6 心を読む妖怪
「たぬ子さん……たぬ子。だめ。全然見つからない」
かくれんぼの開始から、もう一時間は経っただろうか。思わずぶつぶつと独り言が零れるほどの時間、那子はたぬ子を探して歩き回っていた。
山間の少し開けた場所にぽつんと建つ、砂川家。土地を取り合うご近所さんもいないため、敷地は広大だ。
庭は、縁側から離れるにつれ人の手が届いていない部分が目立つ。一応、敷地の内外を仕切る竹塀はあるのだが、人間が決めた境界線など植物にとっては何の意味もなさず、ところ構わず下草が繁茂している。
胸の辺りまで届く高さの篠笹をかき分けてしばらく。気づけば那子は、塀の破れ目から庭の外へ出てしまっていた。
建物からやや離れると、山らしい起伏に行き当たる。さすがに行き過ぎたかと思い引き返そうとしたが、ふと、視界の端を素早く横切る茶色がかったものが見えた。ふわふわの体毛に覆われた四足歩行の生き物の影。たぬ子だろうか。
那子は反転しかけていた足を戻し、急峻にそびえる小さな崖沿いに影を追いかけた。
「たぬ子さん? ねえ、ちょっと疲れちゃった。そろそろお家に戻りたいな。かくれんぼはお庭でやりましょうよ」
呼びかけるが、返事はない。その代わりに、やや離れた藪が揺れた。生き物の気配だけは確かにある。
那子は額に薄らと浮いた汗を拭いながら、がさごそと音の鳴る方へと足を進めた。茂った葉が脛を撫で、細かな傷がついてしまったようで痛痒い。
たぬ子の名を呼びながら草を踏み分け、先ほどの影が消えた辺りに向かって行くのだが、あいにく直進は斜面に突き当り、行き止まりだ。
影は、左右いずれかの獣道に入ったのだろうか。どちらに進もうかと首を巡らせた那子の目の端に、ふと、奇妙な物が映って視線が止まる。一拍遅れて、ぞわりと総毛立つような悪寒が走る。心なしか、右腕の痣に虫が這うような不快な疼きが走った。
それは、那子の拳ほどの大きさの横穴だった。苔むした崖の斜面に複数空いたそれを覗いてみるが、真っ暗で果てが見えない。生き物でも潜んでいたのだろうか。しかし土竜にしては穴が綺麗だし、昆虫にしては太すぎる。ならば考えられるのは。
(もしかして……)
「蛇じゃないぜ」
まるで思考を読んだかのように、声がした。喉の奥で小岩を転がすような、ごろごろとした男の声だ。
那子は足を止め、声の主を探して辺りを見回す。小鳥のさえずりと、微風に枝が擦れる音がのどかに響いている。
「『大きな蛇だったら、たぬ子が丸呑みにされてしまうかもしれない』……たぬ子? 変な名前だな」
「誰?」
那子が心の中で呟いたのと一言一句同じ言葉を発す、姿の見えない男。不気味さを覚え那子はぶるりと身体を震わせた。
「『誰なの? 怖い』? ああ、怯えるな。別に害意はないさ。あんた、あそこに住んでいる男のつがいなんだろ。……あれ、『違う』? へえ、そうなの。そりゃあ好都合だが」
「ど、どうして私の考えていることが……」
「それが俺の一族の能力だからさ」
揶揄うような響きを帯びた声と共に右手の藪が揺れ、赤茶色の長い毛に覆われた獣が姿を現した。
「さっきの影はあなただったの?」
「お探しのたぬ子じゃなくて残念だったな」
それは、長毛の猿のような容貌をしていた。長い四つ足で那子の足元にやって来ると、彼は器用に後ろ足で直立する。那子の腿辺りまで身丈があった。
「あなたも妖怪なの?」
「ああ。人間からは覚と呼ばれている」
「さとり」
「俺の一族は、他の奴が考えていることが全部見えるんだ。あんたが俺の言葉を半分くらいしか信じていないってことも丸わかりだぜ」
「……」
那子は口を開きかけ、言葉を探して結局閉ざす。
目の前の猿は、記憶にある限り那子が人生で二番目に出会った妖怪だ。一番最初はもちろんたぬ子。たった二日で二種の妖怪と出会うとは、思いもよらないことだった。
