5 虫は食べないのだ
翌朝目覚めると、隣の布団で丸くなって眠っていたはずのたぬ子の姿がない。
寝起きの頭が動き始めるまで、たっぷり一呼吸。
やがて状況を理解し、慌てて飛び起きた那子が障子を開くと、所々に篠笹の茂る荒れた庭で駆け回る子狸の姿があり、ほっと胸をなで下ろす。早起きのたぬ子は、どうやら暇を持て余し、蝶を追いかけているらしい。
(子どもとはいえ狸なのだから、一人で遊んでいてもきっと平気よね)
家の敷地内でもあるのだし、と結論づけ、ひとまず台所に向かうことにした。
昨今、都市部では電気や瓦斯が普及しているのだが、あいにく、山奥に位置する砂川家までは届いていないのだと、露景から昨日、簡単に説明を受けていた。
火起こしの方法は知らぬでもないが、慣れていない。那子は手間取りながらも火をつけ米を炊き味噌汁を作り干物を焼いて……盛大に焦がしてしまった。
座敷に、漬物を噛む小気味よい音が響く中、空気はずんと重たい。
ちゃぶ台がないらしく、年季の入った箱膳と膝をつき合わせる朝食時。
三人分の膳が出ているが、たぬ子の姿はない。狸なのだから、人間と同じ食事は不要かとは思ったが、事前に確認していなかったので念のため用意したのだ。しかし案の定、たぬ子はどこかへ遊びに行ってしまったらしく、朝食に現れない。
露景が、いつものことだから気にするなと言うので、妖怪の子育てとはそういうものなのだろうかと納得し、結局露景と二人きりで朝食をとっているという次第である。
半ば炭化しかけた魚の干物から、辛うじて食べられそうな部分をほじくり出す露景の顔色をちらちらと伺い、那子は身体を縮こめつつ箸を運ぶ。
視線を感じたのか、露景の瞳が動き、膳から那子へと向けられた。那子は反射的に目を逸らしてから、思い直して顔を上げる。
「旦那様、申し訳ございません」
露景は魚の身に突き立てた箸を止め、微かに首を傾ける。那子は続けた。
「せっかくの食材を粗末にしてしまい……次は気をつけますので」
やっと、那子の謝罪の理由に気づいたらしい露景は「ああ」と漏らしてから、再び箸を動かした。
「何も謝ることはない。それに、食事だって作らなくていい」
「え、ですが」
「食べなくても生きていけるし、君に頼みたいのは子守だ。別に家政を取り仕切る必要などない」
「それは」
名ばかりの妻なのだから、出しゃばるなということなのだろうか。いいや、しかし。
「お気に障りましたのなら申し訳ございません。でも、食事はとらないと身体に悪いです」
「調理場に置いてあった食材は全て、君のためにそろえた物だ。好きな時に好きなだけ食すといい。私は規則正しく朝に起床するとは限らないし、たぬ子も腹が減れば自分で物を食うだろう。家を清潔にしたいなら気の済むまでするといい。だが、強制はしない。あくまでも、君が暮らすためにしたいことだけをしなさい」
「ですが」
露景の眼球が再び動く。顔を向けず、目の端で視線を寄越されて、那子は萎縮した。
「差し出がましいことを申し上げました」
「いいや」
光の加減で藍色を帯びる露景の瞳が膳に戻ると、二人の間には再び沈黙が訪れた。
かちゃりかちゃりと、箸が食器に触れる音だけが、気詰まりな静寂を揺らしている。やがて思い直したのか、露景は焦げた魚の欠片を嚥下して、口を開く。
「心遣いはありがたい。だが、私のことは気にしなくていい。君はただ、たぬ子を養育してくれ。決して寂しがらせず、まっとうな子に育ててほしい。……私にはそれができないから」
まるで深い水底に沈んだように静かなその声からは、苛立ちや憤りどころか、諦念すらも感じ取れなかった。
踏み込む立場にはない。露景も、那子に心の内を明かしたいわけではないだろう。
しかし、ほとんど動かない彼の頬に張りついた陰に、どうしようもなく心を乱された。だが、露景が自身の周囲に見えない壁を張り巡らせていることは明白である。軽々しく挑む気概はない。何よりも、そのようなことはただのお節介なのだろう。
そうして悶々としながら大根の漬物を箸で取った時である。
不意に、廊下を何者かが駆けて来る床鳴りがした。足音が次第に近づき、部屋の前で止まるや否や、障子ががたがたと揺れ始める。細く開いた隙間をこじ開けるように、赤い着物の裾とよく日に焼けた小さな足がにゅっと割り込んだ。
「おっとさん!」
