10 俺とつがいになれ
露景の外出から、今日でもう五日になる。行き先は不明なものの、そう遠くへは行かないと言ったはず。いったいどこで何をしているのだろうか。
最初は気にした様子もなく無邪気に遊んでいたたぬ子だが、三日目には「おっとさんどこ?」と言い始め、四日目には深夜に泣きながら目を覚まし、五日目の今日は一周回って空元気である。
「おっかさん、かくれんぼ!」
洗濯物を伸ばす那子の背に、たぬ子が突然飛びついた。
「お洗濯終わったら、たぬを探してね」
軽い衝撃にたたらを踏んで振り返ると、すでにたぬ子は子狸の姿になって、茂みの方へと消えるところであった。
「あ、待って……遠くへ行っちゃだめよ」
「はーい」
まだやるべきことが残っているのだが……と躊躇うが、長引く父の不在で寂しさを持て余しているのだろう。少しでも元気になってくれるのならば、かくれんぼくらいどうということもない。
那子は盥に入れていた洗濯物を紐に掛けて干し切ると、ぐるりと辺りを見回してから声を張った。
「もういいかい」
返る声はない。たぬ子はすでにどこかに隠れてしまったようだ。
「さてと、どこにいるのかしら」
意図して明るく言い、庭の奥へと足を進めた。建物に近い場所は徐々に草刈りを進めているが、出入りの動線にも重ならない裏手の茂みは未だ手つかずだ。
荒れた庭を一周し、篠笹が生い茂る建物の裏手辺りに差しかかった時、草ががさごそと擦れる音がした。たぬ子が潜んでいるのかもしれない。
とはえいえ、梅雨が明け、日に日に気温が高まる時期である。ただでさえ虫が増える季節に、茂みに分け入るのはできることならば避けたい。
那子は足を止めて目を凝らし、葉の間で動く影がないか観察する。目を細めた視界の端で、ひときわ騒がしく草が揺れた。
「たぬ子……」
「よお」
茂みから現れたのは、たぬ子と同じ四足歩行。しかし、気さくに発せられた挨拶の声は、たぬ子よりもずっと太くて低い。那子は、草の間から飄々と歩いて来た赤茶色の獣の名を呼んだ。
「覚?」
「どうも、覚えていてくれたんだな。……え、『こんな怪しい妖怪の名前を忘れるはずがない』? おいおい、ひでえな」
「心を読まないで」
「読もうとしなくても聞こえるんだよ」
覚は長い手足で那子の正面までやって来ると、にやりと笑う。
「あの画家、今日はいないのか。行き先も告げずに家を出てもう五日? 新妻を置き去りにして外泊とは、画家先生も隅に置けないねえ。あ、妻は妻でも雇われ妻だったか」
「何しに来たの」
心の中を覗かれて、ずけずけと言語化されるのは不愉快だ。
「へへっ、冷たいな。だがまあ、実のところおまえは気が強い女なんかじゃない。むしろ、健気な薄幸娘だろ。どうも守ってやりたくなるんだよなあ。なあ、那子」
名乗った記憶ないのだが、あまりにも自然に呼ばれたので、身体が反応してしまう。覚は、耳を傾ける姿勢になった那子を真っ直ぐ見上げた。
「おまえ、家族の団らんに憧れているんだろ? だが、当の旦那はつれない態度。そりゃあんまりだよな。じゃあさ」
覚は軽く首を傾けて、衝撃的なことを口にした。
「俺とつがいになれ。心配するな。俺ならあんな昼行灯みたいな甲斐性なしよりもずっと頼りになるし、ちゃんと家族になって、おまえの望みを叶えてやれる。どうだ、いい話だろ」
昼の日差しに透かされて赤みを帯びた黒い瞳からは、先ほどまでの揶揄うような色は消えていた。冗談混じりの提案ではないのだろう。だからいっそう、那子の思考は真っ白になる。辛うじて絞り出されたのは呆けた声だ。
「……猿と?」
「猿じゃねえ。覚だ」
間髪を入れずに切り返されても思考が追いつかない。
確かに那子は、家族という存在に憧れていた。結婚して、ちゃんと努力して良妻賢母になれば、人並みの幸せを掴めると思っていた。
しかし砂川露景は妻を必要としていない。そもそもが、獣しか愛せない男らしいのだ。嗜好は人それぞれ。しかしこれでは、那子の力ではどうにもならない。
