1 五月雨と子狸
空は、滂沱の涙を流す。
五月雨降りしきる夕のこと。西空を染めた茜色を分厚い雲の緞帳が呑み込んで、天は錆色に渦巻いている。
禍々しい色を孕む曇天の下。冷たい礫を浴びながら、着流し姿の男が一人、心許ない足取りで山道を進んでいた。
踏み出す度に、身体が大きく左右に揺れる。虚ろな目にはまるで、魂が抜け出たかのように生気がない。
ゆらり、ゆらり。
宵闇の中で見たならばきっと、幽鬼と見紛う者もいるだろう。
そんな男の歩みは、泥水が流れる坂道の真ん中でぴたりと止まる。足先には、雨粒を弾く鼠色の布の塊がある。
男は、まるで見えない手で背中を押されたかのようにがくりと膝を突く。震える指先で鼠色に触れ、己の方へと軽く引いた。
ずれた布の隙間から、青白い肌が覗いている。鼠色の塊と見えたのは古びた絣の着物のようで、それを纏うのは、とうに体温を失くした若い女であった。
男は呻く。路傍に転がる岩のように無機質な身体に縋りつき、雨とも涙ともつかない雫を頬からしたたらせる。
「すまない、すまない」
「……ふ……」
呆然と繰り返される懺悔に、ふと、誰かの小さな声が絡まった。男は動きを止めて、耳をそばだてる。
「……ふ、あ……」
鼓動を失い硬直しているはずの女の身が、何者かに揺らされる。その腹の下から濡れそぼった黒い手が飛び出して、緩い斜面を流れる濁った雨水をぺちゃりと打った。
それは、体毛にびっしりと覆われた短い手。いいや、前足というべきか。
続いて現れたのは、濡れた黒豆のような鼻先と、ふわふわとした茶褐色の顔面である。
それは、ふん、と四肢を踏ん張って、自分に覆い被さっていた冷たい身体の下から這い出ると、ぶるりと全身を震わせた。その拍子に、体毛から弾き飛ばされた水の礫が男に襲いかかったが、彼は呆然と、泥水を浴びるがままになっている。
ずっしり染みこんだ水分をせっかく弾いた茶褐色の塊は、大粒の雨に襲われてすぐにずぶ濡れになる。それはもう一度、不快げに身体を振って、
「だあれ?」
小さいながらも鋭利な牙が並ぶ鼻面から発せられたのは、舌足らずな声だった。つぶらな目で男を見上げ、人間の幼子のように瞬きを繰り返す。その姿は紛れもなく。
「子狸」
しかしただの狸ではないだろう。獣にしては瞳に知性が宿り過ぎている。子狸は賢そうな目をただぱちくりとさせながら、男を見上げている。
「まさか、子がいたのか……?」
亡骸の腹の下から這い出て来た子狸。よく見れば女のこと切れた体勢は、自らの身体を盾にして何かを守ろうとしていたかのように見える。
「ああ、そうだったのか」
母子に起こった悲劇の委細を察し、男の表情がぐにゃりと歪む。
彼は、まだ状況の理解ができていない様子の子狸を持ち上げて、懐に入れて抱きしめる。濡れた体毛から水がしたたって、男の胸を湿らせた。まるで、心が凍りつくほどの冷たさだ。
「この子のことは、私が責任を持って育てるから。だから……許してくれ」
吐き出した息は、細く震えていた。
懺悔の声は雨に溶け、ただ、鈍色の世界に降り注ぐ。




