3 妻はいらない、母が欲しい②
黒い丸耳がぴくりと動く。やがて、おずおずと子犬の首が曲がり、真っ黒くつぶらな瞳が那子を捉えた。
向けられた顔は毛むくじゃら。間違いなく獣である。
じっと見つめ返しながら、脳内で様々な思考が飛び交った。
露景は、妻はいらぬと言った。那子に、夫ではなく子どもの世話をするようにと依頼した。あの子犬の母が那子だというのなら、子犬の父親は当然露景なのだろう。
もしや、砂川露景は獣しか愛せない男なのだろうか。ならばなるほど、彼に人間の妻は不要だろうが……理解はいっこうに追いつかない。
那子は危うく目を回して卒倒しかけ、辛うじて踏みとどまる。
いやいや、そんなわけないだろう。そもそも、犬と人間の間に子が生まれるなどあり得ない。
だがしかし、目の前のふわふわは、紛れもなく。
「だあれ」
「しゃっ……犬が、喋っ……」
「犬ではない。狸だ」
「たぬ……!」
「たぬ?」
黒いふわふわに、はしたなくも指を向け「たぬき」と言いかける。喉の奥に絡まる声を、子犬改め子狸が、こてんと首を傾けて繰り返す。
「たぬ、たぬ?」
狸はぴんと耳を立てて目を輝かせ、露景の腕をすり抜けて、那子の膝に飛び乗った。
「たぬ、たぬ!」
嬉しそうにしっぽを振りながら那子を見上げる狸。目を白黒させていると、露景は何かに思い至ったらしく「そうか」と頷いた。
「呼ばれたと思ったのだろう。指まで差されたら、なるほど、そう思うものかもしれない」
そんな強引な。
那子は、鼻先が擦れそうな至近距離でぴょんぴょんと飛び跳ねる子狸を持て余す。眼前に、つぶらな瞳を湛えた愛らしい顔が現れたと思いきや、跳ねていた子狸の身体が落下すると、代わって視界に映るのは全く動じた様子を見せない露景の涼やかな顔だ。その素早い切り替わりに目眩を覚え、那子は子狸の身体をわしっと掴み、胸に抱きすくめた。
獣の香りが漂うことを想像したが、那子の鼻先で揺れる黒い毛並みからは、初夏の森のようなからりとしたよい匂いがした。那子は腕の中の小動物を撫でて宥めると、ぴこぴこと動く丸い耳の間から、露景の顔を窺った。相変わらず、静かな目をしている。
「あの、この子の名前は?」
まさか、たぬ、ではないだろう。そう確信して訊ねれば、斜め上の答えが返る。
「名前? ……ああ」
露景は軽い瞠目の後、さらりと言った。
「そういえば、なかった」
「ない……」
「厳密には、名前があるのかないのかも知らないのだ」
露景は再び腕を組む。ふと庭の方へ投げられた眼差しには、寂寞か懐古か、心の奥底に仕舞った大切な物を眺めるような色が浮かんでいる。
「一ヶ月ほど前、その子を初めてこの腕に抱いた時、母親はもう動かぬ身となっていた」
つまり、子狸は、露景の知らない場所で生まれたのだろうか。
彼と、彼の子狸の母親の間にどのような感情が生まれ育ち、どのような出来事があったのか、那子には想像のしようもない。しかし、露景の瞳に過る陰を見て、那子は胸の奥を強く掴まれたかのような息苦しさを覚えた。
「あの……旦那様」
妻ではないならば、と女中らしく呼びかけた那子に、露景は問いかける目をした。那子は、いくらか落ちついた様子の子狸を畳に下ろして続ける。
「では、この子に名前をつけてあげてください」
「私が?」
「そうです。名前は、親から子どもへの最初の贈り物ですから、旦那様がぜひつけて差し上げてください」
「……名前というのは、それほど重要なものなのか?」
何度か目を瞬かせてから口を開いた露景は、まるで異国の奇習でも耳にした、といったように目を丸くして、少し思案した。そして。
「この子の名は」
「たぬ!」
再び跳んだ黒い塊に意表を衝かれ、思わず小さな悲鳴を上げてしまう。子狸はもう一度那子の膝によじ登り、鼻先が触れ合いそうなほどの近距離で、無邪気に目を輝かせた。
「たぬ、たぬ!」
「名は、たぬ、だそうだ」
「それはいくら何でも」
「たぬだよ!」
「だめなのか?」
露景は、悪意の欠片もない顔に純粋な疑問を浮かべている。
(だめ、なのかしら?)
この家に流れる独特の空気に流されつつあるのか、那子自身、わけがわからなくなってきた。
鶴や亀といった縁起のよい生き物から字をもらうのは、一般的なことである。虎や熊など、屈強な動物から名をつけることもある。しかし、狸はどうだろう。
人間砂川露景の子であるのだから、めでたくもない獣を連想する名前をつけるのはいかがなものかと思う。しかし、この子は狸なのだ。ならば別に不都合はないのではなかろうか。当の本人も気に入っているようなのだし……。
「では、せめて『たぬ子』でいかがでしょうか」
「たぬこ……!」
子狸の目が、縁側から差し込む初夏の陽光を浴びて煌めいている。露景も穏やかな調子で頷いている。
「ああ、ではそうしよう」
子狸改めたぬ子を見つめる露景の眼差しは温かく、決して娘を蔑ろにしているわけではないのだとわかる。しかし、どうも浮世離れした男だ。
いったいどのような過去を持ち、何を経験して今に至るのか。気にはなったが、踏み込む資格はきっとない。那子はかりそめの妻。実際のところは家族ではなく、雇われの子守女中と何ら変わらないのだから。