そんな折、突如の求愛である。しかも相手は長毛の猿。もちろん、ただの獣ではない。妖怪だ。覚という妖怪のことはほとんど知らないが、人の心を読む特性があるらしい。そういえば、それ以上の知識は持ち合わせていないのだが。
「何だ、覚を知らないのか」
意外そうに眉を上げ、覚は案外親切に説明を始めた。
「俺たち覚は、目の前にいる生き物の思考が見えるんだ。だから、出し抜こうとしても無駄だぜ。たとえば誰かが俺を捕まえようと企んだとしても、どうやって罠にかけるつもりか全部筒抜けだ」
「敵なしなのね」
「まあな。で、俺たちの一族には、雄しか存在しない。だから、俺らは人里に忍び人間の女とつがい、子孫を残す。おまえ、さっき『猿と人間が婚姻なんて』って心の中で馬鹿にしたけどな、別に何にも妙なことじゃねえんだ。だって俺の母親も人間だからな」
「まさか」
「他の妖怪の例に漏れず、俺も人間の男に化けられる。美男だって評判なんだぜ。見せてやろうか?」
山里に行けば、妖怪と人が同居していたり、近所の山に暮らす妖怪が村の守護者なのだという話は枚挙にいとまがない。
昔から日本人のすぐ側には怪異があって、ある者は神となり、ある者は妖怪となった。文明開化の嵐が巻き起こり吹き去って、近頃ではデモクラシーなどという横文字が騒がれるようになったこの時代でも、妖怪は身近な隣人なのだ。
だから、目の前の長毛猿が妖怪だというならば、那子と夫婦になることもできるはず。しかし。
「でもだめよ。私には」
夫がいる、と言いかけて、事実とは乖離があると思い直す。
「娘がいるの」
そして、そのたぬ子が父と慕う砂川露景はやはり、那子にとっては尽くすべき相手なのだ。
「そうやって何かにしがみつく感じ、いじらしいねえ」
ぴりり、と微かな腹立たしさが身体の芯を貫いた。それを察したらしい覚が「そういえばたぬ子はどこに行ったんだろうなあ」とわざとらしく言ったので、那子は茂みに近づいた元々の目的を思い出し、辺りを見回した。
「そうよ。かくれんぼをしていたの。早く探さないと」
「変化においちゃ右に出る者がいない妖狸相手にかくれんぼって、あんたよくやるよな」
確かに覚の言う通りだ。岩にでも化けて風景に同化されてしまえば、到底見つけることは叶わない。
「一緒に探してやるよ。俺には心が見えるんだ。たとえ岩に化けたって、感情が漏れるのは止められない。心の声が聞こえちまえば、かくれんぼなんて勝負にならねえ」
「大丈夫よ。私一人で」
「ざっと気配を探ったところ、この家の敷地内にはいないみたいだぜ。人間一人で森を探索できんのか?」
「遠くへ行っちゃだめって言ったのに」
「妖怪にとっちゃ、同じ神が治める山から出なけりゃ遠くじゃねえよ」
覚は二本足で直立し、動きを止めて目を閉じた。まるで風の音を聞いているかのようだ。
「……妖狸とはいえ、子どもだろ。危険な目に遭っていないとは言い切れねえからな。早く見つけた方がいい」
指摘され、胸の奥底から不安がむくむくと湧いてくる。かくれんぼでたぬ子の気配を見失うのは二回目だ。たぬ子には今度、他の遊びを教えてあげようと心に決めた。
「じゃ、行くか。聞き込みしながら歩けばそのうち見つかるさ。かくれんぼとしては反則だけど」
軽やかに宣言し、覚は四足歩行で門の方へと向かう。一瞬の躊躇の末、那子は小走りで覚を追い、横に並んだ。
「ありがとう、覚……そういえば、あなた名前は?」
「覚だよ」
「ではなくて」
那子の問いかけの意味を理解したのだろう、覚は顔を上げ、さらりと言った。
「個体としての名前はない。群れる妖怪の中には身体の特徴とかで呼び合うやつらもいるみたいだけど、俺には不要だ」
「名前が、ない?」
「別に不便はないぜ。人間こそ、色んな名前がありすぎて、よく覚えられるもんだなって感心するよ。まあ、俺は覚えなくても聞こえてくるから不自由しないけど」
名もない覚は淡泊に言い、木々が生い茂る山頂側へと長い手足を進めた。