かつて、東京が江戸と呼ばれていた頃には、人のすぐ隣にあやかしの者らが棲んでいた。しかし、電灯が普及し夜の闇が人間の営みに切り開かれ、神威や怪異が科学という知恵の結晶により暴かれるようになると、彼らはどこかへと消え去った。今や帝都に妖怪はほとんど出ない。
しかし、砂川露景が妖怪を描き、妖怪記事が新聞の三面を騒がせるように、確かに今も、彼らはこの国に存在している。森に、海に、暗がりに……人の手の届かない領域に、変わらず潜んでいるのである。
(この山には妖怪がたくさん暮らしているのだわ。だから旦那様は、妖怪画を描くためにここで暮らしているのね)
「確かに、この山には妖怪が多いぜ。ここは昔から、山神に守られていて人間の開発の手が及ばないからな。だが、あの男は妖怪に会いたいからここに住んでいるわけじゃない」
覚が唇をめくり、腰に手を当てて言った。どうやら笑みを浮かべているらしい。
「逆だよ逆。あの男は、この山で暮らす必要があったから、結局妖怪画家になったんだ。お、興味があるんだな? 砂川露景のこと、色々と教えてやってもいいぜ」
那子は、含みのある表情で語る覚を見下ろして躊躇った。
砂川露景のことを、那子はほとんど知らない。彼が身に纏う浮世離れした気配や、時折藍色に沈む瞳に潜んだ陰の正体を、知りたいと思う。
だがしかし、それらを本人の許可もなく暴くのは、やはり気の引けることでもあった。
那子と露景は、籍を入れてはいない。子ができるまではそのままでと、事実婚の関係を結ぶ男女がまだまだ多い世の中なのだ。
そもそも那子たちの実態は事実婚ですらないのだから、家族という名前をつけられたこの関係も、ふわふわと浮かぶ雲のように捉えどころのないものだ。
何者でもない子守女中代わりの雇われ妻が、主人の事情に踏み込むなど身の程知らず。
那子は頭を振って、どんどんと重たくなっていく思考の靄を払ってから、小さく息を吐いた。
「何を企んでいるの?」
「へへっ、別に悪いことは考えちゃいないさ。俺はただ、あんたとお近づきになりたいだけさ」
「私と? どうして」
「それは」
その時だ。
覚がはっと顔を上げ、突然後ろに飛び退る。続いて、黒い塊が「だめー!」と叫びながら飛んで来て、先ほどまで覚が立っていた場所に着地した。
「だめだめだめ! たぬのおっかさんだから、近づいちゃだめー!」
「た、たぬ子さん?」
探していた子狸が突然現れて、那子は理解が追いつかず瞬きを繰り返す。たぬ子は狸姿で仁王立ちし、小さな牙を剥いて覚を威嚇した。
「だめだめー!」
「ちっ、うるせえな。わかったよ」
覚は忌々しげに吐き捨てて、那子ににやりと笑みを投げる。
「じゃ、また会おうぜ。今度はガキがいない時にな」
答える間も与えずに、覚は茂みの暗がりに溶け去った。
下草の揺れが止まると、様子を窺いながら、といった調子で小鳥の声が戻ってくる。地上での騒ぎを警戒し、彼らは囀りを休止していたらしい。
赤茶色の背中が消えた辺りを呆然と眺めていた那子は、控え目な小鳥の歌を耳にして我に返った。膝を曲げ、たぬ子と軽く視線の高さを合わせて言う。
「たぬ子さん、探したのよ。かくれんぼは楽しいけれど、お庭から出ちゃだめよ」
「えー何で」
「危ないから。さっきみたいに不思議なひとに声をかけられちゃうかもしれないし……それよりたぬ子さん。あのひとを知っているの?」
「知らないっ!」
ぷいっとそっぽを向かれた。
「あのひとは知らないけど、覚は嫌な妖怪」
「どうして?」
「おっかさんが取られちゃう」
「どういうこと?」
問いかけるが、たぬ子は首を横に振るだけで、要領を得ない。
(覚。聞いたことのない妖怪だわ。妖狸と仲が悪いのかしら)
那子はぷりぷりと苛立つたぬ子を抱きしめる。茶褐色の毛皮からは、相変わらず清々しい森の香りがした。




