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妖怪画家と雇われ妻、そして狸 〜大正広告結婚はあやかしの色〜  作者: 平本りこ
第一話 その面影を忘れぬように、妖怪画家は彼女を描く

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2 妻はいらない、母が欲しい①

 ずっと、家族が欲しかった。


 ただ血がつながっているとか、同じ家に住んでいるとか、そういうものではなくて。


 心からの慈しみを持ち、時には諍い合い、それでも最後にはやはり「ここは世界で一番安全で、愛情に満ちた場所なのだ」と思えるような、そんな家族の団らんに、見澤(みさわ)那子(なこ)はずっとずっと憧れていた。


 だから伯母が、新聞に載った結婚広告……しかも定期購読しているものではなく、たまたま風に吹かれて庭に舞い込んで来たのだという一枚を見て、ほとんど独断で那子の縁談を纏めてきた時にも、戸惑いこそしたが絶望は抱かなかった。新しい家族ができるのは那子にとって、不安よりも大きな期待に満ちたことなのだ。


 それに、那子を育ててくれた伯母や入り婿の伯父の家業である小料理屋が傾いている今、これ以上厄介になるのは、互いのためによくないだろう。


 時は大正。戦後の好景気が騒がれ、人々の生活が大きく変わった時代。富める成金がほくそ笑む一方で、庶民の食卓は困窮を極めていた。


 日本全国米がないぞと騒ぎになって、暴動が起きたのも記憶に新しい。


 米がなければ、和食は出せない。当然、那子の育ての親である伯父が営む小料理屋、みさわ亭の経営も火の車。給仕や料理人に一人また一人と暇を出し、とうとう那子の番がやってきた。


 見澤那子は今年、二十三歳になった。那子をこの世に生み出してくれた両親は、一人娘が物心つく前に、山の事故で亡くなったという。


 那子は父方の伯父が婿養子に入っていた小料理屋みさわ亭に引き取られ、この年まで大きな病を得ることもなく、養育してもらった。


 親のない子どもはどこへ売られても不思議ではない。そんな中、衣食住に困ることなく育ててもらったことに、感謝を抱いている。恵まれた境遇にありながらも、伯父一家の他に家族が欲しいなどと願うのは、おこがましいことだろう。


 しかし、那子を見る伯母の目に時折浮かぶ厄介そうな色や、二人いる従妹の言動の端々から垣間見える軽侮の念、そして妻に頭が上がらない入り婿である伯父の無関心に直面する度、ああ、やはり那子は彼らにとって本当の家族ではないのだなと痛感するのである。


 だから、家族が欲しいと切望していた。それなのに。


「妻はいらない、ですか?」


  山奥にぽつんと建つ純和風の平屋。それが、那子の夫となる男、砂川(すなかわ)露景(ろけい)の邸宅である。


 彼の生業は画家。それも、妖怪画を得意としているという。


 砂川露景というのは画家としての名であり、本名は別にあるはずだ。しかし彼は、大きな風呂敷包みを一つだけ背負って訪ねて来た新妻を自ら玄関まで出迎えて「砂川露景だ」と淡泊に名乗っただけだった。


 嫁入り道具も、たいそうな花嫁装束もいらかい。ただ、身一つで来てくれたらそれでいい。そう言われ、半信半疑ながら陸蒸気を乗り継ぎ山を登ってたどりついた嫁入り先。夫となる男の言動からはしかし、歓迎も拒絶も感じられない。


 緊張に目を回しかけた那子を座敷に通すと、露景はしばらく姿を消して、やがて黒いっぽい子犬を抱えて戻り、那子の正面に胡座をかいた。


 そして、さきほどの衝撃的な発言である。


「そうだ、妻はいらない」


 再度断言されて、那子は呆然と、目前の男の姿を眺めた。


 怜悧な印象ながら、どこか掴みどころのない空気を纏って見える。


 切れ長の目の中でじっとこちらを見下ろす黒い瞳には、感情を読ませない鋭さがある。すっと通った鼻梁は高く、薄い唇は真っ直ぐに引き結ばれており、微笑みの片鱗もないのだが、不思議と冷徹な印象はない。画家、という職業から那子が想像していたよりもずっと体格がしっかりとしていて、顎から衿にかけての首筋には適度な太さがあり、袂から覗く腕にも厚みのある筋が浮いていた。とはいえ威圧的なわけでもなく、どちらかといえば物静かな印象である。


 年齢は二十八だと聞いている。見たところ、健康を害している様子もなく、どこにでもいる年相応の男であった。いいやむしろ、容姿端麗と分類される類だと思う。


 そんな健全な男が、妻はいらないと言う。


 この年まで妻がいなかったからこそ、新聞に結婚広告を載せたのではなかったのか。それなのに、いったいなぜ。


 そこまで考えて、那子はある可能性に思い至り、全身を氷の霧に包まれたかのような感覚を抱いた。


「あ……それでは、私のことがお気に召しませんでしたでしょうか」


 露景はぴくりと眉を動かしてから「いいや」とかぶりを振る。


「対外的には妻にはなってもらう。だがむしろ、欲しいのは……母だ」


 思いもよらない要求に絶句する。


 はは、つまり、母?


