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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第一話 その面影を忘れぬように、妖怪画家は彼女を描く

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7 いつかの記憶

 濃紺の夜に、糸のような月が浮かんでいる。星々が銀色の光の川となり、鬱蒼とした森を見下ろしている。


 漆黒が沈殿する暗い山道。自身の足すら見えないほどの闇を裂き、息を弾ませながら女が疾走している。火がついたように泣く幼子の声が、木々の間を反響する。


 これは、幼い頃の那子(なこ)の記憶。那子は声を上げて泣きながら、女の腕の中で揺られていた。


 何かが、背後から迫っている。女の呼吸よりも獰猛で鋭い。音の中に生臭い死臭を感じさせるような、獣の息遣い。


「もう少し、もう少しだから、大丈夫よ……」


 喘鳴混じりの女の声が、那子の耳朶を揺らす。


 やがて森が開け、前方の地面に微かな煌めきを見た。湖だ。さざめく水面が星明かりを鈍く反射して、時折淡く光っている。


 暗闇でほとんど周囲が見えないはずなのだが、女は迷いのない足取りで湖岸へ駆けて膝を突いた。片手で那子を抱えながら、地面をまさぐるように撫でる。やがて、大人一人が座れば満員になってしまいそうな小舟を見つけると、その上に那子を仰向けに横たえた。


「ごめんね。こんな目に遭わせて、本当にごめんなさい。どうか、湖の主のご加護を」


 見上げた女の顔は、星の川の逆光になり暗く塗りつぶされているのだが、目があるべき場所辺りから、きらりと光る雫が滴り落ち、那子の頬を濡らした。


「ごめんね」


 女は慈しむ手で那子の額を撫でる。やがて、名残惜しさを断ち切るように大きく息を吸い込むと、小舟を押して湖の中央へと流した。


 いつも側にあった体温が遠くなる。やや遅れて、けたたましい獣の咆哮が群れて迫り、闇を切り裂くように鮮烈で痛ましい悲鳴が上がり……そして女の声は永遠に消えた。


 ちゃぷん、と水が小舟を打った。


 岸から離れると、獣の息づかいも遠くなる。孤独の波に揺られ、那子はいっそう嘆きの声を張った。


 普段ならば、こうして泣けば誰かがあやしてくれるはず。しかしこの日、辺りに広がるのは茫洋とした湖だけだ。水も闇も、那子を抱き締めてはくれない。


 そうしてどれほどの時間泣き叫び続けただろう。異変は突然訪れた。


 ざわざわと波が立ち、小舟を揺らす。何かが水を掻く音がする。岸の方角から、よくないものが接近する気配がする。


 言葉も知らない赤子の那子。何が起こっているのか、理性的な理解には至らない。しかし、燃え上がるような焦燥と、それに誘発された発汗が、那子の全身を不快で包み込む。本能的に危機感を覚えているのだ。


 やがて、すぐ近くで何かが動きを止めた。静寂が再び世界に垂れ込める。その中に微かに漂うのは、獣の呼吸音、そして生臭い鉄の香り……。


 ぞくりと背筋が震え、喉を掴まれたかのように声を封じられた。


 しん、と不穏な沈黙の後。機を捉えた獣が咆哮を上げ、小舟に飛び乗った。那子の右腕に激痛が走る。ぼとりと鮮血が流れ落ち、散った雫が花弁のように湖を汚した。その時だ。


「我が領域を汚すとは、恐れを知らぬ者め」


 不意に、水面が割れた。


 全ては一瞬のことだった。那子を追っていた獣は哀れっぽい声を上げ、波に呑まれて姿を消した。


 水を裂いて現れた者の姿が、銀色に煌めいて見えたのも一瞬のこと。水しぶきが上がり、きらきらと舞う水滴が、舞い散る星のように空から降って来るのに目を奪われているうちに、小舟が転覆し、那子は水面に叩きつけられた。


 光というものが存在しない水底の世界から這い出した冷たい闇が触手を伸ばし、那子の全身をがんじがらめにする。ねっとりと纏わりつく水に引きずり込まれるようにして、そのまま暗黒の中へと呆気なく沈んでいく。


 痛い、苦しい、恐ろしい、嫌だ、助けて。


 そんなありったけの悲痛を込めて泣き叫ぼうにも、水泡しか出てこない。息を吐けば吐くほど、意識が朦朧とする。腕の咬傷から、命がどんどんと流れ出ていく。


 その時、ほとんど気を失いかけた那子の耳に、水中にもかかわらず妙に明瞭な男の声が届いた。


「神も神なら巫女も巫女。随分と図々しい。しかし……には……みはない……」


 水に溶けゆく淡い意識の中、誰かに右腕を引かれた。そんな心地がした。

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