分かったようなことを語るが、何を言うか。日本の歴史を仮に2600年前後と仮定してコメを本当の意味で主食に出来ていた時代などせいぜい100年かそこらだ。コメとは日常食ではなく、たまのごちそうであった。私はそう固く信じている。
さあ、主張を出すなら根拠も述べるべきだろう。なぜコメは主食ではなかったのか。
それは、コメを作る上で必要な労力が莫大であることだ。現在機械化でスッカリ忘れられているが、水田の維持管理に費やす労力はとんでもない。
もしもそのすべてを手作業でやろうとなったらゾッとする。春、雪解けとともに去年の秋に振り積もった落ち葉を用水路からクワとフォークでかき出す。これが溜め池から田んぼまで2キロメートル前後。
次に土手のネズミ穴を塞ぎ畔塗り。一人でやろうものなら丸一日かかっても田んぼ1枚やりきれない。
そうこうしている内に種まきが迫ってきて、田の土を数百kgぶんも運んできて砕土。苗箱に土を敷き上から覆土して水をやり、芽が出たら苗箱を一輪車に積んで、苗代という、水を浅く張った用地に移す。田植えはそこから苗を積み出しして田んぼに持っていき、手で苗をちぎっては植え、ちぎっては植える。
おっと、田んぼの方だって準備がいる。田起こしで田んぼの固まった土に空気を入れ、酸素が必要な微生物を叩き起こして去年の藁を腐らせる。大方藁が腐ったら、余裕があれば肥料もやりたいところ。まあ機械が無い前提なら肥料はやらなくていい。梅雨の時期の雷雨を待つほうがカネがかからない分いくらか心が楽だ。
などなど。まあコメを作るには底なしの労力がかかるのだ。米の字を分解すると八十八の〜などとよく言うが、私は機械のなかった時代にこれを一から地道にやっていたとは全く思っていない。日本国内の人口からしてもできるわけがない。おそらくだが税で徴収される分にプラスして、村内の祭りで使う分を作るほかは、主食は別の物だったはずなのだ。
ならば農村の主食とはなんだったか。私は十中八九、里芋と小麦、さらにサブで蕎麦と稗であったろうと思っている。これは個人的に結構自信がある。なぜなら里芋と小麦の組み合わせは収穫期がちょうどよくズレていて、1年間途切れずカロリー源として食べ続ける事ができ、コメのように天井なしの労力を吸い上げる作物ではないからだ。
イモはご存知のとおり、耕した畑に植えるだけでいい。その後は放置で構わない。家で寝ていようが遊び歩いていようが出来るものは出来るのである。叶うなら肥料分としてカミナリがほしい。激しい雷雨が7月から8月に2回程度あるとグンと出来が良くなるはずだ。
小麦も芋に比べればちと面倒だが、なに、水田を作る思いをすれば何のことはない。晩秋に種をまいて梅雨前に収穫する。肥料を食う作物ではあるが肥料無しでもおおよそ標準の半分くらいの量は穫れる。となれば汗水垂らして刈敷などやるより、撒いて真冬に麦踏みしあとは収穫を待てばよいのだ。
この2つが日本人の真の主食であったはずだ。この2つを常食にして神様に捧げたりお殿様に税として納めるコメを作っていた。そういうことだと思うのだ。
そして里芋と小麦のうち、小麦は戦後すっかり廃れてしまった。アメリカの安い小麦に勝てなかったからだ。麦粥や麦飯が標準的だった日本の食事は、米なら白米のみ、小麦ならパンか麺類、と、文化が刷新された。
だが、現代、水田の維持管理にはとうとうガタがきている。水田を維持管理する主力層の年齢はもう70歳に届かんとしていて、かといって若い人にやらせるにはとてもではないが、大変な割に儲からなさすぎてオススメできたものではない。
そういうとき、私はぼんやりと、小麦をちゃんと育てられないだろうか……と考えるのである。
小麦だって儲からないだろうと言われれば確かにそうだ。手間こそ少ないが機械代をペイできないとはよく言われる。
だが、忙しい現代人は圧倒的にパンを食する機会が増えた。当たり前だ。膳を用意するより袋を開けてすぐ口に運べるパンのほうが早いのだから。仕事がパンパンに詰まっている日、ご飯とみそ汁を用意する時間などない。ならそこに合わせていくのも百姓の選択の一つではあるのではないか。
現状を目の当たりにしているくせにまるきり無視して、お米を食べましょうなどとのたまうのは生産者の傲慢にしか見えないのだ。
アメリカの小麦に安さで勝てる日こそ来ないだろうが、秋にまいて春に農協に機械を集約して刈ってもらい、小麦の売り上げをいくらかの足しにして、夏の間は別の作物を……というサイクルは作れそうな気がする。どうだろうか。求められるものを作るというのはすなわち、生産者の一つの責務だと思っているのだが。
コメって無理して作ってるよなあとは小学生の頃から長らく思っている。いくら集約農業の形を整えても水田の管理がとにかく莫大な労力を飲み込んでしまうからだ。
陸稲という手もあるが、やはり企業勤めと並行して畑と田んぼをやっている時、パンの方が手軽だよなと思ってしまう。ひいてはそのパンに使う小麦も、アメリカに勝てずとも自分の国で作れる算段だけはたてたいのだ。……なーんて、実現もするまいが言いたかったので言ってみただけである。暇庭は今夜も二毛作の夢を見る。