 年長の男が発した言葉の意味が脳内で咀嚼されるごとに驚愕が全身にいきわたり、眼球が飛び出そうになるほど目が見開かれた。露景はじっと那子を見つめて動かない。那子は、やっとのことで、喉の奥からかすれる声を絞り出した。


「それでは、お母様はすでに……」


 言い淀んだ那子に一瞬だけ怪訝そうな目を向けてから、露景は「ああ」と呟き、軽く視線を逸らす。何やら口元をもごもごとさせた後、戻ってきた正面顔には、先ほどと全く同じ、淡泊なほどの冷静さが浮かんでいた。


「私に母は不要だ。君に頼みたいのは、子ども……女の子の世話だ」


 何とも気まずい勘違い。赤面しかけたが、次に続く露景の言葉に顔の熱はさっと冷える。


「そのことは事前に、君のご両親に話しておいたはずだが」


 そうだったのか。那子は正座にそろえた腿の上でぎゅっと拳を握りしめた。伯父と伯母からは、何も聞いていなかった。子ども、ということは露景には前妻がいるのだろう。死別か離別か不明だが。


「すみません、もしかすると私、話をちゃんと聞いていなかったようです」


 おそらく、この結婚話をとりまとめた伯母は露景から説明を受け、妙な縁談だなと思ったことだろう。


 しかしこれまで何度も縁談が破棄されている那子を受け入れてくれる男がいるのなら、是が非にでもと考え強引に進めたとしても責められない。那子は、ただでさえ火の車であるみさわ亭の穀潰しなのだから。


 そうだ、自分にだって非はあるのだ。


 那子はそっと左手で右の腕を撫でた。着物の布地の下にある醜いもののため、那子への求婚者はいつも去って行った。露景はこのことを、知っているのだろうか。


 みさわ亭を出てからずっと胸の中で期待に輝き高ぶっていた熱が、冷水を浴びせかけられたかのように冷えて、腹の奥に重苦しく沈んだ。落胆を悟られないよう、那子は表情を取り繕って首を傾ける。


「ですが、それなら女中を雇えばよいのではありませんか?」

「ああ、実は先日子守女中を雇ったのだが、事前の説明が不足していたらしい。このような山奥で、男と子どもの三人暮らしは世間体が悪いと言い、すぐに辞めてしまった。だから君のことは女中ではなく妻にと求めたのだ。この婚姻も、この子が成長したら解消してもらって構わない。数年で終わるだろう。どうだ、受けてくれるか」


 数年で終わる。それではただの仕事ではないか。


 ずっと家族が欲しかった。しかしここでも、その願いは叶えられそうにない。淡い期待を抱いていた分、失望は大きい。目眩がするほどの衝撃だ。しかし。


(こんな私を必要としてくれる方がいるのなら)


 伯父夫婦の元に戻るのも忍びなく、置かれた場所で努力してみる方がずっといい。


 那子は戸惑いながらも、腹の奥に力を込めて頷いた。


「私でよろしければ」


 露景はじっと那子の顔を眺めた後、ちょうどいい厚さに整った唇を開いた。


「子守を厭わず物怪を恐れぬ女人」


 露景の口から何の脈絡もない言葉が飛び出し、那子は首を傾ける。露景は、組んだ胡座の中央で丸くなっている黒い子犬の背中を撫でつつ言った。


「結婚広告に載せた、妻の条件だ。君のご両親からは、条件通りだと聞いている。あとは、君自身がそれに沿うと思うならば、私に値踏みするつもりはない」


 一呼吸の間をおいて、彼の突然の言葉の意図が腑に落ちる。那子が「私でよろしければ」と言ったので、「条件さえ合えばよい」と返されたのだ。


 穏やかな声音に、高圧的な響きはない。しかしあまりにも無関心。


 黙り込んでしまった那子に再び視線を注いでから、露景は子犬の脇に手を差し込んで、持ち上げる。子犬はばたばたと手足を振り回したが、露景の腕に抱かれるとすっと静かになった。


 子犬と見つめ合う露景の瞳に、那子に向けられるよりも温かな色を見て、ちくりと胸が痛む。やがて露景は子犬の頭を撫でてから耳を疑うようなことを口にした。


「よかったな。あの女人が君の母親だぞ」

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