明るい声と共に室内に転がり込んで来たのは、小さな身体。五歳前後と見える、人間の女の子である。
彼女は勢い余って床に突っ伏した後、ぱっと顔を上げ満面の笑みを浮かべ、那子たちに向けて腕を突き出した。
「見て、取った!」
「ひっ!」
思わず、引きつった声が漏れてしまう。少女の丸っこくて愛らしい手に握られているのは、鮮やかな緑の……芋虫だ。
子どもに拘束されて恐ろしいのだろう、哀れな芋虫は身をくねらせて、何とか逃げだそうと奮闘している。
突然の事態に目を回しかけて口を開けたり閉じたり繰り返す那子だが、露景は相変わらず冷静だ。
「うん、そうか、葉っぱの上に戻して来なさい、たぬ子」
「たぬ子?」
那子の上ずった声に、露景は軽く眉を上げた後、「ああ」と頷いた。
「そうか、まだ人間に化けたたぬ子を見たことがなかったか」
「化けた……」
「たぬ子は妖怪だ。妖狸のことは知っているだろう? 人や物に化けるのだ。たぬ子は一緒に暮らす私に合わせ、人型を取っていることが多い。まだ幼いから、疲れると狸姿に戻ってしまうが」
「おっかさん、たぬだよ」
「ひゃあっ! い、いいいいもっ、芋虫!」
衝撃の事実を語る露景の顔を呆然と見つめていたところ、まるで瞬間移動でもしたかのように、膝の上にたぬ子が飛び乗って、那子の鼻先に緑のうねうねが接近した。
危うく引っくり返りそうになった那子の横から濃紺の着物に覆われた腕が伸び、膝がふと軽くなる。露景がたぬ子を抱き上げ自身の方に引き寄せたのだ。
「たぬ子、食事の場で暴れてはいけないよ。とにかく、その芋虫を帰してあげなさい」
「やだ! たぬ子が捕まえたの。おっとさんにあげるの」
露景の秀眉が、八の字に下がる。
「私は虫は食べないのだ」
そういう問題ではないだろう。
穏やかながら淡泊な抑揚で返されて、たぬ子の肩がしゅんと落ちる。その尻辺りに、気落ちして脱力した狸の尻尾が見えたような錯覚に陥り、那子はたぬ子を呼んだ。
「わ、わあ、芋虫さん探してくれたのね。お父さんも喜んでいるわ」
「私は別に」
露景の言葉を目顔で封じ、那子はたぬ子と視線の高さを合わせる。
「でもずっと握っていたら、芋虫さんも痛い痛いってなっちゃうから、私と一緒に葉っぱの所に帰してあげましょう」
「うう、でも」
「見せてくれるなら、芋虫さんが元気にしているところが見たいのよ。だから後で、一緒にお外で芋虫さんを探しましょうね」
「うん……わかった。じゃあ、おっかさん。お願いがあるの」
「どうしたの?」
「一緒にかくれんぼしよう!」
「いいわね、楽しそう」
「ほんと?」
「ええ。でも朝餉が終わったらね。たぬ子も一緒に食べましょう」
人間姿ならば、人と同じ食事が取れるだろう。念のためにと用意していたたぬ子の膳も、無駄にならなくて済みそうだ。
目線で膳を示しながら答えれば、しおれていたたぬ子の顔が、一気に明るくなる。弾かれたかのように背筋が伸びたと同時、結わずに下ろしたままの茶褐色の頭髪の間から、丸みがかった耳がぴょこんと飛び出した。半狸姿のたぬ子は、露景の腕から抜け出した。
「約束だよ! じゃあ、芋虫さん戻してくる!」
あまりの活発さに目を白黒させているうちに、たぬ子はぴょんぴょんと畳の上を跳ねて縁側へと走る。無作法を咎める間もなく、幼子の姿は四足歩行の獣の姿に転じ、庭に生い茂る篠笹の間に消えて行った。
「あ、芋虫さんを振り回したらだめよ……」
膳の前で暴れてはいけないだとか、家の中で走り回ってはいけないだとか、言うべきことは多々あったのだが、結局口にできたのは、小さな生命を案ずる言葉だけ。しかも当のたぬ子は、すでに尾の先すら見えない場所にいる。
まるで嵐のようだな、と思いながら、那子はゆっくりと顔を室内に戻す。ほんの一欠片の動揺もない露景と視線が合った。
「色々と、教えてやってくれ」
「はい……」
露景がたぬ子を引きとってから、一ヶ月ほどだと聞いている。その間、父親として露景が我が子にどのように接してきたのかわからないが、少なくともあまり積極的な関わりは持っていなかったと見える。これからは那子が母親代わりとして、たぬ子を慈しみ、教え諭さなくては。
(でも、妖怪世界の常識なんて私も知らないし、何をどうやって教えればいいのかしら。きっと旦那様にも、わからないのだろうけれど)
責任重大かつ前途多難。那子は内心で小さくため息を吐いた。




