8 彼女を描く
「……っ!」
まるで、渇きに耐えかね水を貪るような勢いで空気を吸った。己の喉が発した鋭い音に打たれ、那子は弾かれたように上体を起こす。
全身がびっしょりと濡れ、浴衣が肌に張りついている。視界に見慣れない壁が飛び込んで束の間混乱したが、状況を思い出して大きく息を吐いた。
(砂川露景のお家にいるのだわ)
那子は隣に敷かれた布団に目を向ける。子ども用の寝具の中で、狸姿のたぬ子が健やかな寝息を立てて眠っている。先ほどまで体験していた恐怖は夢であったのだと理解して、那子は身体の力みを手放した。
汗でべたつく肌が不快だ。たぬ子に目覚める気配がないことを確認すると、那子はそっと布団から抜け出して、内縁に出た。山間にある砂川邸には電気や瓦斯はもちろんのこと、水道も通っていない。井戸で水を使い汗を拭おうと、縁板を滑るように進む。
悪夢の名残で、まだ微かに手が震えていたが、覚醒して時間が経つごとに、早くも夢の記憶が薄れてきている。今や、どんな内容だったのか、断片的にしか思い出せない。
沓脱石で下駄を引っかけ庭に出ると、初夏の夜風が袖を通り抜けた。涼やかに肌を撫でる空気が心地よい。
誘われるようにしてふと、微風がやって来た方角に顔を向ける。母屋からぼんやりと明かりが漏れているのに気づいた。雨戸を閉めておらず、石油洋燈の黄色い光が揺れながら障子に映っている。
そういえば露景は、夜通し絵を描くことがあるのだと言っていた。
朝餉を共にとったきり、昼も夜も膳についた様子のない露景。その上、徹夜などしたら身体が保たないのではなかろうか。
しかし那子は、ただの雇われ妻だ。雇い主の事情に深入りするべきではない。そうわかってはいるのだが。
もしかすると、勇気を出して一歩近づきさえすれば、やがて心が開かれて、本当の家族のような情の欠片を零してくれるようになるのではないか。そんな淡い期待が胸に灯り、那子は井戸水で汗を拭うと台所に向かう。
露景が食べるかもしれないと思い、多めに炊いた昨日の米が余っている。那子は冷や飯を茶碗によそい、茶漬けの用意をするとお盆を手に取り、ぼんやりと光る障子の前に立った。
「あの、旦那様」
灯火が揺れる影だけが、無言の返事を寄越す。耳を澄ませば室内から、筆先が紙を擦るような軽やかな音がした。
集中しているのだろう。邪魔をしてはいけない。
急速に勇気が萎れ、那子は廊下にお盆を置いた。認知だけはしてもらおうと考え、薄らと障子を引いてもう一度控えめに呼びかけた。
「旦那様、もしよろしければ」
言葉半ば、目に入った光景に声が奪われた。
床に数枚、黒く下処理された紙に鮮烈な紅で描かれた花が咲いている。右腕がぞくりと疼き、思わず腕の痣を抱く。黒と赤の対比に、己の腕に刻まれた醜い痣を想起してしまったのだ。
だが、それはただの錯覚で、実際のところ、畳に散らばる紙上で細長い無数の花弁を広げるのは、厳かな美しさを誇る彼岸花の群生だ。
細く息を吐き、視線を移動させる。
死者を導くともいわれる幽玄の花に見守られる畳の一間には、名前も知らない画材が整然と積み重なっている。現在取り組んでいる作品はまだ彩色段階にはないと見え、擦り棒をもたれかけさせた鉢は空で、積み重なった絵皿にも岩絵具の彩はない。
だが、那子の目を釘付けにしたのは紅の花々でも物珍しい画材たちでもない。座布団の上で前屈みに背中を丸め、和紙を張った板と向かい合う露景の姿である。
意外と骨張った大きな右手には細筆があり、下絵用の薄墨をたっぷりと含んだ筆先が、紙に優美な線を描いていく。
作り物のように滑らかな頬は昼に見た時と変わらない。湖面を想起させる静かな瞳は石油洋燈の光を映し、生来の藍色と混じって緑を帯びる。その中に、どこか切なげな色を見て、那子は息を呑んだ。
幸福だった頃を懐かしむような、もう二度と指先が届かない何かに焦がれるような。そんな瞳が見つめるのは、薄墨で描かれた女性の姿だ。
顔面はまだ描かれていないが、顎の形や豊かな頭髪といった輪郭が美しい。そして、彼女の尻の辺りには、ふっくらとした尾があった。
(たぬ子さんの母親……きっと、旦那様の亡くなった奥さんだわ)
確信を抱いた途端、すでに萎れていた勇気は跡形もなく砕け散る。
見てはいけないものを見てしまった。
たぬ子の母親がいつ亡くなったのか、明確には聞いていない。しかし、露景が娘を引き取ったのは、一ヶ月ほど前だと言っていた。ならば、その母親が命を落としたのも同時期なのかもしれない。
露景の心には今でも、あの女性が住んでいる。他人が軽々しく踏み込んでいい場所ではないし、何よりも、深入りしてしまうことが少し恐ろしい。
これから何年共に過ごそうと、露景にあのような目をさせることなど、那子にはきっとできやしないのだから。
那子はそっと障子を閉めて、逃げるようにして踵を返す。
露景の仕事部屋に漂っていた画材の匂いと、白い和紙から那子を見上げていた亡き女性の輪郭が、記憶に焼きついて離れない。




